とあるバンドマンの引退、あるいは時限装置のラブレター

沙雨ななゆ

とあるバンドマンの引退、あるいは時限装置のラブレター

 バンド、やってたわけじゃないんだけど。バンドマンではなかったので、これから書く言葉も詩になり損なってしまった。


 今更だしほとんど時効だろうなあ、そうだといいなあ、と思って書いてしまう。ほんのすこし前、わたしはある大学で研究などをしている博士課程の学生だった。自分には研究の才能があると思っていて、そのとき専攻していた学問分野についても、それがめちゃくちゃ好きだからこれからもやっていけるな〜くらいに思っていた。ぶっちゃけ運良くアカデミアにとどまれないかな〜、良い感じに研究費とかもらえないかな〜、と思っていた。順調に学位をとってやっていくんだと思っていた。あとは自分の努力次第でどうにでもなる、だってこれはわたしが見つけた夢なんだから。これだけは諦めちゃダメだしこれを諦めたらわたしって、……みたいな、そういうかんじの、十代とかにまあまあよくあることの延長線上にいたんだなあと、今はそう思う。

 でも、なんでかなあ。大学四年生のころから、ふんわりと無理が可視化されてきた。修士一年になったら、体調がどんどん崩れてきた。修士二年になったら、入退院を繰り返した。嘘、今のは割と盛った。体調がぐちゃぐちゃで、かなりものすごく超不全とかになって、幾度もドクターストップのようなものを受けた。けれど、それでもわたしは研究者になりたかった。なりたいと思っていた。そう信じていたから、どんなに無理だな〜とおもうことでもがんばってだいじょうぶにしてきたはずだったから、今更引いたら嘘になると思った。嘘にしたくなかった。

 だけど、それなのに、ある日突然気づいてしまった。

 わたしってこの分野のことが本当に好きなわけでもなかったし、研究を続けていきたいわけでもなかったんだ、と。

 思えばわたしがその分野に行きたいなと思ったのは、中学生のときに出会った先生のことが好きだったからだ。体力がカスッカスだったわたしは、体育祭や持久走などの学校行事を半分くらい保健室で過ごしていた。良く言えば負けず嫌いなのに、精神に体力が追いついていなくて、泣く泣く棄権した日。その先生がわたしの寝ている保健室のベッドまで来てくれた。……いやわたしがあまりにも、主に体育とかの出席率と成績がヤバくて、その先生が当時のわたしの担任だったから、そういう義務で来てくれた、とかだと思います。とにかくその先生が来てくれて、さまざまなことをおはなしするうちに、わたしはその先生の授業がたいそう好きだったということに気づいた。その先生の授業のノートだけは、いつも馬鹿みたいにメモがいっぱいあった。いつも先生のお話がおもしろくて、その教科がある日はうれしくて仕方がなかった。

 たぶん、わたしは不登校になるギリギリを生きていたんだろうな、となんとなく思っている。そしておそらくそれはまちがいではなかった。実家に帰るといつも空気がピリピリしていて、そこから逃げるように学校へ通っていたけれど、中途半端な進学校だったそこは、決して居心地が良い場所ではなかった。ただかなしいかな、中高生にはお金がない。校則でアルバイトは禁止されていたから、したこともない。東京まで出ようと思えば出られなくはないけれど、往復で一ヶ月のお小遣いは赤字になる。逃げるところがなかった。体育と数学は保健室で過ごした。そのときの先生は、おそらくすこしだけわたしのことを気にかけていてくれたきがする。

 中高生のときのわたしの自我は、今よりもっとふよふよだったけれど、ふよふよのままで淘汰されたくなかったから、そのときいちばん好きなものを中心に進学分野を決めた。むろん先生が元いた分野である。高校三年生の夏、面談のときにここにいきたいんですよ、と言ったら、先生は「応援しています。あなたはそれがたいそう好きなようだから」と言ってくださったから、底辺だったセンター試験の点数を八割七分まで押し上げて、まあそれでも、わたしは滑り止めの学校にしか行けなかったのだけれど。

