坂と足音
川村人志
坂と足音
会社の屋内喫煙所がすべて閉鎖された。今日から屋外の喫煙所に行かなければならない。
昼休み開始時に喫煙所にいられるように、少しズルをして、数分前にデスクを離れた。
私と同じように考えている人も、私よりもズルい人も大勢いたらしい。着いたときには、すでに喫煙所は人であふれていた。労働からひと時解放され、顔が緩みバカ笑いしている群衆は、昭和の海水浴場の写真を思い起こさせた。中央でひと際大声を出すハゲた巨漢は、確かここから遠く離れた棟の人だったはずだ。どれだけ前から抜け出しているんだ。
「いや、いや、まいった、まいった。シガくん、だめ、ここはもうだめ」
私の名前を呼びながら、よろけてやってくる男がいる。マキタ先輩だ。
普段からよれているシャツが、先客にもまれてさらによれよれになっている。ケアをまったくしておらず、脂ぎっていて、不潔な髪もよれている。こちらは元々だが。
「ちょっと、みんな、ズルいでしょ。昼休みの十分も二十分も前にオフィスを出ているでしょ、彼ら。ズルいよ」
あなたも似たようなものでしょ、という言葉が、舌の上にまで上ってきたので、慌てて飲み込む。
「まあ、いいや。行こう」
「え? どこへ?」
「別の喫煙所」
「あそこ以外に喫煙所あるんですか?」
「いいから、いいから」
私の質問をあしらいながら、先輩は進む。普段の仕事ぶりを思わせる、大股で、だらしのない歩き方だが、背が高く、歩幅が大きいため、やたらと進みが速い。
二重の自動扉をくぐり、先ほど出てきたばかりの棟に戻る。左に曲がれば、私たちのデスクがある第八開発室だが、先輩は右に曲がった。十メートル先の突き当りまで進むと、次は左に曲がる。この先は、私にとっては未知の場所だった。数歩先に、両開きの金属扉がある。先輩は、難儀そうに扉を引いた。
「ほら、こっち」
すでに手を離して前進していた先輩が、手招きする。慌ててくぐると、大きな音を立てて扉が閉まった。その音が引くと、喫煙所の喧騒は消え、脳の奥に扉の音の余韻を響かせた。
この先は、時折二段か三段の階段になっている以外は、真っすぐ続く廊下だった。左側は一定間隔に金属扉が並ぶ、クリーム色だけの面。反対側は窓になっている。中に金属ワイヤーがひし形に入ったすりガラスであるため、外の様子は見えない。そばに別の棟が建っている影響で、陽光が差し込まない。節電のためか、天井の電灯は間引かれており、明かりが空間に行き届いていない。私たちの足音だけが響き、真昼だというのに空気がしんと冷えている。
五十メートル、百メートル。それほどまでに長く歩いた気がする。
「ここだよ」
廊下の突き当りの左側に自動扉があり、そこをくぐると、ぬるい外気が皮膚をなでた。
坂だった。扉の先はすぐ急な勾配の坂になっていた。コンクリートで舗装されていて、等間隔に円形の溝が彫られている。坂は緩やかに右に曲がり、別の棟の下に潜り込んでいた。
「そこ、そこに喫煙所があるんだよ」
先輩が指を差す。坂が曲がる直前に、Yの字のように左に進む細い登り階段がある。その上に、真っ白なコンクリートで作られた、八畳ほどの平面が広がっていた。中央に灰皿が立っているだけの、殺風景な広場だった。
「さて、吸おう。もう我慢できないよ」
先輩はポケットからタバコを取り出し、火をつける。目いっぱい吸い、幸せそうな表情で煙を吐き出した。その様子を見て、私も辛抱たまらなくなった。先輩に倣い、いつも以上に大きく煙を吸う。
ひとしきりニコチンが体に行き渡るのを堪能した後、先輩に声をかけた。
「それにしても、何でここ、人いないんですか?」
「穴場なんだよ」
灰皿に先端の灰を落としながら、先輩は答える。彼はだらしない性格だが、喫煙マナーはいい。灰の一粒も、灰皿からこぼすことはない。
「ほとんどの人は、ここの存在を知らない。知っている人は、ここに来ない」
「来ないって、どういうことですか?」
問いに先輩は答えない。考え込んでいるような表情をする。仕事中には見ない顔だ。
沈黙。
たん、たん、たん、たん。
坂の上から、足音が近付いてくる。コンクリートを靴底がこする音。急な坂だから、小さく早く鳴る。駆け下りるような。私と先輩が同時に音の方へ見上げる。誰もいない。足音はまだ聞こえる。
「ああ、分かっていてもつい見ちゃうんだよなぁ」
先輩がぼやく。
