義賊と守護者

 十兵衛は馴染みの茶屋で団子を頬張っていた。

「相変わらず暇そうだねえ」

「暇ってわけでもないぞ、婆さん」

「はいはい、わかってますよ」

 茶屋の主おまつは、上機嫌で茶を置いていった。十兵衛は熱い茶に息を吹きかけて冷まし、一口すすった。

「うまい…………」

 感無量とは、この事かもしれぬ。

 おまつの茶屋で団子を食べ、食後に一杯のお茶を飲む。

 たったそれだけなのだが、十兵衛の心からは辛苦が消え、明日への活力が満ちていくのだ。

「さすが婆さんの茶屋は江戸一番だな」

「はいはい」

 おまつは振り返らずに言った。照れ臭いのだろう。

「また来たの」

 十兵衛に店員のおりんが声をかけてきた。彼女は少々、呆れ気味だ。おりんから見ると、十兵衛はおまつを口説いているように見受けられるという。

「は、いや。そんなつもりはないぞ」

「あー、そうですか」

 おりんは機嫌悪そうな態度で、空いた皿と茶碗を片づける。

 十兵衛は床几に代金を置いて立ち上がった。

「また来るぞ」

「ねえねえ、あんたさあ」

「ん、なんだ」

「……裃姿も似合ってたよ」

 おりんはそう言って茶屋の奥に引っこんだ。

 十兵衛は一瞬だけ、おりんの照れ臭そうな、そして晴々しい笑顔を見た。

 これで死ねる、と十兵衛の心には訳のわからぬ思いが生じてくる。

 それをもたらしたのは、おりんであったか、それとも十兵衛が成し遂げてきた戦いの充実であったか。

「我が生涯に一片の悔いなし――」

 十兵衛は青き空を見上げ、天へと右拳を突き上げた。

 今の十兵衛の心は、江戸の青い空と同じく、清々しいまでに澄んでいた。

 修羅の闘争を経て至った境地は、十兵衛自らが説く捨心の境地であったろうか。

 今この時ばかりは、十兵衛の脳裏からは大奥の女中が一人、行方知れずになった事など消えている。

「はいはい、早く帰った帰った」

「ちょっと、そこにいたら他のお客さんの邪魔なんだけど」

 おまつとおりんは、そんな十兵衛に呆れ返っているようだ。



 夜になれば十兵衛の姿は、源の引くうどん屋の屋台にある。

 うどんを食べ終えた十兵衛は店主の源と、引き連れた政を交えた三人で話しこんだ。

「浪人の数は減りやせんよ。せいぜい仕事を斡旋してやるくらいでさあ」

 政は小柄な商人風の男で、江戸城御庭番で最も手裏剣術に熟練した男だ。離れた距離では十兵衛も敵うまい。

「手に職あれば生きられやすが、最近は浪人も働く気力すらない奴らばかりで」

 源の屋台は安くて量も多く、味もそこそこという事で、浪人が数多く利用していた。源は屋台を引きながら、江戸市内の浪人を監視しているのだ。

「今は無気力な者が多いが、統率者が現れたら重大だな」

 十兵衛はそう言う。今、江戸に集まっている浪人らは烏合の衆であり、彼らに強大な統率者はいないのだ。

「そうですなあ、浪人を集めて商家を襲うとか…… 浪人が百人も集まったら、あっしらだけじゃどうにもなりやせんぜ」

「万が一、百人で城に攻めこまれたら防げるかな」

「今の江戸城では危ういな」

 源と政の話を聞きながら、十兵衛は腕組みして隻眼を閉じた。

 江戸城御庭番――元は伊賀組、甲賀組の忍びの者達だ――は、十兵衛も把握しきれていないが、五十人ほどだろうか。

 もしも浪人が百人集まって刀を抜いて蜂起し、江戸城に攻めこんだらどうなるか……

 杞憂に等しい十兵衛の妄想ではあるが、実際にそうなったらどうするか。

 ――いかに父上が兵法に優れていようと、万の軍勢に勝てるわけではない。

 十兵衛はそのような思いにとらわれた。兵法の限界、それは古の剣人達もぶつかった壁だ。

 だが、天真正伝香取神道流の飯笹長威齋は、兵法とは平和の法なりと説いた。

 武神である経津主大神を奉る香取神宮で兵法練磨に励んだ飯笹長威齋。その門下に刃傷沙汰はほとんどないという。