 中高のときの先生は、わたしたちの学年を見送りに出すのと同時に県央の進学校へ移動になった。わたしは大学のカリキュラムの関係で離任式に行けなかったけれど、メールを送ったら、応援しています、と返ってきて、うれしかった。

 ここで第一部は終了である。我ながらきれいな幕引きをしたなと思う。以降その先生とはほぼ連絡をとっていない。きっとわたしのことなんてわすれているんだろうとおもうし、そうであって欲しいと思う。他人にいつまでもおぼえられていることが苦手だから。

 さて、滑り止めの大学の学科では、半年にしてその空気の合わなさに激萎えしてしまった。しかしわたしは強かったので、折れなかった。強かったというか、だんだんと他人にたいするダルさを自覚してきてしまっていたので、意地でも学科の授業にしがみつくことにしたのだ。友達はできなかった。これが夏までの話。春学期を終え、秋になると、とうぜん履修科目も新しくなる。そこで出会ってしまった。ちなみに、わたしはこれを運命と呼んでいる。

 すべてのものごとには始まりがあって終わりがある。それでも、見続けていたい物語があった。その物語の作者および主人公にとって、それは物語ではなかったのかもしれない。けれどわたしにとっては物語だった。いちど貼った伏線はきちんと回収されて、新聞や雑誌の連載ではない、すべて書き下ろしのハードカバー。わたしが読んでいる物語はその作者および主人公のシリーズの一つで、きっともっとたくさんの物語があるのだろう。でもたぶん、シリーズ構成はしっかりしている。だから信用もできる。そうして、いつか終わるそのシリーズを、わたしはわたしが死ぬまで読み続けていたかった。そのひとの人生を、少なからず近くで見つめていたいと思っていた。できるだけ長くそのシリーズが続けばいいと思っていた。わたしの手の届く場所で。

 雑音ばかりだった教室に響いた靴の音。キーワードだけが書き込まれていく黒板。それを操るチョークを握る指先と、黒目のうちがわに宿っている光。空がぱっくり割れていた日に、あるべき線の引き方を教えてくれたそのひとのことを、わたしは「先生」と呼称している。ただ「先生」とだけ口にするとき、それはわたしの先生のことを指す。

 先生がわたしにとって、どんなひとであったかということを、明確に、端的に、わかりやすい言葉であらわすことはむつかしい。それでも、先生がわたしの、わたしたちの前ではじめてチョークを手に取って、教室をぐるっと見渡したとき、わたしたちの学ぶべき、修めるべき学問の話をしたとき、先生、あなたのことを、わたしは鮮やかな青だと思ったのだ。夜という時間をあらわすときに、もしもそこに青という色が存在していたら、それは先生のことであっただろうと思う。静かで、深く、そして鮮やかな青。夜の青を鮮やかだと表現するのは、ひょっとすると適切ではなかったかもしれない。それでもわたしは、先生、あなたはつよい青だと思っていた。あなたは、わたしにとっては、そんなひとだった。あなたがいてくれた時間は、わたしにとっては、もうずっとまぶしい夜の青だった。

 あまりにまばゆい時間だったので、終わったあともわたしはしばらくぼうっとしていた。その日にとったノートを見返せば、気になっていたことが蘇った。先生のもとに駆け出して、答えを求める。そうすると先生はすこしだけ口角をあげて、まずはわたしの名前を尋ねた。

 ○○です、と言うと、覚えておくねと先生が言った。わたしの、くだらないだろう質問に、先生は丁寧に答えてくださって、それはこの分野をかんがえるうえで大切なことだね、というようなことを仰った。……それからだった。週に一回の授業のあと、わたしはかならず先生のもとに質問に行って、……その時間から永遠に続けば良いと、思っていた。

