蓮の泥の下

佐治尚実

第1話ースケッチブック

 昼になってようやくベッドから出られた。大嶋青梅おおしまおうめは茶色のセットアップとインナーに白のハイネックを合わせて着替えた。食欲がないけれど午後のスケジュールの為に、渡辺文生わたなべふみの作ったオムレツを無理矢理口に頬張る。緑深い山々に囲まれた洋館の窓から、廊下の赤い絨毯に冬の淡い光が差し込んだ。


 画室から下絵を何点か持って行こうと部屋に向かったら、後を付いてきた文生の手がしつこく身体を這い回る。文生はベッドの上と同じ眼差しを向けてくる。それが嬉しいやら悲しいやらで、黒のセーターとジーンズ姿の彼の厚い胸板に寄りかかる。


「なんです、まだ物足りないんですか」


 その言い草が気に食わなかったから、気怠い動きで彼の手を払う。


「違う、まったくお前は二十九にもなったのに、そういうのは変わらないんだね」


 二つ年下の文生に小言をならべた。


「そういうもんですよ」

「そうかな、あれ」


 画材があるべきところに置かれている机に、新たな下絵を見つけた。青梅を描いた裸のだった。スケッチブックではなく、下絵用の画用紙に描かれている。


「文生、下絵があるってことは、僕のオーダーは、この構図でいくんだ」


 紙に映し出された己の身体の線をなぞる。と、背後から文生が腰を抱いてきた。


「はい、青梅さんの注文だから、飾るところはこの家しかないですよね、もちろん寝室にね」

「自分で頼んでおいて、飾られるのは恥ずかしい」

「大丈夫です、あんたの裸は誰にも見せやしない、これは俺の性分だから、形にしないと気が済まないんです。もしこれを見た奴がいたらそいつを殺して、絵も一緒に燃やします」


 文夫は身体を離して、スケッチブックと鉛筆を持った。文生は夢を捨てた青梅に裸のモデルをさせ、世話役と恋人の役目まで与えた。それが情けを掛けられただけならどれほど救われただろう。文生は本気で青梅を求めていたのだ。


「見せないで」


 青梅が言うと、文生が大きな息を吐く。大柄な彼が床に腰を下ろした。


「ああ、見せませんよ、見せるものか」


 背を丸めてスケッチブックに向かう。文生の手は大きく骨張っており、背も高い。


「文生だけが僕を見て」


 その大きな手が止まった。


「早く服を脱いでください」


 文生に急かされた。


 しかし彼の身の回りの世話をしている青梅からしたら、そのまま聞いている場合ではない。なんせ都内のホテルで午後から、文生の師でもある大河原おおがわらの主催する集まりが控えている。そこで文生が顔を出さなければ、温厚な大河原だって顔に泥をぬったと怒るに違いない。


「今日は大河原先生のパーティーに出る約束のはずだ、今から描いていたら間に合わないよ」


 文生は高校生から気鋭の新人作家として売り出され、二十七になった彼の名を画壇で知らぬ者はいない。画壇で評価され、油彩画家の重鎮を師に持つ。文生の描いた絵は確実に売れた。文生は画壇と世間から新しい作品を強く望まれている。どこまで神は残酷なのか。青梅は文生の存在が鬱陶しかった。才能が妬ましい。それなのに文生そのものが愛おしい。彼を目にも入れたくないのに、誰にも奪われたくない。


「ああ、そうだ、俺とあんたが繋がるには必要なことなんですよ、画壇の老いぼれどもの顔なんて見たくもない、あいつらに酌をするあんたを思い出すだけでぶち切れそうだ、ほら脱いだら椅子に座ってくださいよ」


 画室の中央で、上下の服から下着まで脱いで、用意された木の椅子に腰掛けた。骨組みのはっきりした己の貧相な肉体には、薄らと口づけの跡が残っている。


 薄い尻の肉がひんやりとしたから、身じろぐと、


「冷たい」

「動かないで、喋らないで」


 と、矢継ぎ早に叱咤された。今から青梅は生きた人形になる。人形は喋らないし動かない。

 青梅は顎を引いたまま黙って従い、眼だけで正面の窓を見た。額縁のような窓の向こうの空に灰色の雲が重くのしかかり、遠くの夕日を望む。あでやかな冬を目の当たりにし、まぶたを閉じたとしてもまばゆい黄金色が走るだろう。自然の美しさに、あそこは別世界だ、と疎外感にとらわれた。文夫と一緒でないとこの屋敷を自由に出られない。束縛の強い彼との約束だから仕様がない。だから余計に絶景な眺めだった。冬の日暮れはいたずらに気持ちを暗くさせる。


「顎を上げて」


 椅子の背もたれに背骨を触れさせないよう、背を正す。


「そうです、次はシーツの上に寝そべってください」


 今度はシルクのシーツが掛けられたセミダブルのベッドに仰向けで横たわる。文生の声だけが、青梅を動かす力があった。この屋敷に来て二年も続けていれば、裸でポーズを取ることに羞恥心なんて感じなかった。それでもどこか葛藤が残っているのは、地味な顔で、痩せて垢抜けない自分ではモデルは務まらないだろうという劣等感からであった。しかし文生のためならば、裸体を晒すのは苦ではない。むしろ、彼の視線が自分にだけ注がれていることで悦に入っていた。絵のためか、それとも一人の男として彼に求められているという自惚れだろうか。


「あんたは触媒しょくばいだ」


 と、文生が言い放った。


 椅子とイーゼルを前にしても、文生はライトマゼンタの絵の具が飛び散った木の床に腰を下ろしている。彼は鉛筆を手にし、真っ白のカンバスではなく、スケッチブックに青梅の裸を描いている。彼の横には大量のスケッチブックが積んである。それら全て、青梅で埋まっていた。


「あんたは俺を追い詰める、あんたの内側を描きたい、血の色、瞳の色、涙だって、体液だって」


 青梅は口を閉じたまま、器用に文生の形のいい頭を見下ろした。大柄なわりに文生の頭は小さい。決してバランスが悪いわけではなく、姿形まで絶対的な美を体現していた。痩せてもがっしりとした体型、柔らかそうな黒の髪を長く伸ばしている。描くか食べるか、あとは体力の続くまで青梅を抱いて寝るかの男なのに、肌はつややかできれいだ。少しエラが張っていても、ダビデ像のように完璧な輪郭だ。切れ長の鋭い眼光も前髪で隠れている。それでも高い鼻梁、甘い口元がのぞく。


「あんたが死んだら、その時は肉が腐るときまで描ききる、そして俺は後を追います」


 あまりの盲信に、青梅は唾を飲み込む。あの世にここにある絵は持っていけないよ、と青梅は胸の淵でつぶやいた。それでも文生の声の全部を何十回と頭の中で繰り返しながら、どこまで計画を練っているのか末恐ろしく感じた。

 青梅は目の前の男を見た。文生が手を止めて、こちらを見上げてくる。彼と目が合うと、はにかんだような、少年じみた表情がその目に宿った。


「青梅さん、愛してます」


 冬が過ぎて春が来る。夏と秋が訪れて、それを何周と繰り返しても、きっと自分達はこうやって向かい合っている気がした。

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