 武威を以て平和を築く――

 それは祖父たる柳生石舟斎宗厳や、先師の上泉信綱も目指していたものだ。

 無刀取りの技は、平和のために編み出された技であるのだ。

 ならば、それを目指すしかない。逆説的だが、十兵衛は人殺しの技である兵法を学び、その上に江戸の泰平を築かんと願う。

 ――老師ならばどう思うか。

 十兵衛の言う老師とは、宗矩と同じく将軍家剣術指南役であった小野忠明の事だ。

 小野忠明は十年ほど前、十兵衛が隠密として西国に出向いていた時に亡くなった。

 父の宗矩とは対立していたようだったが、忠明は十兵衛に剣を指導した恩師でもある。

 ――いいか七郎(十兵衛の幼名)さん。刀を用いようと槍を用いようと、一刀にて敵をしとめるが故に、我が流派は一刀流というのだ。

 幼い十兵衛に忠明はそう言った。それこそが一刀流の概念であり、十兵衛の信念にもなった。

 右目を失った十兵衛は距離感が合わず、剣技には秀でなかった。だが初太刀ならば、一瞬の勝負であるならば勝機を拾えるかもしれぬ。

 一刀流の秘伝、その心構えは十兵衛の血肉となり、魂に宿っている。

「むう……」

 十兵衛は床几から立ち上がった。身の内から沸き上がる熱きものは、死の覚悟か、生きる勇気か。

 十兵衛は一度、夕闇の空を見上げると、屋台の側に生えた柳の木に向かい、瞑想した。

 左目を見開くや柳の幹へ、素早く身を寄せている。技をしかける機を狙う一人稽古とでも称すべきか、十兵衛は夕闇の中で何度も幹へ背中を寄せる。

 肩や背を利用しての体当たりは、無刀取りから学んだものだ。身を擦り合わすような接近戦の中に、無刀取りの真髄はあるのだ。

 ――七郎よ、勝機は一瞬にも満たぬ刹那の間にこそあると心得よ。

 父の教えも十兵衛の心と命に、その統合たる魂によみがえる。

 奇しくも父の宗矩、恩師の忠明は同じ事を説いていた。

 一瞬で敵を倒す。

 それこそ武の深奥であり、また宗矩と忠明が戦場という実戦を経て到った真実でもある。

 技を繰り出す一瞬の中に己の全てを放りこみ、そうして生き延びてきた充実に、十兵衛は活かされている……

「おーい、若旦那ー」

「ダメだ、ありゃ」

 源と政は一人稽古を始めた十兵衛に呆れ、酒を飲み始めた。夜も近いので、源のうどん屋も店じまいなのだ。

「死体が消えちまうとはな」

「大奥じゃ大騒ぎだろう」

 源と政は――二人は戦友でもある――酒を飲みつつ語り合う。

 行方知れずだった奥女中は、江戸城敷地内の井戸から骸として発見された。

 が、その骸は、ほんの少し目を離した隙に消えてしまったという事だ。

「世の中には化物がいるんだよ、ひょっとしたらそいつの仕業かもしれねえ」

 政は十兵衛と共に魔性と遭遇している。その記憶を思い返すだけで、政は生きた心地もしなかった。

「あの……」

 か細い女の声に源と政が振り返れば、そこには女が一人立っていた。

「うどんを一杯…… いただけませんか」

「すまねえ、もう店じまいなんだが……」

 源は女を見つめて息を飲んだ。長い黒髪を束ねもせず背に垂らしている。

 衣服は湿り気を帯びているようで、微妙に肌に貼りついている。言い知れぬ艶があった。

「そうですか……」

 女は青白い顔でつぶやいた。消え入りそうな小さな声であった。政は女から目をそむけた。暗い女は好みではなかった。

「まあ、なんだ。湯は冷めちまったが、それでよければ」

 源が席を勧めると、女は床几に腰を下ろした。政は女から席一人分離れた。十兵衛は未だに柳の木を相手に一人稽古していた。

 席に着いた女は源がうどんを準備するのを、ぼんやりと眺めていた。

 源は器にうどんを一玉放りこんだ。うどんは、店を出す前に茹でてある。

 うどんの上に刻みネギ、更にかまぼこを乗せ(源の好意らしい)、つゆをかけて湯を注ぐ。

