無垢の証明

五芒星

1. 殺し殺され。

殺し殺され

“罪に先立つものはない、すべては選択である。だが、選択に先立つものは存在する” ─トーフェック・マシナリズム、1989年 マリネトリア、トドフィルの郊外にて。


 二本の針がちょうど12と8に達するころになると、駅のホームは帰宅する人々でごった返す。誰もが帰路を急ぎ、他を気にも留めず、真っ先に、我先にと他を掻き分けて前へ進もうとする。他人と他人は限りなく近づき、ぶつかろうとも一瞥すらせずに過ぎ去っていく。

 だから、なにをされても気づかない。気づこうともしない。


 青年が一人、その中を進んでいた。足取りは重く、目に光はなく。それは人混みを構成する大勢の人間と同じものであったが、ただ一つ違うのはその理由。周囲が疲れによるものだとしたら、青年のそれは冷え切った覚悟に由来するものだった。


 ドンッ、と。肩と肩が勢いよくぶつかる。青年もそれにぶつかった帽子をかぶった中年の男性もお互いに軽く目配せをして会釈する。それっきり、お互いは目線を外し、すれ違って元の雑踏へ紛れる。そのはずだった。

 青年の手が動いた。握りしめられた拳が開かれ、その中に握られていた数本の釘をそっと男の首に突き立てる。それは驚くほど抵抗なく、音すら立てずに肌を破り、肉を掻き分け、奥へ──。


 そして、ぶつり、と。


 雑踏の中、一人の男が倒れる。その首の後ろからは血がゆっくりと路面に広がっていくが、気づく者は居ない。誰かが倒れたことに気づいても、人々は一瞥だけして去っていく。それは、決してこの街だからではない。



 しばらく歩くと、青年は路地裏の壁に背を預けた。手のひらを開けばそこには血濡れの釘だけがあり、それを血が目立たない黒色のタオルでぬぐって懐へしまい込む。

 これが男──アプリコット・ファニングスの日常。人を殺して金を稼ぐ、殺し屋としての仕事である。


 自身に宿るその特技にアプリコットが気付いたのは、数年前だった。そのときはすでに殺し屋として活動しており、だからそんな謎の力を素直に喜ぶことが出来るだけの余裕のなさがあった。 

“抵抗なく物体に釘を打ち込むことができる”ただ、それだけ。それだけができて、それ以外はできない。やろうと思えば釘以外も扱うことができるのかもしれないが、少なくとも殺しには釘しか使わないし、使えなかった。

 日々の暮らしは細々としていたが、アプリコットに不満はない。彼は充分すぎるほど知っているのだ。この生き方が若気の至りの結果であり、いつか自分はこの仕事が原因で死ぬのだということを。



 自身の足音と、ミートソースの材料だけが入ったビニール袋のがさがさという音だけが聞こえる。

 初めて人を殺したあの日から、仕事を終えるとアプリコットは必ずと言っていいほどミートソーススパゲティを食べる。単純に好物であるのもそうだが、なによりも血と肉の赤をミートソースの色が塗りつぶしてくれる感覚が気に入っていた。


 道は暗く、先の様子はよく見えない。この地区で暮らし始めて三年になるが、未だに、この街灯のない暗さにだけは慣れないというのがアプリコットの本音だった。

 アプリコットの家は老朽化が進む建物が並ぶ地区にある。この地区は全体的に灯りも少なく、人通りもない。そんな道すがら、青年の前に、影が一つ、現れた。数少ない街灯の下に浮かび上がったそれはゆらりとゆれて、幽鬼のように闇へと溶けていく。

 思わず身構える。自分が警戒態勢を取っているということを認識した途端、アプリコットに鳥肌がじわりと全身に広がっていく。

 間違いない、これは本能的な──いや、本能よりももっと人の奥底にある根源的ななにかによる警戒だ。敵意や殺意に反応しているのとは違う。どちらかといえばその逆。

 なにか、“綺麗なもの”が来る。自分如きでは触れていけないもの、決して汚してはいけないもの、最大限丁重に扱わなくてはいけないもの、そういったなにかが──


 ──なにかが、顔を出した。


 目の前にあるその白に思わず飛びのく。それが、真っ白な瞳を持った少女であることに気づくと、警戒は更に濃くなった。

 断続的に襲い来る鳥肌を無視して、アプリコットはそっと釘を数本後ろ手に抱える。投擲は苦手だが、この距離なら当たるはずだ。


 瞳。角膜も結膜も、すべてが真っ白な瞳がアプリコットを射抜く。その奥は穢れなき世界。真っ白で、染まることを許されない純真なる世界。一滴でもそこに“自分”が堕ちたなら、その世界はすぐに染まってしまう。一滴の墨汁ですべてが台無しに──


