第2話ー画塾時代の過去

 青梅の通う画塾がじゅくの油画科に文生が入ってきた時、彼は高校一年だった。文生は直ぐに塾長の青木先生一番のお気に入りとなった。当時から文生は、有名なコンクールに入賞し、画塾に通う必要も無いくらいに優れた生徒だった。青梅はそんな文生が内心苦手だった。最初こそ文生の描いた絵の講評を人づてに聞き、一つ残らず吸収しようと躍起になった。

 それも、青梅が第一志望に落ちてから、他者の才能を妬むようになった。皆が文生を褒め称えても、文生はそれで天狗になるような男ではなかった。第二志望校の一次デッサンに通過した青梅に、文生は我がことのように喜んでくれた。それが青梅をより醜くさせた。彼の優しさが癪に障り、それからは彼が話しかけてきても無視した。

 いつも百鬼夜行ばりに陰気くさい絵を描く奴、蓮の絵を日本画ではなく油絵で表現するところが気に食わない。と、彼の才能に『変人』というレッテルをつけた。いくら努力しても本物を前にすれば、自分のちっぽけさに涙なんて出なかった。ただ嫉妬しか生まれない。


 青梅が文生の絵をしっかりと観たのは、美大でくすぶっていた二十二の頃だ。

 社団法人の公募展の入賞作品で「蓮と泥」と題された絵、淀んだ池に淡い頬紅のような蓮が厳かにたゆたう。作者は渡辺文生。まだ二十歳だった。文生の名を見た瞬間、頬が熱く発火した。と同時に、独りよがりで不遜な絵に惹き込まれもした。他に訪れた者たちは一様に、「蓮と泥」を見て、蓮の美しい描き方を賞賛した。一方の青梅は、泥こそ主体だと感じた。ぐちゃぐちゃで足を踏み込みたくないような沼の底知れぬ闇に見入った。


 ――死体でも沈んでいそう、あいつらしいな。


 と、死の臭いを漂わす文生の変わらなさに安堵した。


「渡辺くんは才能の塊だ」


 展示場で画廊主らしき年配の男が言う。才能、才能と口走る。それしか言葉の抽斗ひきだしがないようだ。

 才能。その言葉を聞くたび、青梅は口の中で苦いものが広がる。文生の絵を見ていると、青梅は地獄に突き落とされたように歯軋りする。それなのに、彼という男に強く惹かれてしまう。否定できないくらい、文生を無視できなくなった。


『青梅には才能がない、早く違う仕事を見つけなさい、その方がいい』

『そうよ、あなたみたいに普通の子が何を夢見ているの』


 ふと両親に言われた言葉がよみがえってくる。つい先日言われた彼らの本音に、青梅はなにも言い返せなかった。頭を冷やそうと美術館の外に出た。昔の自分なら文生と比べて自分の駄目なところに言い訳を連ねたはずだ。それが今や『蓮と泥』の美しさにとらわれたまま、優雅なワンピースで着飾った女性たちとすれ違っても、青梅の心は心地の良い泥にどっぷり漬かっていた。


 文生の絵を見て、青梅は気持ちの整理が付いた。両親の希望通り、美大を出てからは一般職に落ち着いた。それからスケッチすら描かなくなった。二十四の秋に、両親が事故で他界した。両親を一度に亡くした悲しみで、青梅はその時の記憶をほとんど覚えていない。ただ、どこから聞きつけたのか、親戚や両親の仕事関係の電話に混じり、文生から連絡が入った。


『青梅さん、会えますか』

「どうしてこの家の電話番号を知っているの」


 と、聞いたら、


『画塾の青木先生から聞きました』

「青木先生と連絡取ったの」

『よく近況報告をしてましたから、青梅さんの連絡先を知りたいとお願いしたら教えてくれました』


 そう言うものだから、心配してくれてありがとう、と返すべきなのに一方的に電話を切った。

 青梅は青木先生の連絡先も知らないし、画塾を出てから一度も会ってもいない。今さら昔の因縁を蒸し返すつもりはないのに、その事実を知ってしまった青梅はどうしても素直になれなかった。

 文生の活躍を知っているよ。お前の絵は相変わらず凄いな。次は何の絵を描く。身体を壊すな。ちゃんとご飯を食べているの。いつも絵に没頭して食事を抜くよね。面倒を見てくれる人はいるの。恋人は出来たか。なんて、言いたいことは山ほどあるのに、青梅のねじ曲がった性根がそれを邪魔した。


 後日、遺産を相続した青梅は、働かなくても一生食べていけるほどの蓄えが出来た。それでも無職にはならず、どうにか普通の人生を歩んでいたはずだ。年相応に恋人だっている。絵を描かなくても必要とされた。人を愛せた。それなのに雑誌で文生の特集を読んだら、自分の居場所がどこか見失う。恋人と会っても落ち着かない。文生は何をしているのだろう、なんて夢想した。

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