第25話 社長の妻
對田かおるは今年五十歳になった。
高知課長が殺害されたころから對田の様子が可笑しくなった。何かおどおどして……。
知合った頃は元気一杯だったのに……かおるは昔を懐かしく思い出す……
一心が社長夫人のかおるを對田宅に尋ね話を訊きたいと言うと、そんな風に思い出を語るように話し始めた。
* ――
高校三年生の夏、アルバイト先のファミレスでレジをやっている時だったわ、湖南斗一という大学生が財布を忘れたから家に取りに行かせて欲しいと言ってきたのよ、困ったわぁ。それで店長に相談したら「無銭飲食だから警察に連絡して」と言われちゃった。
湖南は何度も頭を下げて「絶対に迷惑はかけない」男なのに目を潤ませて言うのよ。
かおるは次第に可愛そうになって「私が立て替えて置くので絶対今日中に持って来てくださいね。金額は七百八十円ですから」そう言ってお金を取りに帰してしまった。
店長には「ばかやろーっ! 戻るはず無いだろうがっ!」って怒鳴られ「来なかったらお前が代わりに払えよ」
目を吊り上げて叱られた。
そう確か昼の混雑が少し緩んだ午後一時頃の出来事だったわ。
彼はなかなか戻って来ずに夕方になり、閉店時間が迫ってきた午後八時半、自動ドアが開いて湖南が姿を見せた時には、かおるは嬉しくて泣きそうになるのを必死に押さえながら「お帰りなさい」と迎えた。
「済みません。ちょっと財布をどっかに落としちゃったみたいで、見つからなくって友達から借りてきました。遅くなちゃって済みませんでした」
身体を二つに折って謝るので
「いいですよ、戻って来てくれてありがとうございます」
かおるも深く頭を下げたのよ。今から思えばそんなこと必要なかったのにね。
そして湖南が皺くちゃな千円札を一生懸命伸ばす姿を見て、この人は悪い人ではないなと思い
「もう良いです。店には私が払って、そのお金は私の財布にはいるので……」
そう言ったら「済みません。今度きちっとした札持って来るのでそれまで預かっていて下さい」
と言って札を渡して寄越したんです。勿論、お釣りはきちっとあげたわよ。
翌週の日曜日の夕方、男性客が店に入ってくるなり店内をキョロキョロしているので、誰かと約束でもしているのかなと注視していると、かおるの方を見てにこっと笑顔を作って走り寄ってくるの。
そして「こんばんわ。この前は済みませんでした」
と言って財布を見せ
「見つかりました」
嬉しそうにそう言って新札の千円券を差し出すので「何ですか?」と訊いたら、
「この前渡した皺くちゃな千円と交換してください」と言うんです。
それであ~こないだの無銭飲食の……と思い出したの。
「あっ、あれもう使っちゃいましたから良いです」
そう言ったら「そうですか」
一瞬悲しそうな顔をしたんだけど「それじゃ、この千円で何かご馳走させてください」と、気を取り直して明るく言うの。
なんか可笑しくなっちゃって笑って「じゃ、ここ終わったらハンバーグ奢って下さい」と答えたわ。
それが切っ掛けで友達としての付き合いが始まったのよ。
その後、一月もしないうちに對田竜二という湖南と同じ大学の四年生からバイトで会計をしている時に、突然「付き合って」と言われたのよねぇ。びっくり。
良くお店に来るお客さんで悪い印象は持っていなかったので「友達としてなら良いですよ」と言ったの。
男性の友人が一人増えて嬉しかったわ。この時が私のモテ期だったのかもね。
湖南が小説家を目指していたのに対して對田は物流会社をやりたいと言ってた。
性格も湖南は優しくて温和で口数もそれ程多くないのに対し對田は積極的で明るく口数も多かった。
その二人が大学を卒業した年の四月にかおるが系列の短大生になった。
その年に湖南はミステリー小説のコンテストで賞をとって本を出版もしたんだけどそんなに売れはしなかったなぁ。
一方の對田は友達と実際に会社を立ち上げ、かおるは事務処理を頼まれてそこでバイトするようになったのよ。