 非常に簡潔ながら、うどんの準備が終わった。本来なら残飯として源が食べる分だ。

「これでどうだい。お代はいらねえよ。湯も冷めちまったしな」

「おいおい、豪華じゃねえか。俺と若旦那の分には、かまぼこなかったぞ」

「それは別料金になってんだ」

 源と政が歯に衣着せずに語り合う側で、女は黙々とうどんをすすった。

「美味しい……」

「そ、そうかい。そう言われると男冥利に尽きるな」

 女と源の会話を政は横目で眺めていた。やがて、うどんを食べ終えた女は床几から立ち上がった。

「ありがとう……」

「ま、またのお越しを」

 源は女を見送った。まるで幽霊のような女は、一人稽古している十兵衛を一瞥して歩み去っていった。

「おい、かまぼこくれよ。いけるじゃねえか」

「あ、ああ」

「……ち、全く。俺も嫁さんが欲しいぜ、ちっくしょう」

 政は酒を猪口で飲みながらつぶやいた。この頃、江戸には大勢の男が集まっており、男女の比率は男が六、女が四と言われていた。

 数万人の浪人が江戸に集まっている事を考えると、更に女が少ない状況だろう。

 女は選り取り見取り、男は一人身。

 江戸に吹く初冬の風は、十兵衛や政には様々な意味を含んで肌寒い。

「また来ねえかな……」

 源は女が去っていった方向をじっと見つめていた。

 政は屋台に戻ってきた十兵衛と共に、酒を飲みながらかまぼこに食らいついた。

「今の女は誰だ、俺の後ろを通りすぎながら変な人、とつぶやいていったぞ」

「知りやせんよ、こっちが聞きたいくらいでさあ……」

 源は上の空でつぶやいた。まな板の上の鯉であろうか。例えは違うが意味は似ている。



 それから十日ほどして、江戸で盗賊団の事が噂になった。

 商人の家に押し入って金を奪い、それを貧しい者の住む長屋にばらまいたというのだ。

 しかも率いているのは女らしい。噂に尾ひれがついて、美しい女盗賊が悪徳商人をこらしめたなどと巷で騒がれていた。

「女盗賊か」

 十兵衛の姿は、いつもの茶屋の店先にある。床几に腰かけた彼は、団子を食べ終え、食後の茶を堪能していた。

「働きなさいよ、あんた」

 おりんが側に来て小言を言った。彼女の真意は知れぬ。

「いや、俺は働いてるんだがな」

 十兵衛は気まずそうに言った。昨夜は春日局の依頼で、大奥に侵入していた。

 夜な夜な魔物が出るという噂が大奥に流れており、春日局はその解決を十兵衛に依頼したのだ。

 十兵衛と春日局の関係は深い。家光の辻斬りを止めたのは、春日局の依頼を受けた十兵衛だ。

 また十兵衛の愛刀、三池典太(後世では国宝に数えられる)は春日局が賜ったものだ。

 何にせよ、十兵衛は魔性とも斬り結んでおり、先日消えた女中の骸も気になった。

 ひょっとしたらと考えた十兵衛は夜半、黒装束に黒塗りの般若面をつけ、大奥の敷地内を探索したのだが、徒労に終わった。

 魔性の噂は、密かに男を引き入れていた女中が流したものだったのだ。

 ――全く女は姦しいというか……

 心中に愚痴を吐き、十兵衛は大きなあくびをした。夜の中で出会った男女は、裸で大奥敷地内で戯れていたので朝まで説教をした。

 馬鹿馬鹿しい話だが、魔性の噂を恐れた女中らは夜に出歩く事もなかった。しめしめとばかりに、女中は引き入れた男と広い敷地内で好き勝手に戯れていたのである。

「あらあ、朝まで女遊びでもしてたのかい」

 店の奥から、おまつが出てきた。

「い、いや、違うぞ婆さん」

「何が違うんだい」

 普段は穏やかなおまつだが、今日は大変に機嫌が悪かった。

「ま、また来る」

「ふん、病気もらったって知らないからね」

 おまつの声を背に聞きながら十兵衛は店を去った。

 ――全く、女に関わるとろくな事がない……

 十兵衛の心は折れそうであった。

 かつては春日局の依頼で家光の辻斬りを止めた。

