黒電話の恐怖
森本 晃次
第1話 お化けの話
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年8月時点のものです。
「草木も眠る丑三つ時」
などとよく言われる。
それは、
「真夜中の午前二時から五時前くらいの間の時間が、人間だけではなく、草木も眠ってしまうほどに静かな時間」
ということを意味している。
そんな時間だから、昔の人は、
「お化けが出やすい時間だ」
と言って、恐れていたということなのだろう。
しかし、一日のうちで、
「お化けが出る」
と言われる時間帯を考える時、まず前提として意識しなければいけないものは、
「お化けとは?」
というところが、そもそもの大前提となるのではないだろうか?
お化けと似た解釈のものとして、
「幽霊」
「妖怪」
などというのが、その中に入るだろう。
つまり、お化けと呼ばれるものは、
「怪奇現象をもたらしたりするものの、総称と呼ばれるもので、妖怪や幽霊をひっくるめたものだ」
といえるのではないだろうか?
まず、幽霊というものは、
「人が死んでから、彷徨っているもの」
という解釈でいいのではないだろうか?
本来であれば、あの世に召されるはずなのに、恨みを持って死んだために、怨霊となって、この世を彷徨っている。それを、幽霊と呼んでいる。
では、妖怪はどうであろうか?
これは、
「人間以外のものが、別のものに変異した時に現れるお化け」
といえるであろう。
そして、幽霊、妖怪ともに、
「人知を超えた、怪奇で超自然的な現象を引き起こす存在」
ということで共通しているのだ。
考えてみれば、
「妖怪も幽霊も、人知を超えた、怪奇で超自然的な現象を引き起こす存在でなければ、別に怖がられることはない」
といえるだろう。
人間というのは、自分たちの意識の中で、納得できるものであれば、容易に受け入れるが、なかなか理解できないものは、何らかの理由をつけて、受け入れられないという、そういう理屈を持っているものである。
だからこそ、
「妖怪や幽霊などいない」
と怖いから、そう感がるのだが、それを認めてしまうと、自分の納得がいかないことも認めてしまわなければいけないという理不尽さを解消するため、必死で、妖怪や幽霊という存在を信じて、世の中の不可解なことを理解しようとするのだ。
確かに、妖怪や幽霊の存在を認めてしまうと、簡単に納得できるだろう。
「しかし、そんなことで簡単に納得してもいいのか?」
という思いからか、お化けの類を、
「信じていない:
と自分で言い聞かせなければいけないという、悲しいかな、そんな意識になるのだった。
では、
「妖怪と幽霊と、どっちが怖いのか?」
ということになると、その人の感じ方だと言ってもいいだろう、
その前に、
「霊感が強い人」
というのがいる。
それは、あくまでも、
「霊に強い」
ということで、
「幽霊に強い」
というだけのことで納得できることなのだろうか?
それとも、
「妖怪も、霊の一種」
ということで、どちらにも言えることなのだろうか?
それによって解釈が違ってくる。
もし、幽霊のみを感じるのだとすれば、気が弱い人であれば、幽霊を怖いと感じるだろう。
しかし、幽霊というものは、何も、怨霊だけではない。自分を守ってくれる、
「守護霊」
というものだっているではないか?
おじいさん、おばあさんが、何のために、毎日っ仏壇に祈っているのかというと、
「ご先祖様、私たち家族をお守りください」
と、先祖の霊に、願を掛けているからである。
だから、幽霊も決して、怖い人たちばかりではなく、守ってくれているご先祖様がいるから、仏壇や、お墓が存在しているのであろう。
では、妖怪はどうだろう?
妖怪はというと、
「人間以外のものが、妖術を使うと言われる、いわゆる、化け物に化けているものだと言われている。
それだけであれば、やはり怖いものというイメージが強いが、妖怪によっては、
「人間を守ってくれる妖怪だっているんだ」
といえるのではないだろうか?
