藤原院さんがおかしくなっていくのを見るのが楽しい

銀色夏 

第1話 富士原市と転校生

5月下旬。

朝から抜けるような晴天であった。


転校生である羅城門三日月らじょうもんみかづきは、今日が初登校である。

転入先である丘の上の女子校へ続く、ゆるやかで広い坂道を鼻歌を歌いながら登っていく。


「フンフンフンフン、フーーン♪」

軽やかなステップに、腰まであるロングのポニーテールが揺れる。

歩いているのは、三日月一人だけである。

ブロロロ・・低いエンジン音を唸らせて、三日月の横をいかにもな高級車が次々と追い抜き、登っていく。長い車列となっていた。

それぞれの高級車には女生徒が乗っている。

彼女たちはふもとの旧市街地の屋敷から、毎日高級車で登下校しているのである。

さすがは名門のお嬢様学校。

一人歩く三日月が珍しいのか、追い抜きざま後部座席の車窓から興味深そうに彼女を見る女生徒もいる。


ふわり、と爽やかな風が吹いた。

シンプルながらも、白く清楚で風通しのよさ気なセーラー服。

その赤いえりとスカートが揺れた。

長い坂道の中腹辺りで、ふと三日月は顔を上げた。

そして、息を呑んだ。

丘の上にたたずむ校舎の背後に、雄大な富士山がそびえ立っているのだ。

「はぁぁぁ・・・テレビとか写真では見たことがあったけど、実物はスゴイわね」

北海道に生まれ育った三日月は、初めて肉眼で見る日本一の霊峰の偉容に圧倒された。

富士の高嶺にはまだ冠雪が残っている。

その高嶺から平野へ、緩やかに流れるような美しい稜線が降りている。

その山容の見事さに、万人は見惚みとれざるをえない。


そういえば・・と三日月は思った。

富士山には女神が祭られている。

たしかコノハナサクヤヒメといったっけ・・・


日本古代の神話に登場する女神だが、恐らく実在の女性と思われ、名前のごとはなの香りの立つような美女だったようだ。

富士の姿を見れば、なるほど女神が裳裾もすそを広げてたたずんでいるようだ。

その女神・・富士の西のすそから駿河灘するがなだ(湾)にかけて、ここ富士原市ふじわらしはある。

学校は、富士原市の内陸部の丘の上に建っている。


学校の経営者は「藤原院家ふじわらいんけ」。

奈良時代から続く大貴族の末裔まつえいであった。


ここS県富士原市・・・・以前の名称は「藤原市ふじわらし」であった。

文字通りかつては藤原氏の大規模な荘園で、江戸期までは「藤原ふじわらしょう」と呼ばれていた。


よく知られるように、藤原氏は中臣鎌足なかとみのかまたりを祖とする大貴族で、蘇我氏を滅ぼして大化の改新を推し進め、以後、天皇家に絡みつくように奈良・平安朝と数百年もの間、権威をふるった。

その一族は栄えに栄え、とくに藤原道長ふじわらのみちなが(藤原北家)は位人臣くらいじんしんを極め、天皇家を凌ぐ権力を手中にした。

ところが・・である。

じつはそんな道長ですら逆らえない存在があった。

それが藤原家の本流である「藤原院家ふじわらいんけ」であった。

これこそがキング・オブ・藤原家と言ってよく、鎌足直系の血が最も濃く流れており、道長の北家ですら藤原院家からえた枝葉の一本に過ぎなかったのだ。


が、藤原院家は政治の表には姿を現さなかった。

面倒な政治など枝葉の一族にやらせた。

富にしか興味のない藤原院家は、あくまで黒幕として藤原家をあやつり、摂政・関白の権力をふるわせ政治を利益誘導し、裏から巨大な富を吸い上げた。

そうして平安の後期には、藤原院家は荘園を日本全国60ヶ所に得た。

当時日本は66ほどの行政区(国)に分けられており、ほぼ全ての国に荘園を持っていたことになる。

荘園とは領土のことであり、領民を酷使して税をしぼりに搾った。

その税収はいかほどのものか、想像もつかない。

クジラが大口を開け、咽喉のどのアコーディオンのようなひだを拡げて

オキアミやイワシを呑み込むように、藤原院家は民草の命と利益をひたすらにむさぼった。


だが、そんな貴族の時代も終わりが来た。

枝葉である藤原摂関家ふじわらせっかんけ(北家)が、内紛(親子喧嘩)から天皇家を巻き込んで保元ほうげん平治へいじの乱を勃発させてしまい、乱に動員した平清盛たいらのきよもり貪欲どんよくな武士の台頭を許したのだ。