 そして、わたしはわたしの先生にたいしてだけはすごく運が良かったみたいだった。半期の授業のあとも、先生はわたしが学部を卒業するまで個人指導という名の下で面倒を見てくれていた。放課後に空き教室をつかって、いっしょに論文を読んだり資料を読むのが当たり前になっていた。そのうちわたしは、大学院に進学したいと思っているんですよねえ、みたいなことを言うようになったと思う。「じゃあ外に出なね」と先生は言った。「どこにする? そういう候補もこれから考えていきましょう」、そして「○○は、研究者になりたいと思ってるの?」……ある夏の日、春学期が終わる直前の週、先生がわたしにそう聞いた。

 呼吸が閊えた。一瞬、喉がヒィッと鳴って、顔をあげることもできない。図書館までの道のりのあいだ、わたしはその答えを必死に探したけれど、結局はうまく答えることができなかった。先生の授業で、分野のことをおもしろいと思って、惹かれて、先生の本も論文も書評も読んで。いつも相対するなかで、勉強のことも、わたしの個人的なことも、勝手にすくわれてきて、そのひとはわたしの、紛れもない憧れになっていて。ただその光はあまりに強すぎて、その圧倒的な憧れを前にして、そのひとのいる位置にいる自分をじょうずに思い描くことができなかったし、そもそも、できようはずもなかった。おこがましい気がして。分不相応な気がして。けれど同時にそれが悔しいと思った。そう思っていることに、帰路につくあいだに気づいた。それまで先生がわたしに与えてくださった、接してくださった時間に恥じないわたしが、そこにはすこしもいなくて、そんなんで先生の教え子ですだなんて、そりゃあ当たり前のように名乗れるわけがなかったけれど、それがとてももどかしいということに。

 だからそれにすこしでも見合うようなわたしでいられるように、誰にも文句を言われないように、出来うる限りのことをやろう、と思った。……じつは文句を言われたことがあった。わたしが先生に教わっていることを、みんな独学で身につけているはずのことなのにあなたはずるい、と、他人になじられたことがあった。わたしの先生ではないのに、わたしが先生に教わっていることを恩に着せるような言い方をするようなひともいた。まあ、教わっているだなんて口を滑らせたことがあったわたしも悪い。でもそれじゃあお前は、わたしが先生に教えてもらえるようになるまでに、わたしが先生のゼミ生でもなかったのに、本務校の学生でもなかったのに、だからこそしてきたことを見ていないくせに、そんなことを言えたんですねえ。お前にわかってもらおうと思ったことなんて一つもないから良いですけど……。

 話が逸れた。思いついたことをぽつぽつと、ツイッターに似た書き方をしていくのが良くないのだと思う。

 とにかくわたしは、たぶん、頑張ったって言い方をして良かったのだと思う。頑張って頑張って頑張って、一つ知ればその背後にはわからないことが百以上あって、終わりが見えないことは、ただくるしかった。それでもわたしには先生がいてくれるから、わたしは先生の教え子だから、先生の教え子はそんなことで折れないはずだったから。折れる人間が先生の教え子に相応しいはずがなかった。証明しなければと思っていた、いつかわたしが、学部のときから先生にお世話になっていたからこんなに堅実な研究者になることができたんですよって、そう言ったときに、誰からも、あのひとの教え子ならば、と納得してくれるようになるその日まで。それがいっとうただしいことだと思っていた。わたしはただしい研究者の教え子なんだからただしくなるべきだと思っていた。

 そしてわたしが、特にアカデミアで研究をしつづける限りは、先生はわたしとずうっと「放課後の教室」を続けてくれるものだと思っていた。だってそうだったから。わたしが学部を卒業して、他学に移って、このうえなく恵まれた研究環境に身を置いたあとも、わたしが学生でいるあいだは、先生はずっとわたしの面倒を見ていてくれたから。

 でも、じゃあ、この物語のつづきは? わたしはいつまで「○○さん」で、いつまで先生はわたしのことを「まあまあ見込みがありそうな、教え甲斐がある教え子」として扱ってくれるんですか? わたしの軸足も、やりたいこともぜんぶ、あなたから離れないために作り上げてしまったもので、それを自分のものに完全には引き寄せられなかったわたしは、これからどうやって、何をつづけていけば良いのですか?