耳を澄ますと、足音はまだ聞こえる。ここで気づいた。おそらく、この音はずっと鳴っているのだ。私がさっき気づいただけで、ここに来る前から、ずっと前から、鳴り続けているのだ。
「ここ、この会社さ、何かおかしいとは思わないか?」
先輩の話は唐突だった。私の先ほどの質問の答えにはなっていない。
「おかしいって?」
「工事が多いでしょ、あまりにも」
確かに、と納得する。街ひとつと言っていいほどの巨大な敷地は、常にどこかで工事を行っている。工事が終われば別の場所の工事が始まり、どこかが通れなくなり、どこかが通れるようになり、新しい建物が増え、道だった場所に部屋が現れる。一年も経てば、持っている地図が役に立たなくなる。小さい頃テレビ番組で見た、ウィンチェスター・ミステリー・ハウスのようだ。
「それに、人事異動が多すぎる」
私たちは下請けで、別の会社から派遣されているが、監督する社員が四半期ごとに変わる。取り次ぎを依頼すれば毎回違う社員が応対する。毎月のように組織変更を知らせるメールが届き、そのたびにメールの署名欄の部署名を書き換える羽目になる。私たちの間では、ここの正社員の仕事の半分は引き継ぎ作業だ、というジョークが飛び交っている。
「シガくんはここの現場が初めてだったはずだけど、わかるでしょ。異常なんだよ。ここは。建物も組織も、ごねごね、うごうご、流動的すぎる」
ごねごね、うごうごの時に、両手指をばらばらに動かしている。言わんとしていることは何となくわかる。
「はあ、まあ、確かに。社内バスのバス停から、自分の席までの道のりしか知らないですからね。後、食堂の行き帰り」
バス停の位置は変わらない。そのため、そこからの道さえ覚えていれば、何とかなるのが唯一の救いだ。
「そう、それ以外は、右見て左見たら、もう変わってる。……生きているんだよ」
「生きている?」
話がおかしな方向に転がり始めているのを感じた。
「そう、ここ、この土地は、会社は、生きているんだよ。従業員を赤血球にして、建物という臓器が、常に新陳代謝をしているんだ。古い組織は解体され、新しいコンクリートと鉄筋が生えてきて、人は消えて、また入ってきて、本日からお世話になります新人のマキタですやあやあどうも初めまして私は君の上司の……」
足音が聞こえる。私たちは咄嗟に坂の上を見る。誰もいない。
「この会社で道に迷うと帰れなくなるって噂、知ってる?」
見上げたまま問われる。目だけが私の方を向いている。
「いえ、初耳です」
「この敷地の中で、あれ、ここ、どこだろう? と考えてしまうと、敷地の中で永遠にさまようことになるんだと。姿が消えて、意識だけ取り残されて、ずっと、この、うごうごしている建物に囚われるんだと」
また、うごうごというときに両手の指を動かした。
「それ、誰から聞いたんですか?」
「俺の先輩。シガくんが来る前に辞めたけど。その先輩も、自分の先輩から聞いたんだけど、と言っていたから、脈々と受け継がれているんだろうな」
「いやぁ、にわかには信じられないですね、その話。先輩の先輩がって、モロに都市伝説じゃないですか」
それに、そもそも、行方不明になったらこの話を誰にするのか。そういう疑念を察したのだろう、マキタ先輩はバツの悪そうな表情を浮かべ、タバコを灰皿に押しつけた。
「そりゃあ、そうだがね。でも、俺は思うんだよ。やたらと配置換えしたり、上司が変わったりしている内のいくつかの原因が、その都市伝説とやらで行方不明になったからじゃないかってさ」
目を細めてこちらを見つめる。彼は一本吸えば、しばらく喫煙欲が落ち着くらしく、いつも私よりも早く喫煙を終える。普段ならばさっさとデスクに戻ってしまうのだが、今日は席を立たなかった。
「俺は、ちょっとは信じているんだよ、この話」
心配してくれているのか。私が一人になって、うっかり消えてしまうことを。
それから数分、私は居心地悪く感じながら、タバコの葉を煙と灰に吸い分けた。耳の奥に、足音のようなものが残響し続ける。
翌日は、有休を取った。
さらに翌日。
いつものように、業務開始時刻ギリギリに出勤する。いつも早く来て、自分の席でうつらうつらしているマキタ先輩の姿はなかった。
始業のベルが鳴っても、彼はいない。上司のシタバさんが浮かない顔をしていた。携帯電話でどこかに連絡を取っており、しばらく電話に耳を押しあてた後、眉を八の字に寄せて通話を切っている。相手はマキタ先輩なのだろうか。
「シガくん」