以後、鎌倉から室町・戦国期までに藤原家をはじめ貴族たちの荘園は武士たちに横領され、没落し、藤原院家の荘園も5ヶ所にまで減ってしまった。


ところが、日本統一を目指した織田信長は、朝廷の権威を大切にし、藤原院家に残った5ヶ所の荘園を守ってくれた。

信長の後を継ぎ、全国統一を果たした豊臣秀吉は藤原院家の荘園をさらに2ヶ所増やして7ヶ所としてくれた。


が・・秀吉没後、関ヶ原の合戦に勝利して、江戸に幕府を開いた徳川家は甘くはなかった。初代将軍の家康は名家好きだったおかげで藤原院家を大切に扱ってくれたが、息子の二代将軍・秀忠は貴族・公家くげの荘園をけずりに削った。


徳川家は、貴族や公家が、血筋と伝統に胡坐あぐらをかくだけのロクでもない連中だと知っていたのだ。しかも彼らはプライドが高いではない。

それこそ平将門たいらのまさかどの乱から、前九年・後三年のえき・・源平の合戦から、承久の変、鎌倉幕府滅亡から後醍醐天皇による建武の新政。観応かんのう擾乱じょうらん・・・南北朝の動乱から応仁の乱にかけて。

数々の戦乱の裏で貴族・公家どもが私利私欲のために暗躍し、その結果、凄惨極まりない戦国時代が到来してしまった事を知っていた。

二度と貴族・公家が政治に介入できないように、徳川幕府は武力を背景に彼らを経済的に締め上げ、政治力を奪った。

それは藤原院家も例外ではなく、天皇のとりなしでなんとか一ヶ所だけ荘園を守ることが出来た。

それがここ・・・富士山の西麓せいろくの「藤原のしょう」であった。

藤原院家はこの荘園を必死になって守った。


明治になって、「藤原市」と名称が変わった。

とはいえ、広大な市域の土地の全ては藤原院家の私有であり続け、それは今も変わらない。太平洋戦争に敗れた日本の財閥解体を進めたGHQをはばかって、市名ばかりは「富士原市」に変更して現在に至る。



羅城門三日月らじょうもんみかづきは、丘の上の学校を見た。


その丘の上には、かつて江戸期まで荘園を管理する藤原院家の代官屋敷があった。

今度は、坂から南の方角を振り返って見た。

高台のここからは高速道路と、その向こうに駿河灘が霞んで見えた。

なんて気持ちのよい土地なんだろうか。恵まれすぎてる。

市は、富士山から海にかけてのなだらかな南向きの傾斜地にあり、市域は冬でも温暖である。夏も海からの風通しがよく、熱気がこもらない。

しかも土地は肥え、作物がよく育つ。

そしてなんと言っても、水! である。

富士山の雪解け水が地下に伏流し、わざわざ人間が井戸を掘らずとも清水の方からどんどん地表に湧き出してくれる。それも地層に磨きぬかれたとびきりのミネラルウォーターなのである。

一年を通して水温は一定であり、水量は豊富で、荘園の田畑は万年豊作であり、歴史上一度たりとも領民が飢饉に悩まされることはなかった。


海に面していることで古くから塩田も開発された。

富士の伏流水が流れ込む海水はミネラルを十分じゅうぶんに含んでおり、そこで作られた塩はとびきりの美味であり、荘園から街道を通って甲斐国かいのくに(現・山梨県)から長野まで運ばれた。武田信玄は大金(甲州金)で塩を買い取ってくれる上得意様だったそうだ。

海側には古来より東海道が通っており、水も食料も美味い藤原宿は大いに栄え、江戸期の伊勢詣いせまいりりブームでは旅人がたくさんの銭を使った。

また、駿河灘の魚もよく育ち、ミネラル豊富な潮風しおかぜと太陽にさらされた干物は旨味うまみかたまりで、全国に運ばれ評判となって売れに売れ、上物じょうものは徳川将軍家への献上品となったという。


江戸の前期、富士山が大噴火したが、その時の富士の山腹に開いた火口(宝永火口)は東の三島みしま方面を向き、遠く江戸の町にも火山灰を降らせて都市の機能を失わせたばかりか、復興させるのに多額の費用と時間を幕府に課した。

