第43話

「お風呂あがったよ〜」


 そう言って、椿ちゃんの部屋の扉を開けても返事が返ってこない。


 それは私が嫌われているからとかではなく、椿ちゃんがベッドに横たわって、静かな寝息をたてているからだ。


 疲れちゃったのかな。寝ちゃってる。


 だけど、椿ちゃんはまだお風呂入ってない。さすがに起こさないわけにはいかない気がする。


 私はゆっくりベッドに近づき、椿ちゃんの顔を覗き込んだ。


 すぐ声をかけるつもりが、私はなぜか黙って椿ちゃんの顔を見つめている。


「…………かわい」


 なんだろう。なんて言うか、いつもはツンツンしてて全然触らせてくれないネコが無防備な姿で寝てて、わしゃわしゃしたい衝動に駆られるみたいな。


 起こさないといけないのに、もっとこのまま見ていたいと思う。今日見た映画よりもこっちの方がよっぽど良いな。


 この椿ちゃんを見られる人は世界に何人いるのだろうか。私は今、ものすごく優越感という感情に襲われている。


「あー、キスしたいなあ……」


 思わずそう口に出た。


 唇柔らかそ。てか柔らかいんだよな。男子と全然違うっていうか。吸い込まれそうになる感じ。


 なんで私はこの子にこんなにも意識を持っていかれるのだろうか。


「椿ちゃん。椿ちゃーん」


 そろそろ起こさないと、と思って、私は仕方がなく名前を呼ぶ。


「ん……」

「おーい、椿ちゃんってば。ちゃんとお風呂に入って寝た方がいいよ」

「うん……」


 よほど眠いのか、椿ちゃんは私に返事を返すだけで、一向に起きようとしない。一応聞こえてるとは思うんだけど。


 そこで私は一つ確実な方法を思いついた。


「むむー。あー、じゃあもう起きないなら私キスしちゃうからねー。ちゅっちゅっちゅー」


 これならさすがに嫌がって起きるでしょ。


「あー、やばいよ、早くしないと唇がくっついちゃうよー。いいのー?」

「うん……」

「でしょ、なら早く起きて──」


 あれ? 今なんて……


「き、キスしちゃっていいの……?」

「う……ん……」

「……え、うん!?!?」


 やばっ! え、いいの!? もしかして私の声聞こえてない!? いや、だとしても言質はとったし、してもいいのか……?


 一瞬だけ天使の私が「ダメだよ!」と姿を現したが、なにせ私は悪魔に身を捧げているので、天使はすぐに姿を隠す。


 椿ちゃんがいいって言ってるんだもんね。別に私、悪くないもんね。


 私はよしっ、と心を決め、椿ちゃんに顔を近づける。


 いつもは何気なくキスをするのに、今日はいつもよりも少し緊張する。椿ちゃんが寝ているからだろう。


 あともうすぐで唇がくっつく。そんなときに──


「あ……」


 椿ちゃんと目が合った。それすなわち、椿ちゃんが起きたということになる。悲しいことにね。


「……何やってるんですか」

「えっと、その、キスをしようかなあと。あ、いやでも椿ちゃんがしていいっていったんだからね?」

「言ってないです」

「え、言ったよ」

「言ってません。お風呂行くので、そこどけてください」

「い、嫌! していいって絶対言ったもん!」

「だから言ってないですって」

「言ったんだって! ええい、もうこうなったら何でもいいからとりあえずキスさせろー!」

「ちょっ、お母さんいるんだから、そんなこと大きい声で言わないでくださいよ……!」

「やーだ! だって椿ちゃんがキスしていいっていったんだもん! 私、嘘ついてないし! 神に誓って嘘なんか──」


 嘘なんかついてない。そう言おうとした、私の口が柔らかな感触で包まれた。


 温かい。いつもの温かさだ。


 それは一瞬で、私の唇はすぐに平温を取り戻していた。


 なんだか少し名残惜しい。


「はあ。これでいいんでしょ。早くどけてください」

「………………あ、はい」


 椿ちゃんはそのままスタスタと歩いて、部屋を出て行ってしまった。


 私はというと、びっくりという感情に支配され、そのまましばらく固まっていた。だってまさか本当にキスする、というか、されると思わないじゃん。


 なんだか鼓動がいつもよりも大きく聞こえる。


 いつもと同じキスなのに。


 私はそのままの体勢で、パタンと倒れるようにベッドに横になった。

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