 ……終わりが見えなくなった。そもそも研究に終わりなどない。きっかけをきっかけ程度に留められなくて、あらゆる理由を、それぞれの文脈から切り離された言葉たちから引いてきたわたしは、わたしのやっていたものは、ほんとうに、きっと、良く出来たコラージュでしかなかった。そしてわたしは、枕詞のない夢や目標を掴み取ることができなかった。たぶん最初から想定していなかったからそうなってしまった。たぶんそんな努力をすることすら(それが無意識のうちのものだとしても)拒みつづけたからこうなった。

 ここまで書いて、ほんとうに「わたしが!」みたいなものがないな、と思った。いや知ってたし、わかってたんだけど。ちゃんとわかったから、やめたんだけど。他学に移ってからたくさんご指導いただいたはずの指導教員とのことだって、ここにはひとつも登場していない。高校のときの先生を除いては、この物語はわたしと先生の、いや、わたしがわたしの先生にたいして一方的にやたら強めの感情を抱いていましたというものでしかない。本来であれば、頑張って勉強をしましたがおのれに能力が足りないことを悟ったのでやめました、みたいな、わりとありそうな(……)話にする予定だった。しかしいざ筆を取って書き出してみたらこれだ。そしてそれ以上のことも、それ以下のことも書けなかったから、これを修正するつもりもない。ここに書いてあることの一欠片でも、先生に伝えようと思ったことはない。あっでもすくわれた的な話はしちゃったな、おろかな学部生だったから。先生はきっと、わたしみたいなおばかな学生のことはすぐにわすれる。でも先生の研究はこれからも輝きをうしなわず、その分野の人は引かずにはいられない研究になるだろうなってわかっている(わたし以外の分野にいる人間全員もわかっています。事実だから)。むかし、おのれが滅んでもおのれの好きなものは不滅だということにすくいを見出している、みたいなひとの話を目にしたことがある。そういうものなのだと思う。わたしは博論まで提出したけれど、それは分野の発展のために踏み台になってわすれられていくものなのだと思う。博論を書いたら国立国会図書館に一部入れなければいけないので、いちおうは入れたが、まあでも、そこの謝辞にもそんなに大したことは書いていない。博論を書きはじめたころ、どうせ国会図書館に入れるんならな……とおもって「一片の悔いも残らなさそうな謝辞を書くためにもうない残機と前借りした寿命を燃やして(大袈裟……)書くぞ〜」と思っていたが、きっとそんなに大したことは書けなかった。ただ最後の意地として、堅実さは意識したつもりだ。でも、ほんとうにそれだけだ。お前の十年なんだったんだよと言われれば、「○○は研究者になりたいって思ってるの」に答えを出すための十年だったとは思うが、それ以上にはならない。わたしは永遠に先生のような研究者にあこがれた人間としてふさわしくはなれず、ならず、これからもずっと及第点ももらえまい。つまり。

 先生。……先生、わたしは先生のことがすきでした。

 チョークを繰るのとおなじ指先で、わたしにオレンジジュースを渡したときも。この世界にあることたちの蓋然性を問うのとおなじトーンで、わたしに必然性を尋ねたときも。開架図書を見に行くのとおなじ歩幅で、銀杏並木の下を歩いていたときも。始まっていようがそうでなかろうが、しかしわたしは先生のことがずっとすきでした。わたしたちはたくさんの時間を、付かず離れずいっしょにあるいはべつべつに過ごしてきて、それでもう幾年も経ってしまいましたね。そのあいだ、わたしはずっと先生に言えずに、言わずにいたことがあります。もちろんそれは、先生のことがが好きだった、とかいう、ある意味ではかんたんな言葉ではありません。それは、先生のことをずっと信じている、ということです。

 いまさらなにを、とお思いになるかもしれません。でもわたし、先生に「すきです」と言ったことはあっても、「信じています」と言ったことはなかったように思います。「ありがとうございます」もたくさん口にしましたね。むかしのわたしは、「ありがとうございます」の結論に達するまでに、いかに先生がわたしにとっての運命であるかを、手を替え品を替え滔々と語ってきましたね。