何年かして、湖南はコンテストで優勝して知名度が上がって仕事も増え収入も安定してきたのに対し、對田は物流から建築業に仕事を変えて順調に業績を伸ばしていったようなの。
それで對田の仕事のけじめだと言って全社員での慰労会をしたんだけど、その席でプロポーズされちゃって、迷ったけどオッケーしちゃった。
湖南にその話をして別れたんだけど、彼は悲しそうだったけど批判めいたことは一言も言わず「おめでとう」って言ってくれたの。
泣いちゃった。
それから翌年には長女の弥生が生まれたんだけど仕事は続けていたの。
小学校に入る年に夫に家に居て欲しいと言われ仕事を辞めて家庭に入ったのよ。
……やっぱり社長夫人が事務員をやってると周りが仕事しずらかったんじゃないかと思うのよね。
子供が出来てからの對田は張り切っちゃって仕事仕事でかおるをほったらかしで……寂しさを感じていたわ。
そんな時に、そう四十代に入ってからだった、偶然街で湖南にあったのよ。
彼は独身だったわ。小説家としては一応の成功を見たわけよ。
一緒にご飯を食べて色々話したわぁ。
大人の男性とお喋りしたのは久しぶりだった。
それでまた会う約束をして、……その時に湖南とホテルへ行っちゃった。俗に言う不倫ね。
今から思えば、かおるは湖南が好きだったんだと思う。なのに自分の気持が良く分かって無かったのね。
だからって結婚が失敗だなんてちっとも思わないわ。だって弥生が生まれたんだもん、幸せよ。
夫にもお水の女がいることは知ってたし、社員の若い女性に手を出したってわざわざ密告してくれる人がいたから、お互い様だと思って湖南との関係は今でも続けているの。
――
一心は、話しの最中に家政婦さんが淹れてくれたコーヒーを啜っていた。
「探偵さん、こんな感じでよろしいかしら?」喋り終えてかおる夫人が訊く。
「はい、恋愛話までありがとうございました」
――まぁ、ちょっと恋愛話は喋り過ぎ……まぁ良いけど。
「え~っと確か娘さんはお父さんんの会社に就職したんですよね」
「えぇ、弥生は賢くて大学で経済を学んで父親の会社で働いてるわ。でもどんな仕事かは私は訊かないの」
「そうですか。俺たちの方で調べたら人事課だと訊いてますよ。その内容までは訊いてませんけど立派にお勤めのようですよ」
「そう、なら良かったわ。……弥生には村岩専務さんの息子さんで正二郎という幼馴染のなかなかの好青年がいて、子供のころから良く遊びに来てたわねぇ。
今は恋人かな? 大学二年になる前、私に嘘ついて彼と九州旅行へ行ったみたいなのよ。
私は知ってたけど知らんぷりしたのよ、弥生の人生だもの。
でも会社で殺人事件があって弥生も関わっているようなので心配なんだけど、正二郎くんがついてるからきっと大丈夫だと信じてる。
本当に困ったら話してくれると思うしね」
かおる夫人はちょっと寂しそうに話してくれた。
「そう言えば、村岩さんは弥生が高校三年生頃から来なくなっちゃて、どうしたのかも心配ねぇ。社長と専務の関係だから仲良くしなきゃいけないんだと思うんだけどそうじゃないみたいだから、なんとなく嫌な予感がするわ。探偵さん何か知らないの?」
「社長と専務を社内では『犬猿の仲』と評されているようです。事業の方針で意見が対立しているようで……」
「そうなの、残念ねぇ。あんなに仲良かったのにねぇ。お陰で奥さんとも会えなくなっちゃって……」
かおる夫人は村岩さんの奥さんと話が出来なくなったのが本当に寂しそうな感じだ。
「色々ありがとうございました」
突然一心が質問の終わりを告げたのでびっくりした顔をして
「あら、もう良いの?」
かおる夫人はまだまだ話したい事がありそうな素振りを見せたが、一心はこれ以上訊いても実のある話にはならないと判断して切り上げることにしたのだった。
――まぁ、必要が出たらまたくればいいさ……。
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