「人間のためになる妖怪だっている」
例えば、
「座敷わらし」
などがそうであろう。
座敷の床の間にいて、いる間は、その家は繁盛するのだが、もし、座敷わらしがいなくなると、その家は没落すると言われている。
つまり、
「いてもらわなくては困るという妖怪であり、人間のために役に立っている」
と言われる妖怪である。
フィクションとしては、マンガの世界などで、
「正義の妖怪」
つまり、悪の妖怪を倒してくれるというのもある。
中国では、
「西遊記」
などの話は、人間のために、お釈迦様から命令を受けて、孫悟空を始めとした妖怪(元々は違ったのだが)たちが、悪い妖怪を退治しながら、三蔵法師のお供をしながら、天竺を目指すという(日本の時代劇に、少しだけ似たような話があるが……)、いわゆる、
「いい妖怪」
というのも存在しているではないか。
あくまでもフィクションではあるが、日本においても、中国においても、ひょっとすると、ヨーロッパにもあるかも知れない、そんな言い伝えから考えれば、
「いい妖怪」
という存在を、あながち否定するというのも、おかしいと言えるのではないだろうか?
どちらにしても、お化けというものを、十把一絡げにして、
「すべてが怖いものだ」
ということはいえないのではないだろうか?
そんな幽霊や妖怪というのは、一体いつ頃の時間に出没が多いのか?
前述の、
「草木も眠る丑三つ時」
というのは、幽霊が多いと言われる。
基本的に、本当であれば、絶対に夜に出るというのはおかしなもので、昼間にも出ているものだ。
「見える見えない」
という問題でもない。
幽霊が夜に出るという説の信憑性としては、
「方角」
というものが、大いに関係している、
丑三つ時」
の
「丑」
というのは、干支でいう二番目、そして、それが時刻と重なるということから、
「丑三つ時」
というのは、午前二時から、二時半くらいということになる。
昔でいうところの誰もが眠っている時間だ。
農家などでは、4時過ぎから起きてくる人もいるだろうから、やはり、二時過ぎくらいが一番、
「草木も眠る時間だ」
ということになる。
そして、昔の人は、時間と方角を干支によってあらわしていたことにより、二時というのが、方角では、東北ということになる。
そして、東北というのは、
「鬼門」
の方角に当たるというのだ。
つまり、
「邪悪な鬼が出入りする場所として、忌み嫌われてきた」
というのを、鬼門というのだ。
不吉なことが起こる方角ということで、それが、時間の午前二時すぎという、
「草木も眠る」
時間と符合するのだった。
そんな、言い伝えがあることから、幽霊が出る時間を、
「草木も眠る丑三つ時」
と言われるようになったのだ。
しかし、これが、妖怪ではだろう?
妖怪の中には、屋敷にいたりして、夜に出るのもいるかも知れないが、基本的に昼のイメージの方が強い。
日本の妖怪でもそれはいえていて、ただ、妖怪と言われるのは、基本的に、今いる人間以外の動物が、
「変化したものだ」
といえるだろう。
この時、
「へんか」
と読むのではなく、
「へんげ」
と読むのである。
つまり、河童や、天狗などの、森や川にいて、普段は、人間の前に姿を現さない。そして、不思議な力を持っていたり、人間を取って食べるものを妖怪というのだ。
さらに、妖怪というと、動物に比べて、知能が発達しているという発想がある。
特に、人間に捕まらないような用心深さも、まるで人間のようではないか?
妖怪というのは、そうやって考えると、
「動物が変化して、人間になろうとしたが、なれなかったものを、妖怪というのではないだろうか?」
と考えると、昔テレビであった、
「妖怪人間」
などというアニメがあったが、あれも、
「人間になれなかった生物」
という設定だったではないか。
そんな中で、妖怪の出没する時間として考えられているのは、夕方のある時間帯が多かったりする。
特に夕日が沈んでから完全に真っ暗になる時間、風が止まると言われる、
「夕凪」
に近い時間として、ちょうど、まわりが見えにくくなり、今でいう、
「交通事故が多発する時間帯だ」
と言われている。
この時間のことを昔から、
「逢魔が時」
という言葉で言われているようなのだが、その意味としては、
「魔物に出会う時」
という、読んで字のごとしという意味である。
この時間というのは、それまで、太陽の光の恩恵にて、それまで、くっきりと見えていたものが、日の光がなくなったことで、急に見えなくなるということであった、
人間の目が急激な変化についていけないということなのか、意識はしていないが、どうやら、あたりが、モノクロに見えているようである。
だから交通事故が多いといわれていて、昔からこの時間、怪奇現象的なことが多く出た時間帯だったのだろう。
それを、
「魔物の仕業」
ということで、
「逢魔が時」
と呼んで恐れていたのではないだろうか?