 わたしはずっとむかしから、できるだけ長く、すこしでも多くあなたとおはなししていたいと思っていました。あなたがわたしのおはなしに飽きないよう、つまらなかったな、こんなもんなんだな、なんて思われないよう、あなたの時間を無駄にしないように。思えばそれがわたしのはじまりだったのかもしれません。いつまでもわたしは、あなたとおはなしをしつづけたい未熟な学生でしかなかった。でも、未熟でも見込みがある学生でいたかった。未熟でも見込みがあるから、あなたはわたしにかまってくれるのだと思いたかったのです。わたしのような未熟な存在に構わずとも何らか不足なく生きていける、つねに上を見続けているようなあなたがわたしに構うのは、それ相応の理由がなくてはいけなかった。あなたの物語はうつくしくあるべきだった。なぜなら、わたしはあなたの生き方をうつくしいと思っていたからです。

 ときおり、というか頻繁に考えていたことに、「先生の教え子がわたしではなかったら」というものがある。先生の教え子がわたしではなかったら。わたしが○○ではなかったら。そうしたらもっと、先生がご自分のお時間を割いてくださったことに見合うような、すくなくともそれに恥じないような研究者が、もしかしたら生まれていたのかもしれない。先生はむかし、わたしがわたしのことをばかだからと言ったとき、「馬鹿だって思いませんよ」と言った。それまで一緒に読んでいた資料の現代語訳がわからず、「ほんとにわかってる?……じゃあもっかい最初からいくよ」と呆れながらもお付き合いいただいた、そういうトーンで。学部二年のおわり、がんばります、と言ったとき、「○○は頑張ってると思うよ」「○○の質問はおもしろいし、頭がいいし」と返されたときの、そういうトーンで。ついでに思い出した。学部の半ばまでふらふらしていたわたしが、それまでを取り返すように頑張ろうと思ったきっかけについて。

 これも学部二年のおわり、春休みのころ、先生はどうして研究者になろうと思ったんですか、と聞いたときの、その答えからすべてがはじまったように思う。わたしは先生のつよさがすきだった。あるべき姿に向かって堅実に努力できる、その道を歩んできたことの文句をだれにも言わせないのだということをこちらが自ずとわかってしまうような、そういうつよさがすきだった。先生も人間だから、やめたいと思ったこともつらかったことも苦しかったことも馬鹿にされたことも、ほんとうにブレそうになったことが、ないわけではないだろう。でもきっと先生は、そういうときに「それでも」と言えるひとなのだろうな、と思った。わたしと最初に目があった、あの教壇での姿のままで。それがたとえ等身大のものだとしても、いつかわたしにゆるく笑った眼鏡の向こうの光を当たり前のように湛えて。

 ……先生。前述のとおり、わたしは先生のことがだいすきでした。だからもう、ダメだ、と思った。おはなしをつづけていたいだけなんてダメなんだ。そんな不純な動機でここには居座れない。それは分野に失礼だから。あなたが教えてくれた分野のおもしろさに、わたしは値しないから。あなたが教えてくださったこと、意識なんてしていなくてもわたしをすくいあげてくれたこと、あなたの輝き、それを見続けたわたしは、この物語の幕引きをしたくなくなってしまっている。でもそれはダメなんだ。そんなめちゃくちゃな文脈の物語があっていいわけがない。終わりの続きを始める物語が、わたしは嫌いだ。「ハリーポッターと呪いの子」が嫌いだ。「少女歌劇レヴュースタァライト リライト」が嫌いだ。だから、だから、だから。研究が、楽しかったことなんてたぶんない。研究はずっとくるしかった。わたしが楽しかったのは、先生とおべんきょうのおはなしをしているときだけでした。他のことはきっとどうでも良かった。そんなわたしはきっと先生の望まれるような教え子になりえなかった、だから。