 隠密行の最中では、女の無念を晴らすため、京の粟田口で盗賊団と死闘を演じた。

「やれやれだ……」

 十兵衛は苦笑して空を見上げた。その死闘もまた十兵衛には人生の充実であった。

 そして江戸の往来を見渡せば、行き交う人々の活気に満ちていた。その平穏こそ自分が守ってきたものだと思い到った時、十兵衛は言い知れぬ満足を得た。

「男は最高だな……」

 十兵衛は心も足取りも軽く、柳生屋敷へと戻った。

「おばあちゃん、あそこまで言わなくても」

「あれぐらい、いい薬だよ」

「そうかなあ、傷ついてないかなあ」

「なんだい、おりん。あの若旦那がそんなに気になるのかい」

「き、気になんかしてないから」

「どうしたんだい、顔が赤いよ」

 おりんとおまつはそんな会話をしながら十兵衛を見送った。女心は永遠の謎だ。

 昼下がりの江戸は人の往来も多く、にぎやかだ。江戸の町には命と活気があふれている。

 それを守っているのが柳生の剣士たる十兵衛と、その仲間達だ。



 江戸は夜を迎えた。

 月明かりに照らされた暗い町並みは、昼とはまるで違う世界だ。

 夜の闇に放りこまれると、人間は思い知らされる事がある。

 この闇の中は、人間の住まう世界ではないと。人ならざる者達の住まう世界だと。

 夜の闇を克服するのに、人類は更に数百年を経なければならぬ。闇は人間を成長もさせる。

「いくよ」

 闇に蠢く覆面の者。発した声は女のものだ。従う男達は応、と答えた。

 商家の裏門の高い屏へ、覆面の女は飛び乗った。尋常ではない跳躍力を披露した女は、屏の上から縄を下ろして配下を引き上げていく。

 噂に聞く女盗賊だ。今宵この商家では、盗賊団によって大金を盗まれたが、不思議と死傷者はいなかった。



 十兵衛の姿は江戸城内の道場にある。彼の本職は書院番であり、将軍家光の護衛を任としている。

 が、十兵衛は書院に詰めるという事はない。弟の又十郎が家光の側にいれば充分すぎるという考えもある。

 そしてまた彼の背負う任は、家光の護衛に劣らぬものである。

 稽古袴の十兵衛は、板の間の道場中央に立ち、左の隻眼を閉じた。

 瞑想する十兵衛の心中に、父宗矩の技がよみがえる。かつて無刀取りの術を学んだ時、宗矩は踏みこんできた十兵衛の足を払って横倒しにし、組ませもしなかった。

 ――未熟。

 宗矩の厳粛な声もまた、十兵衛には活となった。そして師事した小野忠明の事も十兵衛の脳裏によみがえる。

 ――ほれ。

 忠明は左手に乗せた石に、右手の手刀を打ちこんだ。気合いもなく、力をこめたようには見えなかったのに、忠明の左手上の石は真っ二つに割れていた。

 ――十兵衛さんの親父殿には及ばんが、わしとてこれくらいはな。

 忠明の目が、若い十兵衛には怖かった。宗矩と同じく将軍家剣術指南役ながら、忠明の一にらみで幕閣の誰もが震え上がっていた。

 ――十兵衛さん、その眼だよ。わしが気に入っているのは、十兵衛さんの眼、いや心意気だ。

 忠明は言った。十兵衛の眼が好きだと。

 己よりはるか格上の者を前にして尚、戦意を失わぬ十兵衛の気概を。

 それでこそ男だと。

 ――たとえ殺されても一歩も退かぬ気概、それこそ戈を止めるもの…… 武というものだ。

 忠明はそう言った。武の精神を説いたのだ。

 なるほど、命を捨てて江戸を守らんとする今の十兵衛こそ、武の体現に他ならぬ。ひょっとしたら、それは忠明に導かれて到達した境地だったかもしれない…………

 十兵衛は瞑想から醒めた。心は現実に引き戻された。

 江戸を騒がしつつある女盗賊、彼らの行いは天晴れなれど、放っておくわけにはいかぬ。

 天晴れ、天下の義士。

 そのように褒め讃えてやりたい十兵衛だが、幕閣ではそのように思っていない。

 幕府御用達の商人だっている。幕府の財政は商人達によって担われている面もある。