「ね」


 少女が、口を開いた。その声は例えるならば水晶。濁りの存在しない“美しすぎる”透き通った結晶。


「あなた、わたしを守って」


 一瞬、呆気にとられる。それは唐突だった。唐突すぎた。あまりに唐突だったものだからアプリコットは気づくのが遅れる。

 背後の闇夜から唐突に突き出された鋭利な刃がアプリコットの頭上を掠めていく。咄嗟に上半身を屈めていなければ今頃首あたりを切りつけられていただろう。


「守って逃がして。追手から」


 女が呟き、そっとアプリコットの後ろに回り込んだ。

 “盾にされている”そう気づくのに時間はたいしていらなかった。



 夜の闇、光さえ届かない濃密な闇の中で誰かが蠢いている。それは、この女でもなければ、自分の知り合いでもない。

 追手。言葉にしてみれば簡単だが、その裏には“なぜ?”という疑問が付きまとう。だが、どうしようもない。今はただ、対処するしか。


 アプリコットの耳が風を切る音を捉えた。姿は見えない。ただ音だけ。しかし、それは行動を起こすのには充分すぎる理由だった。

 一歩下がる。着ていたコートに切り傷ができる。もう一歩下がる。コートを破って表皮に切り傷ができる。


「……誰、ですか」


 明らかに攻撃を受けているというのに、飛び出てくる言葉は敬語。アプリコットはそんな自分にうんざりしながら、自らの身を光に浸した。数少ない街灯の光の下で、アプリコットと女は身を寄せ合う。


 そして、見えた。光の下で初めて、僅かに目に捉えることができた。

 それは、局所的に吹く風に見えたが、よく見れば空間の歪みだった。そしてその表現ですら適切でなく、そこに見えない誰かがいるという結論に行きつくまで数秒かかった。 


 誰かが、いる。闇に紛れて、否、空間に紛れて誰かがいる。


「ねえ」


 女が呟き、コート裾を強く握った。


「見えないものを、あなたは倒せる?」


 再び、空間から刃が突き出された。だが、先ほどとは違い、光の下でのその行動は注視すれば見える程度のもの、アプリコットは恐らく腕であろうその部位を掴もうとして──


「……?」


 なにかに自身の手が包まれたことに気づいた。

 即座に、空間から生身の人間が現れる。中肉中背、恐らく男、全身黒ずくめの顔を隠したファッションと、右手に握られたアーミーナイフ。明らかに戦いなれている人間。


 そう、殺し慣れているのではなく、“戦いなれている”。その二つの間には天と地ほどの差がある。殺すだけなら簡単だ。何事もなく近づいてしまえばよい。だが、こと戦闘となると──


 アプリコットは、透明になった自身の右手と、それを成している透明な何かを見つめる。

 恐らく、相手のからくりはこの透明なマントのような何かなのだろう。それを全身に被っていたから姿が見えなかった。アプリコットが腕を掴む際に、相手はそれをアプリコットの腕に被せかけたのだ。


 再び敵の姿が掻き消える。透明マントもどきをもう一枚羽織り直したらしい。

 このまま見逃せば再び敵の位置は分からなくなるだろう。その前にアプリコットは一歩踏み出し、見えない敵の腕を掴んだ。

 瞬間、アプリコットの腕が切り付けられた。だが、それではひるまない。なぜならば。


「この距離でなら、外さない」


 アプリコットは後ろ手に構えていた釘を、目の前にいるであろう透明な敵に突き立てた。

 おおよその狙いで突き立てられたそれは、透明なマントもどきをすり抜け、その向こうへ達する。

 すなわち、臓器へ。


「ぐ、お──」


 敵は、そこで初めて声を上げた。具体的な台詞ではなく、うめき声。肺に達した釘は血肉をかき回し──しかし、敵は止まらない。

 叫び声を雄叫びへと変え、透明なマントの向こうからナイフを突き立てようとする──その、眉間に、一本の釘が抵抗なく打ち込まれた。


「……これも、外さない」


 敵がその姿を露わにして仰向けに倒れると、張りつめていた緊張が一気に緩んだ。アプリコットは大きく息を吸い、安堵の息を漏らす


「お見事」


 少女が、口を開いた。ぎゅっと掴んだ服の裾を離し、控えめに手のひらと手のひらを合わせる。


「ど、どうも……?」

「とりあえず、あなたの家に行きたい」


 “聞きたいこと、沢山あるでしょ?” 少女はそう言うと、アプリコットの手を取った。


 他の変わらない煉瓦造りの古い建物。階段は一段上がるごとに壊れた楽器のような音を奏で、電灯はメトロノームのようにチカチカとリズムを刻む。その三階の通りに面した部屋こそ、アプリコットの自宅だった。


