序章 『昔日の記憶』
序章 『昔日の記憶』
——瞼を閉じれば、今でもあの時見た光景を鮮明に思い出す。
眼下には、残照に照らされた街並みが広がっていた。
区画整理が成され規則正しく並ぶ木造の建物群。一定の広さが保たれた肌地の街路。家屋の窓や出入り口から漏れ出る灯りは暗闇を払う篝火のようで、活気に溢れた多くの人々が残照と行灯に照らされた道々を盛んに行き交っている。それは離れたここからでも生活の喧騒が聞こえてきそうな程に、人々が日々を生きる力強さを感じさせる光景だった。
街を一望出来る小高い丘の一角で、父に抱えられながらその全景を眺めていた当時の私は、「幻想的」という感想を胸の裡に抱いた。活気溢れる様子にそんな感想を抱くなど、聞く人によっては感性の歪みを指摘されるかもしれないけれど、当時の私にとっては何もおかしなところはなかった。あれだけたくさんの人達が一所に集まって皆笑顔を浮かべている。初めて外の世界を目にした私にとって、それはとても尊く、奇跡と呼べる光景に思えたのだ。その時の思いは、追憶の一編となった今でも変わってはいない。
『どうだ、燈子。すごいだろ? ここは父さんが子供の頃に見つけた秘密の場所でな。今見えているこの景色が、父さんにとって一番の宝物なんだ』
腕の中で眼下の街並みに目を奪われている私を見て、父は嬉しそうに語った。
その言葉は決して比喩などではない。士族の一つ『緑川家』の当主を務める父にとっては真実、人々が平穏に暮らす光景そのものが自身の手で守るべき宝物なのだ。
父は満足そうな表情を浮かべながら、言葉を続けた。
『燈子も気に入ってくれたようで何よりだ。ただ、この場所は絶対に他の人に教えてはダメだぞ。もう一度言うが、ここは誰にも知られていない、父さんの秘密の場所だからな』
私は目線を街から頭上にある父の顔へと向けた。
『それは、従道おじさまにも教えてはダメ、ということですか?』
『そうだ、従道にも教えてはダメだ。ここは今から父さんと燈子、二人だけの秘密の場所になるんだからな』
父は人差し指を自分の口に当てて、茶目っ気たっぷりに右目を瞑りながら言った。
『わかりました。ここはわたしと父さまだけの秘密の場所です』
父の動作を真似て、私もはにかみながら人差し指を自分の口に当てた。父と二人だけの秘密が出来たことに私は嬉しくなった。
それと同時に、私はこの場所が父にとってとても大切な場所であることを薄々ながら感じ取った。
当時の私は、屋敷の外に出ることを固く禁じられていた。
だからと言って蔑ろにされていたかというと——少なくとも当時はそんなことはなく——父は私にたくさんの愛情を注いでくれた。一族の当主として忙しい毎日を送っているにも関わらず、生まれながらに母を知らない私が寂しい思いをしないようにと、出来る限りの時間を私と一緒に過ごしてくれた。
そんな父が突然「外に出かけよう」と言って連れてきてくれたのがこの高台だったのだ。父は私が人生で初めて見る外の世界にこの場所を選んだ。その事実一つとっても、街を一望出来る此処が父にとって、他の誰にも知られたくないくらいに何かしら思い入れのある場所であるということは幼心ながらに察することが出来た。
私は視線をもう一度眼下の街並みへと向けた。残照が薄くなり行燈の灯りが存在感を増しつつある中でも、街の賑やかさは依然として変わらない。私にはこの高台に特別感を抱いた父の心情がよく理解出来た。父がこの光景を指して「宝物」と表現した理由も。
『父さま。わたしも父さまと同じように、ここを護れる存在になりたいです』
私は街の方に目を向けたまま、自然とそんな言葉を漏らしていた。父を喜ばせたいと思って言った訳ではなく、ただ心の中に浮かんだ気持ちをそのまま素直に口に出しただけだった。
——時を経た今だからこそ分かる。これが私の始まりにして原風景。現在の私を構成する要素の中心、揺らぐことのない核であるのだと。
私が自分の気持ちを口にした直後、頭上から息を呑む声が聞こえた。声がした方向に視線を動かすと、父は少しだけ驚いた表情を浮かべていた。その後、父は悲しそうな感情をほんの一瞬だけ滲ませてから、すぐにいつもの優しい笑顔へと戻った。
『そうだな。燈子が私の跡を継いでくれるなら、父さんも安心出来るよ。けれど良いのかい? 緑川家の当主を目指すことも、当主になった後も、きっと大変なことがたくさんあるぞ?』
『大丈夫です、任せて下さい! だって、わたしは父さまの娘ですから! 何があっても乗り越えてみせます!』
私は父の腕の中で胸を張って宣言した。この時の私は、絶対に出来るという自信に満ち溢れていた。なぜなら……。
『そうか。そうだな。燈子は私の自慢の娘だからな。うん、燈子だったら絶対に大丈夫だ。父さんはそう信じているよ』
——なぜなら私は、優しくて偉大な貴方の、自慢の娘なのだから。
そんな私の宣言が嬉しかったのか、父の目元には涙が滲んでいた。
私は父の言葉を聞いて、嬉しさが込み上げて来るのを感じた。「自慢の娘だ」と父に期待されたことが嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。私は込み上げる嬉しさを堪えきれなくて、思わず父の首へと飛びついてしまった。突然飛び付いてきた私に父は驚きながらも、いつものように優しく頭を撫でてくれた。
それは父が床に伏す一週間前で、亡くなる半年前の出来事だった。
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