 盗賊団を恐れる商人らは、幕府から派遣された腕利きの用心棒を雇い入れている。これには小野忠明の一刀流の門下が多く雇われていると聞く。

 何にせよ、女盗賊を討てと幕閣からはすでに命が下りていた。同心やそれに従う岡っ引きのみならず、江戸城御庭番も気を引き締めていた。

 また、染物屋の風磨(風魔忍者の末裔だ)にも声がかかっていた。

 風磨は江戸城御庭番とは違い、平時は染物屋だが、有事の際には御庭番以上の武装集団になる。

 風磨を率いるのは十兵衛以上の強者、國松という人物だ。

 ――天下泰平の世だというのに、嫌な事ばかりだな。

 十兵衛の隻眼が光を帯びた。彼は無心に壁際まで歩を進めた。

 流れる水、あるいは微かな風のように。

 対手に何の反応も起こさぬ、無の境地。

 ――ガアン

 板の割れる音が道場内に響く。十兵衛は肘を道場の壁に打ちこんでいた。

 これも父の宗矩から学んだ無刀取りの一つで、鎧の上から衝撃を内部へ伝える特殊な技だが、

「あ……」

 十兵衛の厳かな表情は、泡を食っていた。道場の壁に穴を空けてしまうとは。

 それだけならばまだよいが、この道場では御庭番の女子も稽古に励む時がある。着替えを覗かれるのを嫌う女子らは、道場の壁の穴をどう思うか。

「こ、これは一大事だ……」

 十兵衛、嫌な想像をして顔から血の気を引かせていた。刀槍の刃も、闘争の緊張も、女の金切り声には敵わない。

 こうして十兵衛は一時的とはいえ迷いを遠く離れた。女は偉大である。あるいは、これも不動明王の導きかもしれない。



 江戸城を辞した十兵衛は、その足で馴染みの茶屋に向かった。道場の壁を壊した件は、弟の又十郎に言伝てを頼んだ。

 ――頼んだぞ又十郎。

 十兵衛は渋い思いである。彼が苦手とする御庭番衆の女子らも、又十郎には少々甘いだろう。希望的観測だが甘いはずだ。

「あら、いらっしゃい」

 おりんのそっけない言葉にも十兵衛は慣れた。同時に心穏やかなる事を知った。

 この茶屋にいる限り、彼は幕府大目付の柳生但馬守宗矩の嫡男、十兵衛三厳ではない。

 ただの七郎だ。

「いつもの」

「はいはい」

 おりんはうなずき、他の客に茶を出し、そして店の奥へ戻っていく。

 長い後ろ髪を束ねて垂らしたおりん。地味な着物ながら、彼女の腰回りはよく動き、生命力と色気に満ちていた。

 十兵衛は雑念を払うため咳払いする。女が嫌いというわけではなく、女を知らぬわけでもないが、女は苦手なのだ。

 ――色欲は断てぬ、遠ざけよ。

 そのように教えたのは宗矩だ。十兵衛の弟、左門友矩は異母弟だ。父の宗矩の言葉は、奇妙な説得力があった。

 ――剣は毒、酒も毒、そして女も毒だ。

 師事した小野忠明はそう言った。同時に、毒だからこそ人を救う薬にも成りうる価値があるとも言った。今ならば十兵衛にもわかるような気がする。

「お待たせしたわ」

 十兵衛に茶と団子を運んできたのは、茶屋の店主のおまつだった。十兵衛は少しがっかりした。

「あんたねえ、逃げられてもいいのかい」

 おまつはため息をついた。

「何がだ、ばあさん」

「おりんが嫁に行っちまうよ」

「なんだと」

「あんな器量良しを誰が放っておくんだい」

「ま、まさか縁談がまとまったとでも……」

「はあ、男は気が小さいねえ。そんなわけがないじゃないか。見なよ」

 おまつに言われて十兵衛が狭い茶屋を見回せば、男の姿が目立つ。町民だろうが、彼らの視線はおりんの後ろ姿に向いていた。

「これは――」

「下心丸出しの様子だよ。あんたも似たようなもんだけど」

「うぬぬぬ……」

「だからさあ、あんたもねえ」

 おまつは十兵衛の耳元に一言二言ささやき、席から離れた。十兵衛にとっておまつは、諸葛孔明にも匹敵する名軍師であった。

「すまん、もう一皿」

 十兵衛は店の奥から出てきたおりんに声をかけた。おりんは機嫌悪そうに十兵衛に近づいてきた。