「こじんまりだね」


 アプリコットの自宅に入るなり、女はそう言ってじろじろと辺りを見回す。


「こんなものだと思いますけど」

「わたしのいた部屋は、ここより広くてなにもなかった」


不躾な見回りを済ませた少女は、唐突にアプリコットへ手を差し出した。


「リネン・ユーフラテス、よろしく」

「…アプリコット・ファニングスです」


 アプリコットは手を差し出さなかったが、リネンと名乗った少女が右手を無理矢理に取ってぶんぶんと振った。


「さっきは見事な手際だった」

「え、あぁ……そうですね。面と向かった対人は苦手だったので安心しました」


 アプリコットは目の前のリネンの姿を見つめる。

 見れば見るほどに現実感のない、まるで幽気が形を成したような人だ。白と灰が混じった髪はふくらはぎに届くほど長く、瞳は白一色。雰囲気だけ見れば神秘的な御令嬢とでも言うべきなのだが──


「お茶、まだ?」


 ──いかんせん、厚かましさがぬぐえない。



 ひき肉とトマト缶がフライパンの中で音を立てている。それを見守るアプリコットがチラリと食卓の方に目をやれば、なぜか両手でフォークをキープして完成を待つリネン。


「……あの」

「なに?」


 “できたのか” そう言いたげに腰を浮かしたリネンを手で留め、


「あんまり期待はしないでください。得意っていうわけでもないので」

「そのあたりは、大丈夫。路地裏育ちにとっては温かいという時点で、ご馳走だから」

「……なるほど」


 路地裏育ち、それにしては随分と身綺麗な格好をしている。つくづく彼女の身の上が気になるところだ。


「どうぞ、単純なものですが」

「待ってた」


 目の前に皿を置けば、彼女はすぐさまそれを口にした。

 薬物の混入を疑いもしないのだろうか。それとも、そんなことをはできないとタカをくくっているのか。


「……」


 どうやら顔を見つめていたことを怪しまれたらしい。リネンの瞳がまっすぐにアプリコットに向けられていた。気まずさから目をそらそうとしたアプリコットに向け、彼女はたった一言。


「信頼してるから」


 ……なぜ、ここまで?



「おかわり」


 リネン・ユーフラテスの辞書に、“遠慮”という項目はどうやら無いらしい。

 彼女のおかわりコールが3回目を超えたあたりで、アプリコットはそれを実感した。


「もうないです」

「えっ」

「えっ、じゃなくて」


 備蓄してある分のパスタは既に茹で切ってしまったし、ソースのほうも一度作り直す羽目になった。それでも止まらないとは、この少女は遠慮がないうえに大食漢だ。


「……ミートソースだけならありますけど」

「ソースだけ……」


 悲壮そうな顔をするリネン。その表情に、初めて出会ったときの神秘さは欠片もない。


「パンに塗って食べたらいかがです?」

「うん、それがいい」


 八枚切りの食パンにミートソースを塗ったものをもがもがと口に押し込み、リネンは満足そうな笑みを浮かべた。もう神秘性もなにもあったものじゃない。


 もがもがと口にパンを押し込み、見かねたアプリコットから受け取ったタオルで口を拭ったリネンは、満足げな吐息を漏らした。


「ふぅ……よし」

「よし?」

「じゃあ、始めよ」


 リネンの目がスッと細まった。

 アプリコットは理解する。これからが、本題なのだと。


「あなたの“それ”は、越えていく力。あなたの力を、わたしにために使って欲しい」


 唐突な言葉。捻じ曲げられ、遠回りなそれは内に秘めた意味を汲み取るのに少し時間が必要な代物だった。


「……つまり、俺に依頼を。と?」


 アプリコットは、ポーチから取り出した一本の釘をくるくると指の上で回した。

 彼女が言う力とは、間違いなくこれのことだろう。


「あなたのその力は、あなただけのものじゃない。わたしも、わたしを追う者も、持っている」

「……やっぱり、そうですよね」


 自分だけなわけがない。推測はしていたが、それは今この瞬間に確信に変わった。


「どれも一つとして同じものはない。共通しているのは超常と、“法則”という名前だけ」


 法則。そのワードは、驚くほど簡単にアプリコットの脳に馴染んだ。“しっくりきた” という表現が適切か。


「わたしは、追われている。逃亡の手助けをしてほしい」

「……追われているとは、誰に?」

「わたしが追われているのは──」


 リネンが口を開く。その続きをアプリコットは待って、待って──こめかみに、硬く冷たい何かが押し当てられた。

 拳銃。空中を浮遊するそれは銃口を押し当て、引き金が音を立てて──

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