そういう意味で、妖怪が出没する時間を、夕方だろうというのは、こういうわけだったのだ。
幽霊が出るのが、
「丑三つ時」
妖怪が出るのが、
「逢魔が時」
だとすれば、他の時間帯には出ないのか?
いやそんなことはないだろう。
特に幽霊など、
「草木も眠る」
と呼ばれる時間帯であれば、企保的に、人間が眠りに就いている時間しか出没しないということになると、怨霊などは、実際に復讐したい相手が寝ていては、恨みを晴らすことはできないだろう。
もちろん、本当に化けて出るということを、実際にするわけではなく、例えば、夢の中に出てきて、そこで、呪うということもできるだろう。
夢の中で呪うことで、余計い恐怖を植え付けるという考えである。
最初は、
「これは夢なんだ」
と思っても、怨霊の力で、その中の一つでも、現実にできたとすれば、呪われる人間は恐怖におののくことだろう。
復讐心をどこまで持っているかであるが、
「呪い殺す」
というところまで考えているのであれば、夢だけでは足りないだろうが、
「自分が成仏できるくらい、相手を苦しめればいい」
というのであれば、夢で相手を呪縛するくらいは、かなりの効果があることだろう。
そのあたりの本心は、本人でなければ分からない。このように勝手な想像をすることも本当にいいのかという思いもあるのだった。
以前から、ホラーなどで、
「人を呪う」
ということは、自分にもその報いがあるという意味で、
「人を呪わば穴二つ」
という言葉がある。
「人を呪うと、自分にも報いがあり、自分も死ななければいけない。呪い殺してしまうと、結局、自分が入る分の墓穴が二ついることになる」
という意味の言葉であった。
ホラー番組で、
「人に殺された人など恨みを持った人間が死の世界に行く前に、自分で選択できるというものがある」
という設定の中で、
「相手を一人だけ、呪い殺すことができるが、呪い殺すと、自分も地獄に堕ちて、生き返ることができないという永遠の苦しみを味わう」
というものがあった。
それでも、復讐し、呪い殺すことを選ぶ人もいる。
それを見て、
「これこそ、知らぬが仏だ」
と思った。
人に殺されて、死の世界に行く途中の人は、自分が死んだことすら受け入れられないというらしい。
そこで、事実を悟らせるわけだが、その事実は、実に恐ろしいものだ。
「誰かを呪い殺して、地獄に行く」
というのが当たり前のことのような発想であれば、いかに事実を知ることが恐ろしいということになるのか、それこそ、
「知らぬが仏」
ということではないだろうか?
それを思うと、
「なるほど、復讐からは復讐しか生まない」
という言葉を聞いたことがあるが、どこから始まったのかということは別にして、復讐というスパイラルから抜けることはできないのだろう。
幽霊は、元々人間だった霊魂である。
本来なら、この世のことを忘れ江、天界に進んで、いわゆる、
「成仏」
するのが、本来の姿なのだろう。
それがうまくいかずに、彷徨うことになれば、それなりに理由があるはずだ。その理由を分かってなのか、分からずなのか。そして分からないのであれば、誰かが教えるという役目を負うだろう。
そういう発想から、前述のホラードラマのような発想が生まれ、別の作者から、似たような話が生まれてくるのも、無理もないことだおる。
盗作ギリギリのものもあるかも知れないが、まったくのマネでなければ、許されるところかも知れない。
何しろ誰も見たことがない死後の世界。発想は、100人いれば、100人とも違っていて当たり前だからである。
そんな幽霊や妖怪、ひっくるめて、
「お化け」
と言われるものは、ある意味、皆、どこかに恨みを抱えているのではないだろうか?
