第3話
治安の悪いその街は、壁という壁に卑猥な絵が描かれていてね、正直目のやり場に困ったもんだが、彼は他の奴らと違い、文字を壁に書いていたんだ。近付いて読んでみれば卑猥さの欠片もない、美しい文章がそこに刻まれていた。
ぼく好みだった。
「官能小説なら他を当たんな」
「そんなものに興味はないよ」
──ハンス・レクトル。
彼の過去は知らない。その日暮らしの根なし草だということと名前以外、何も教えてくれなかったよ。興味もないから別にいいけどね。金と衣食住を保障するから、血液の提供と執筆をお願いしたら、訝しみながらも最後には頷いてくれた。
街から離れ、森の中、小屋を建てて共に暮らした。私室は別にしたよ。ローラの時はお嬢さんだから当然だと思ってそうしたけれど、ハンスの場合は、そうだな……何となくだよ、深い意味はない。
ハンスはきみと比べると、あまり良き同居人ではなかった。連れてきたのは早計だったと軽く後悔したね。
彼は彼の物語を書くばかり。けしてきみの物語の続きを書いてはくれない。それだけじゃなくてね、条件の一つである血液の提供も渋るんだ。一度強引に吸血したら、それ以来会話は最低限になり、常に睨み付けられるようになって、まったく困ったもんだよ。化け物とすら罵られたね。事実ではあるけれど、あまり気分の良いものじゃない。
間違えた、ぼくは間違えたよ。
きみはどこまで書いたかな。
鍵の付いた箱の中に仕舞ったきみの作品を読み返しながら、彼と今後どうしていくべきか考えたよ。役立たずに構っている暇はないからね。
殺すべきだろうか。
街に戻すべきだろうか。
返事が来ないのは分かっていても、何度も何度も心の中できみに問い掛けてしまった。一度でいいから返事くらいしてくれても良かったのに。……いや、貴重な一度をあんなことに使ってほしくはないな。忘れてくれ。
「作家ってのはよ、自分の小説を書きたいもんなんだよ」
ある時、酒に酔った彼が珍しく話し掛けてきたんだ。図々しくも視線に侮蔑を込めてね。不快極まりなかったよ。
「自分の内から沸き上がる熱を吐き出すのに忙しくてよ、他人なんかの、まして太古の埃が被った作品なんかに関わってる暇はねぇんだ」
下卑た笑みが不快で、不快で。
「お友達の無念を晴らしたいってんなら、自分でやるか、俺じゃない他の奴に頼むんだな!」
ぼくは何の返答もしなかったよ。ただただ、彼とはもう無理だなって、それしか思わなかった。……一瞬だけだよ、一瞬だけ、殺そうかなとも思ったけど、きみの顔が思い浮かんだからどうにか我慢できた。きみ、ぼくが他の動物を殺すことにあまり良い顔しなかったよね。きみの嫌がることはしない。気が変わらないよう彼が鼾をかいて眠っている内に、荷物をまとめて出ていった。
間違えた、ぼくは間違えたよ。
そういえば彼は、きみの文体とは似ても似つかないものだった。一番大事な条件を満たしていなかったよ。やっぱり勢いは良くないね、すまなかった。
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