第5話ー忘れ去りたい過去と、忘れたくないあの頃

 過去を思い、青梅は激しい感情の渦にめまいがして、軽く眉を寄せた。


「どうしました」


 一心に青梅を描いていた文生が顔を上げる。彼の視線は手元のスケッチブックに落ちていたはずなのに、いつの間にやら青梅を見上げていた。

 声を出さないで、小さく口の端を上げてみた。それだけで文生の表情が和らぐ。

 窓の隅が雪に縁取られた頃、文生の吐いた息の白さに目を奪われた。昼の画室は暖かかった。それでも夕方ともなると、ストーブの薪が燃え尽きている。文生は薪をくべるでもなく、何かに取り憑かれたようにスケッチブックを開いているから、足先の感覚がなくなる。中には無数の青梅がいる。構図に悩んでいるのだろう、何枚も書いては目を血走らせていた。


 カーテンのかかっていない窓から隙間風が入ってくる。青梅が身震いしたら、


「動かないで」


 と、文生が鋭い声を出した。青梅はうっと身を固くした。


「寒いですね、気が付かなくてすみません」


 文生が立ち上がり、ストーブで火をおこす。次に近くにあったブランケットを青梅の身体にかけて、体温を確認してくる。これだとどちらが世話役なのか分からない。


「今日は止めますか」


 答えを求められているなら、喋ってもいいのだろう。


「部屋が暖かくなったら、再開しよう」


 コーヒーポットからマグカップに注ぎ、文生が手渡してきた。青梅はそれを両手で受け取り、口に寄せた。牛乳を入れていないから、苦みが口内に広がった。


「あんたを描きたい、もっと描きたい、俺に描かせてくれ」


 それでも体調を崩して欲しくない、と文生は右肩を少し下げて萎れたなりをした。


「いいよ、好きなだけどうぞ」


 短くなった鉛筆が床に転がっている。その横にマグカップを置いて、青梅はブランケットを剥いだ。文生が息を呑んだ気がする。


「ほら、はじめよう」


 青梅の言葉に文生は鉛筆とスケッチブックを手にし、直ちにその鋭い目で青梅を射貫いた。

 青梅はこみ上げてくる涙をこらえようと、今日最後の日を浴びた。泥水から見上げた空は、どこまでもまばゆい。その光を閉じ込めようとまぶたを閉じた。

 人形の振りを忘れていた、と頬を伝う涙を感じつつ、次に訪れた光の存在に口元をゆるめてしまう。目尻から零れた涙を、文生が舐め取った。


「なにを考えていたんですか」

「僕の恥ずかしくて忘れ去りたい過去と、お前との忘れたくないあの頃を思い出してた」

「聞かせてください」

「そうだね、今夜ね」

「なんでですか、今聞きたい」


 青梅は気を引き締めて厳しい顔をさせた。


「パーティーの時間過ぎてるよ、欠席するなら早く連絡を入れないと」


 尖った声で文生に言った。すると文生は面白くなさそうに舌打ちした。


「あと少しだけ、あんたに触らせて」


 甘えてくる文生に青梅は険を消した。約束の半分は聞いてくれるようだから、あとは好きにさせた。


 終わり

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蓮の泥の下 佐治尚実 @omibuta326

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