そもそも、この世に生きている人間でさえも、少なからずの恨みを抱えて生きているはずだ。
自分が人を恨んでいるなどと思わないから、
「自分が誰かに恨まれている」
という感覚もない。
ある意味、
「お花畑的発想」
といってもいいだろう。
妖怪や、幽霊に必要な定義として、
「普段は起きないような、怪しげなことが起こる」
というのが、妖怪、幽霊の定義というか、語る前提のようなものではないか?
そういう怖い現象が起こったことで、
「妖怪や幽霊の仕業」
ということで、納得しようと、妖怪、幽霊という発想が生まれたのかも知れない。
そういう意味でいえば、
「人間が納得するための言い訳として、まるでダシに使われたのだとすれば、幽霊や妖怪もたまったものではない」
といってもいいのではないだろうか?
最近、一人の青年が、そんな、
「怪奇現象」
に悩まされていた。
しかも、それが睡眠中の出来事なので、
「夢でも見ていたのではないか?」
と、人に言ってはいないが、言うと、
「夢でも見ていたんじゃないか?」
と言われるに違いないだろう。
そして、本人も、
「ああ、そうだよな。夢だったんだ」
として、片付けることが一番平和で、
「それができれば、どんなに幸せだと言えるだろう」
と思っていた。
しかし、単純に納得することができないのは、
「一度だけということではなく、何度か起こった」
ということだったからである。
「一度ならずも二度までも」
ということになると、かなりの信憑性がある。
一度だったら、信憑性は5%くらいだとすると、二度目では、80%くらいにまで跳ね上がっているだろう。
だからと言って、三度目で、100%にいくかと言えば、そんなことはない。何度見ても、100%というのはありえないのだ。
これは、割り算でも同じで、どんなに数字が小さくなろうとも、それは、
「限りなくゼロに近い」
という数字であり、ゼロになることはありえないのだ。
ということを示しているのだろう。
そんなことを考えると、二度見たのであれば、それ以降いくら見ようとも、ほとんど感覚は変わらないといってもいいだろう。
二度目に感じた時のことが、ある意味、
「すべての感覚だ」
といえるのではないだろうか?
彼の名前は、本郷周作という。
本郷は、35歳になったが、今だ独身で、本人とすれば、
「いまさら、もう結婚したいとは思わないな」
と感じていた。
20代に一度結婚を考えた女性がいたが、結婚しようとまでは思わずに、結局、ズルズルとつき合っていただけで、相手から、
「もう煮え切らないあなたとは一緒にいたくない。こっちの感覚がマヒしてきそうだわ」
と言って、離れていった。
なんの感覚がマヒしそうなのか、聞きたかったが、どうせ教えてはくれないだろうし、却って、神経を逆撫でするようなことになっても、嫌だったからだ。
「結婚というものは、思い立ったら、一気にやってしまわないと、できなくなる」
と言われたことがあったが、まさにその通りだ。
その時は自分の優柔不断さを後悔した。
結婚を考えているのだから、行動してしまえば、とんとん拍子に結婚にこぎつけたかも知れない。
しかしそれができないと、次第にどうでもいいように感じられるのは、自分が結婚というものから逃げようとしているのが原因なのかも知れない。
相手にせかされればせかされるほど、
「何で、結婚なんかしないといけないのか?」
と感じるのだった。
結婚というものを、
「人生の墓場だ」
と言った人がいるが、まさにそうなのかも知れない。
何と言っても、何も分からないことに対しては慎重になるおは当たり前だが、慎重になりすぎて、タイミングを逸すると、後は惰性になり、女性の強引な押しで結婚してしまうと、
「女房に頭が上がらない」
ということになる。
この言葉を日ごろ口にしている人は、優柔不断で決められない時、奥さんの押しで結婚してしまい、後悔している人なのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「人生の墓場が見えてくるような気がする」
と感じるのだ。
「結婚の裏には、結婚に関わる妖怪のようなものがいて、墓場に引きずりこもうとしているのかも知れない」
と感じた。
これは結婚に際してどんな人でも思うことで、円満に結婚した人は、そんなことを考えたということすら、忘れ去ってしまったのではないだろうか。
だから、覚えていないのであろう。
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