 この物語は、もう、おしまい。

 それで、それでも、いつかまたどこかでお会いできたら、そしたら、このうえなく幸福です。





 黄色い花びらが、ほとんど茶色くなりかけている。向日葵は、季節のおわりを告げるとともに、自分の主人の不在にも気づいてしまったのかもしれない。ややぬるい風が、開け放したベランダから、ときおり入ってくる。それによって、紙がかさりと音を立てた。私が読んでいたものだ。

 それは叔母の遺品を整理していたら、偶然見つけた手紙だった。手紙というよりは日記の続きみたいなものだと思った。誰かに宛てたにしては何かを伝えるつもりがないものだし、そして渡さなかったからここにこうしてあるのだろうし。

 何か好きなものがあったら持ち帰って良いよ、と母は言ったけれど、叔母の持ち物でとくに好きになれそうなものはなかった。そもそも持ち物も少ない人だったようで、私が遺品整理に呼ばれた理由もわからなかった。強いて推測するならば、叔母の持ち物の本に私の興味を引きそうなジャンルがあると、母が思っていたからだろうか。そういうものは、少しはあった。けれどそのほとんどは、生前の叔母によって整理されてしまったのだと思う。それこそ、叔母が博士課程というものをやめたときに。

 叔母は多くを語らない人だったし、正月の親戚の集まりにもあまり顔を出さない人だった。出せば祖母の姉から、あなたがいちばん学歴が高かったのだからもう少しいい仕事を選ぶと思っていた、というようなことを言われていた。母の実家ではよくある言説だったが、私は幼心にウワッッ嫌な家……と思ったことを覚えている。考え方が昭和すぎるのだ(ものすごいチクチク言葉)。いやじっさい、みんな昭和生まれ昭和育ちなんだけど……。とにかく、私にとっては居心地が良くない家だったし、それは弟もそうだったらしい。母がどう思っていたのかは知らない。母は、そこでは叔母以上に寡黙なひとで、ニコニコ笑うばかりで何も言わなかったから。当然のように祖母の家に赴く足は年々遠退き、就職した今となっては、なにかと理由をつけて顔を出すことをやめた。叔母のことなんて余計に覚えているはずもなかった。

 叔母が死んだ(しかもどうやら自殺っぽい)と聞いたのは、新卒三年目の夏だった。そして親戚が皆で叔母の家に遺品整理に向かい、私も行かざるを得なくなった、というわけだ。

「なにかあった?」

 母の声だ。母の声は、いつもあまり抑揚がないので(悪い意味ではなく)、聞き取るのに時間がかかる。言うべきか言わないでいるべきか、しばし逡巡したあと、しかしこんなものは一人で抱えておくには重すぎると思って、母を呼んだ。

 はたしてこれを読み終えたあと、母も一瞬前の私のように押し黙った。蝉の音だけがやけに大きく聞こえる。「……やーなんか、どうしようかと思ってさー……」おのれの母とはいえ、さすがにこの沈黙には耐えられない。ちょっと立ち上がってうんしょ、と背伸びをする。母はまだ押し黙ったままだ。そしてわたしが屈伸運動をし始めようとした段階になって、「ねえ、」母が口を開いた。「これおばあちゃんたちも見たと思う?」

「……え?」

「たぶん見てないと思うんだけど。見てたら大問題になってると思うし。ハルちゃん、言葉が過激なところがあるから」

「た、たしかに」

「だいたいみんな、この先生の話あたりでえっ? ってなると思うんだよね。ハルにそのつもりはなくてもセンシティブすぎる」

「え? あ、ああ……」

 時代は令和。叔母とその先生(叔母のいた大学で教えていたひと)は、たしかにさすがに誤解を受けるかもしれない。叔母にそのつもりがなくても。母はひとしきり大きなため息をついたあと、なんでこんなの処分しないで死んじゃうかなあ、と呟いた。……いやそういう問題か?

「ねえ、お母さんあのさ」

 その先生ってお母さん、心当たりがあったりするの?