だが、富士山西麓の藤原の荘にはほとんど被害をもたらさなかった。

コノハナサクヤヒメは美しい藤原の荘が好きなようだ。


そして明治維新。

討幕軍は東海道を西から進んできた。

にしき御旗みはたかかげた討幕軍は、横柄おうへいで乱暴だった。

東海道沿いの大名は松平家などの徳川譜代や親藩が多く、いわば「徳川賊」の党類。その領内の宿場は討幕軍に少なからず荒らされ、略奪を受けた。

が、軍を率いる西郷吉之助さいごうきちのすけ(隆盛)は、この藤原の荘には決して手を出さぬようにと厳命した。

町は革命の惨禍さんかからまぬがれることが出来た。


明治になると天皇の親政が始まり、藤原院家は再び政界に返り咲いた。

さすがに藤原の本流。参議など政府の重要職を歴任した。

が、明治中頃には政治との関わりを薄くした。

日本は富国強兵の政策のもと、産業・工業の近代化を推し進めていた。

その流れに乗り、藤原院家は貴族から産業家へと思い切ってかじを切った。

近代産業の会社を次々と起こした経済界の重鎮・渋沢栄一しぶさわえいいちがアドバイザーとして付いてくれた事が大きかった。

藤原院家は見事に成功し、たくさんの会社を経営し、蓄財した。

政界にも息のかかった者を送り込み、貴族院を牛耳ったこともある。


が、太平洋戦争の敗戦で、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に入った。GHQによる財閥解体ざいばつかいたいの動きを察知すると、藤原院家は、先手を打ってグループ会社をすべて民間へ売り払った。

貴族(華族)の特権は剥奪され、表向きは平民となったが、GHQが日本から撤収すると、再び活動を開始した。

手始めに自動車会社を立ち上げ、次にガス・電気、石油と手を広げ・・・現在では数十社を持ち、その中には世界的な企業が幾つもある。

それらの企業の株の全てを藤原院家が保有し、それらの会社をかつての藤原院家の旧家臣の家に経営を任せている。

というのも、戦国期に藤原院家の中でも一族の激しい内紛が起き、収めるのに大変な苦労があったためで、以来、親戚・一族は決して信用してはならないという鉄のおきてが出来たためである。

現在、グループ企業の経営は、東京の藤原院家の当主が一人トップとなり、旧家臣家の当主たちとの合議で行っている。かつての武家が、長子のみ家を継ぎ、家臣団が家を支える、というスタイルを取り入れているのだ。

今のところ、これで上手く回っている。


羅城門三日月は、坂の横を流れる小川を覗き込む。小川すら美しい。

幅2mほどの小川の水は、すべて富士からの伏流水だ。

豊富で、いかにも冷涼で、恐ろしいほどの透明感がある。

その小さな流れの中に、鮮やかな緑の水草の束が、ゆったりと身をよじるようにたゆたう。

梅花藻バイカモの仲間だろう。

梅花藻は、梅の花に似た小さな水中花を咲かせる。水質の綺麗な清流にしか繁茂しないという。

こんな美しい水が、市域全体を網の目のように流れているのである。

藤原院家が森林も含め水資源を保護し、一切の開発を許さないためである。

富士原市は日本有数の水郷地帯でもある。


伝統を重んじる藤原院家は、この荘園だった市域を美しい状態で守っている。

この先の丘の上には、かつて代官所が置かれていたが、今は古風なイギリス風の木造校舎がある。

明治最初期に藤原院家が建てたもので、藤原一族や華族・旧大名家の子女が日本全国から集まるエリートお嬢様学校だった。

今でもそれは変わらない。

この学校に通っていたというだけで経歴にはくがつく。

藤原院家にとっても、ここに名家・資産家の子女を集めて教育することで、政財界の閨閥けいばつ(女性の繋がり)を構築でき、影響力を保つことが出来るのという旨味うまみがある。


校舎は一部重要文化財に指定されているほどで、丘の周りには明治期から続く旧市街地が広がり、名家・資産家たちが子女を学校に通わせるために代々屋敷地を藤原院家から借りている。

そして伝統的な建物が並ぶ旧市街地とは対照的に、南側には近代的な新市街地が広がり一般庶民が居住しているが、これらの土地もすべて藤原院家からの借地である。

藤原院家には、毎年莫大な不動産所得が入ってくるのだ。

また、新市街といえども建物のデザイン規則が存在し、奇抜な建物や、ケバケバシしいネオンや看板も禁止。建物に塗るペンキの色も指定色以外は使えないという徹底ぶりである。風俗店やパチンコ店なども、もちろん許されていない。

その新市街地の、さらに南は海に面している。

海沿いには旧東海道が東西に通っており、街道随一と言われた藤原宿が栄えていた。

古い旅籠や旅館などが今も営業しており観光地として人気だが、この宿場に残る江戸時代の風情も藤原院家が厳格に土地を管理している賜物たまものである。



羅城門三日月は、そんな歴史を持つ富士原市の旧市街の坂道を軽いステップで登っていく。そしてあらためて富士山を見て、こんなことを思った。


・・・あの山がコノハナサクヤヒメなら、あの稜線はスカートかしら。

ふふふ、あのスカートをめくったら、どんな下着をはいているのかな。

いや、そもそも昔の女性は下着なんてはいてたのかしらね・・?

あはは、興味深いわねぇ。


格調と長い伝統を持つお嬢様学校への転入。

ふつうなら緊張感で身の引き締まる思いを持つところだが、彼女は、自分に裳裾もすそをめくられて、キャーーッと叫ぶ女神の絵ズラを思い浮かべて、クックックッと肩で笑った。






















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