昼休み間近に、シタバさんが声をかけてきた。彼は感情が表情に現れやすい。ひどく困っているようだ。
「マキタくんから、今日仕事来れないとか、そういう連絡受けている?」
「いいえ。何かあったんですか?」
首を振った。確かに職場ではよく話すが、プライベートは互いに干渉しない。仕事中の付き合いが多いのも、このフロアで喫煙者が私たち二人だけだからだ。
私の返答に、シタバさんは残念そうにため息をついた。
「マキタくんが今日来てなくて、連絡もないから、こちらから電話したんだよ。でも、何回呼び出しても出なくて。こんなこと初めてだから、心配で」
確かに、とうなずいた。マキタ先輩は、容姿はよれよれで、いかにもだらしなさそうだが、連絡もなしに欠勤することは今まで一度もなかった。
「いやぁ、そういうの、聞いてないですね。そもそも、仕事以外で先輩と付き合うことないですし」
シタバさんは驚いたようだ。目を見開いている。
「最近の子は人間関係ドライなんだねぇ」
しみじみとつぶやいた。
昼休みの開始を告げるベルが鳴った。カバンからタバコとライターを取り出し、いつもの癖で、棟内の喫煙所に向かうが、入り口に貼られた『閉鎖中』の張り紙で、室内全面禁煙になっていたことを思い出す。今から外の喫煙所に行っても、昭和の海水浴場だろう。
足は自然と、坂の方へ向かっていた。
坂へ続く廊下は、一昨日と変わらず、誰も通らず、音もなかった。ここで、ようやく異様であることに気づいた。昼休みならば、食堂やコンビニに向かう人、私のように喫煙所に向かう人など、誰かしらが往来するはずだ。左側には、何枚もの鉄扉が等間隔で並んでいるのに、そこから誰も出てこない。
涼しいにもかかわらず、背中に汗が伝うのを感じる。
坂から見える喫煙所には、誰もいなかった。
「やっぱり、いないか」
ほんの少し、マキタ先輩が仕事をサボってタバコを吸っているかも、と思っていたが、やはりそんなことはなかったようだ。
灰皿の横に立ち、火をつけたタバコから煙を吸う。どんよりと思考が濁る。
先輩は、病に倒れたのだろうか。それとも、悩みがあって、家から出られなくなったのだろうか。先輩はいつもへらへらしていて、悩みはなさそうだったが、口にしていなかっただけで、実際は思い詰めていたのかもしれない。
足音がする。坂の上に視線を向けるが、誰もいない。分かってはいても、反射的に目を向けてしまう。
音が、下ってきた。滑らないように、重心を後ろにして、駆けるように降りてくる。
たたん、たたん、たたた、たたん。
音だけが、私を横切り、下り、カーブの先である棟の下へ潜っていった。
そういえば、坂を曲がった向こうには何があるのだろう。喫煙所からは、トンネルの入り口が見えるだけで、中を覗くことができない。向こう側を見たいならば、坂を下るしかない。
タバコを灰皿に押しつけ、階段を下りる。Uターンをして、坂を慎重に下る。
静かだ。人工物に囲まれているからだろう、ここでは蝉の声が聞こえない。昼休みだから、工事の音も聞こえない。ここにある音は、私が発するものだけ。
足音が聞こえないことに気づいた。正確には足音のように聞こえる何らかの音だが、それが聞こえない。一昨日は、意識が音から離れて認識していない瞬間はあったものの、あの音は常にここにあり続けた。
後数歩で、トンネルの入り口に着く。覗き込めば、向こう側が見える。
そういえば、と思い出した。先ほどの足音、二重ではなかったか。まるで、並んだ二人が、一緒に降りているように聞こえなかったか。
――この会社で道に迷うと帰れなくなるって噂、知ってる?
マキタ先輩の言葉が思い返される。
――敷地の中で永遠にさまようことになるんだと。姿が消えて、意識だけ取り残されて、ずっと、この、うごうごしている建物に囚われるんだと。
トンネルの向こうで、足音の主たちが、待っている気がした。
私はその日以来、坂の喫煙所には行っていない。入り口の方の喫煙所は常に満員なので、昼休みに喫煙をしなくなった。
マキタ先輩は戻ってこなかった。シタバさんが彼の家に行ったが、帰っている様子はなかったそうだ。家族は捜索願を出したという。
彼は、あの坂で、足音になってしまったんだろう。
――2023/1/10に見た夢に着想を得て。
坂と足音 川村人志 @arucard66
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