 ふと疼いた好奇心がそのまま口を突いて出た。出してしまってから、あっ……と思ったけれど、後悔はそもそも先に立たない。人の死にたいしてあまりにも邪心がありすぎるが、仕方がない。だって叔母はほぼ他人みたいなものだし。あれこれ言い訳を考えつつ母の顔を伺うと、そこには困ったような色が滲んでいる。あれっもしかしてこれ知ってたりするやつなのか? 私ってもしかして今、ものすごい藪蛇を突いてしまいましたか?

「望月って名前じゃなかったかなあ……」

 そして急いでスマホを取り出し、何かを打ち込む。私はやはりそろそろとその画面を覗く。「望月 明央大学 日本文学」叔母の出身校と分野名だった。程なくして、「姫山学院大学名誉教授 望月久弥」と検索にヒットする。ウワ〜〜絶対この人じゃん、しかもまだご存命でらっしゃる。今年退官らしい。

 いやいや。

「……気まず」

 さすがに素直な本心が漏れてしまう。数秒のラグを経て、あは、と母が笑った。「ゆめは、逃げ切れて、よかったね」これも母の台詞だと気づいたのは、もう少しあとだった。

 ひどい家でね。と母は言った。保育士をしていた大叔母が、じぶんの園児を、あの子は不細工で可愛くなくて美人でキラキラした母親には似ていなくて、というようなことを、大声で言う家、それが母の実家だった。母の実家で、結婚したのは母だけだった。孫娘は私だけだったので、私は可愛がられたようだったが、それでも、いつしか母があからさまに帰省を渋り始めた日にはホッとしたものだった。本当に嫌な家だったということを、母も思っていたのだ。逃げ切れて、というのは、そういう意味だったのだ。私は、そうだね、と言う。そして叔母のことをおもった。あの家で、結婚もせず、ただ異様に高くなった学校歴と学歴をもち、姿勢だけはひじょうにうつくしく、伏し目がちだった叔母。夕飯が多すぎる家。死んだ祖父の本棚にある陰謀論の本。大叔母と、その夫と、祖母がいて、大叔母と祖母の会話を姦しいなと冷笑していた大叔母の夫。

 叔母の手紙には、母の実家にたいする心情はほとんど書かれていなかった。けれど今にして思えば、実家から逃げるために学校に通っていたのだろうと思うし、その学校が叔母の居場所のひとつだったのだろうと思う。適切な保護者のいない家で、叔母は適切な保護者を学校に求めていったのではないか。……なんていうのは、さすがに私の妄想だろう。そして、叔母の手紙は、じっさいには望月という大学教員に宛てるつもりでは、なかったのだろう。

 ここはうみのみえる部屋で、今の季節は夏である。ベランダで水を与えられなくなった向日葵は、もう太陽の方を向いていない。叔母はこの街で、司書と花屋をして暮らしていた。暮らし向きは楽ではなかったはずで、部屋は小さく、物も少ない。高価なものはここにはない。叔母は物に執着がなかった、と母は言った。その叔母のほとんど唯一の執着と、そのきもちへの幕引きが、この手紙なのだと思う。日記や手記のような手紙。この部屋の向日葵のような生を生きたのかもしれない叔母。これを読んでも、私も、おそらく母も、叔母のすべてはわからないだろうと思う。わかることができようはずもない。叔母がここで望んだように、望月という教員に再会できたのかも私には知り得ない。これからも。

 それでも、私はこれを燃やしたり捨てたりせずに、私の自室にしまっておこうかな、と思った。

「……お母さん。もういいよ」

 あと、この向日葵も。

 二つを両腕に抱えた私に、母はたいそう微妙な顔をしていた。それを止めないのは、母の優しさだろう、と思った。私は母の娘で幸せである。母に、個人としては尊重されている気がするから。

 向日葵、生き返るかもねと母は言った。私はそれを聞いて、そうだったらちょっと面白いかもな、と思った。生きていた生を、生きている生にして、たとえそうはなれなくても、いつかどこかで、誰かとすれ違いながら、私たちは生きていく。叔母の命が燃えていた。私の命は、ゆるやかに下降しながら日々を燃やしていく。

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