きみと息をしたくなる

錦魚葉椿

第1話

 家は薄暗くて、テレビの音しかしない。


 弟は相変わらず、自分の部屋に籠城している。廊下には母親が気休めに買った通信教育の教材が何種類も積み上げられている。

 段ボールは永遠に開封されないだろうが。

 私の予備校代はおろか模試代さえ惜しむのに、弟にはそんな無駄金を使う。

 リビングにいたら、エンドレスに続く母の愚痴を聞かなければならないから、早々に夕食を切り上げ、わざとらしく教科書を手に、廊下の突き当たりの自分の部屋の扉を閉める。

 壁の向こうから弟の罵声が聞こえる。

 何を言っているのかわからないが、耳にイヤホンを突っ込んで、R&Bの音量を上げた。


 ひとつ年下の弟は高校に入った時から、不登校がちになった。

 扉が15センチほどしか開かないように、扉の前まで勉強机を移動させて、人の侵入を阻止している。母は毎日そんな弟を引きずり出して車に押し込み、学校まで送っていく。

 希望していた学校よりレベルを落として高校に入ったが、彼はその学校を蔑み、そんな学校に行く自分を恥じた。二年には何とか進級したが、上から10人も難しいが下から10人に入るのも難しかろうに、総合成績は最下位から数えて常に10番以内。

 暴れているのだろう。振動だけが床を伝ってくる。


「あんたたちが俺の進路を妨害するから、俺はこんな不幸に遭ってるんだよ」

 弟の怒鳴り声を冷ややかな気持ちで聞く。

 妨害も何も、両親かれらが言ったのは受かる学校を受けろ、ということだった。

 志望校とやらも十分勉強すれば受かっただろう。

「こんな学校に通うのが恥ずかしい」という。私なら”こんな学校”で最下位を取ってしまうのが一万倍は恥ずかしいと思うが。

 彼の心を支配する根拠のない脆弱な自尊心を、世界の一番遠くから冷ややかに眺めている。


「お前の下宿代に払う金はない」

 何校目かの志望校のパンフレットを広げた私の顔を一瞥もせずに、もう少し言いようがあるだろうと言いたくなるようなセリフを父は吐いた。

 私がどんな志望校を持ち出しても、そんな学問が何の役に立つんだとか、誰がその学費を払うんだとか、そういう言葉で話し合いを拒絶する。

 可能な限り両親ぱとろんの希望に添おうと私は考えていた。

 二人は共稼ぎで、父の勤務先は大企業だ。

 生活は堅実で、聞く限り借金もない。

 無理をさせる気は勿論ないが、どのくらいまでなら払えるのかという話し合いにも応じない。どこぞのならず者国家のようだ。

「下宿とか、そんなこと言わないわよね。お金がかかるものね。」

 幼い子を諭すような媚びた声で母がいう。

 こちらがまるでとんでもない暴論を吐いたかのように。

 隣の部屋で弟は相変わらず何かを破壊している音がする。

 金、金、金、金。

 父は私の顔を見ない。

 ただ、金が金がという。

「そんなに学費が惜しいのなら、就職しようか。進学校から企業に就職するのは不利だけど、公務員試験を受けるなら、学力だけで行けるから有利かもしれない」

 父は私の手から志望校のパンフレットを奪って、読みかけの夕刊と一緒に新聞籠に叩き込んだ。進路相談をして初めて、彼と目が合った。

「進学させてもらう礼も言えないのか」

 両親は一度も、私が何を勉強したいのか聞いたことはない。多分これからも聞かれることはないだろう。

 弟は今日も自室で暴れている。

 自分の将来をかけたチキンレースに参加するつもりはないが、彼の首を絞めているモノは、同様に私の呼吸器も締め上げている。



 この窒息空間から一秒も早く脱出したい。

 金が金がと言われずに済む生活が送りたい。

 もし奨学金を借りて進学したとして数百万円。うまくいっても返し終わる頃は三十代。将来子供を産んでもまだ借金は残っているかもしれない。

 私も子供に金が金がと言うのだろうかと考えたら、視界がグルグル回るような気がした。




 最寄りの私大の推薦申込書に名前を書いた。

 もっともはやく完全に守銭奴と引きこもりから自由になるために。


 申込書を受け取った担任は苦い顔をしていた。

 成績は充分にクリアしていて、その申請を却下する大義名分がない。推薦は問題なく受理され、私は桜の葉っぱが散る前に進学する大学を決めた。


 父親はやっぱり「こんな大学何のためにいくんだ」と呟き、母親は「私学は学費が高いわねえ」と顔をしかめ、私の大学合格はやっぱり誰一人として祝福してくれる人のないモノとなった。

 まあ、想定内だと私は目を閉じる。

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きみと息をしたくなる 錦魚葉椿 @BEL13542

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