「最初に二皿頼めばいいじゃん」

「いや、まあまあ」

「何がまあまあよ」

「実はだな、旅芸人一座の芝居があるとかで」

「ふうん」

「どうだろう、一緒に観に行かないか」

「い、いつよ」

 おりんは十兵衛から視線をそらして、毛先を指先でもてあそぶ。

「あ、明日の昼過ぎ」

「……考えとく」

 おりんはそう言って十兵衛の床几から離れた。彼女のつんとした態度は、十兵衛を客ではなく、一人の男として見ている証拠だ。

 ふう、と十兵衛は立ち合いにも似た緊張から一息ついた。ふと、周囲の男性客らが十兵衛を見つめている事に気づく。彼らの視線には悪意も混じっていた。

「で、では」

 十兵衛は床几に代金を置き、さりげない風を装いながら通りへ出た。

 ――明日か。

 十兵衛はうつむき加減に歩く。

 幕府隠密と成ってから、彼は明日を望んで生きる事を止めていた。

 人生は今この一瞬だと思いを定め、己が全身全霊で対手に打ちこむ……

 十兵衛はそうして幾多の死線を乗り越えてきた。明日を捨てた気迫が十兵衛に常勝無敗を与えてきた。

 だが今、十兵衛は迷う。明日、おりんと共に旅芸人一座の芝居を観に行く。

 それは果たして叶うのか、今宵は市中見回りの任ではないか。

「無明……か」

 十兵衛は江戸の青空を見上げた。

 死を覚悟して生きてきて十数年、初めて心中に微かな迷いが生じた十兵衛だった。



 夜も更けた頃、十兵衛は柳生屋敷を出た。

 ――命あらば、また会おう。

 黒装束に般若面の十兵衛は、心中に弟の又十郎に別れを告げた。

 又十郎は江戸城御庭番衆の女子に道場の壁に穴が空いた事を報告したところ、散々に言われたらしい。

 ――今度、食事をおごる事になりましたよ……

 又十郎は十兵衛の前でひきつった笑みを浮かべていた。

 彼が将軍家光に気に入られ、御庭番衆や風磨の者らとも交流があるのは、不思議な人徳をそなえているからかもしれない。

 ――柳生の家は安泰かな。

 十兵衛は屋敷の裏口から外へ出た。

 満月輝く夜だ。淡い月光が十兵衛を照らし出す。黒装束の帯に大小の二刀を差し、黒塗りの般若面をかぶった十兵衛は、夜に蠢く魔性のようであった。

 背に負っていた三池典太は腰に差すようになった。先日の魔性との遭遇を経て、背に負うと咄嗟に抜刀できず、不利と悟ったからだ。

 腰に二刀を差す、それが武士である。

 そして剣士たる誇りでもある。

 この誇りに命を懸けてこそ、男なのだと十兵衛は思う。

 宗矩も十兵衛も、剣士たる誇りに命を懸けたからこそ死中に活を得てきたのだ……

「……むう」

 十兵衛は突然、身の冷える思いがした。

 夜風の冷たさだけではない。十兵衛が振り返った先では、静まった夜の路上に、一輪の妖花が咲いているではないか。

 妖花は十兵衛の見ている前で、徐々に人の形を為していく。人知を越えた奇怪な現象に、十兵衛はただ目を奪われた。

 やがて妖花は女の姿へ変わった。それは一糸まとわぬ、人ならざる者であった。その妖花の声が、十兵衛の魂に響いた。

“お主なにゆえ己が心のままに生きぬか”

 人の形をした妖花の妖艶な笑み。

 この妖花は美しき女の姿で現れ、人を魔道に引きこむのだ。引きずりこまれれば、人ならざる魔性の道が待っている。

「己の心…………」

 妖花の言葉が十兵衛の魂に揺さぶりをかけた。月光の下、黒装束を身につけた般若面の十兵衛は、己の心を見つめた。

 彼にもまた欲はある。

 食欲はもちろん、色欲もある。

 己の利を第一に考える浅ましさ、他者をあざむく狡猾さ。

 およそ人間の備える悪徳は、当たり前だが十兵衛も全て持っている。

 ただの言葉であれば十兵衛も迷わず動じぬ。

 だが妖花の言葉は魂に響く。それこそが魔性の持つ人知を越えた技なのだろう。

 十兵衛はしばし呆然と突っ立っているように見えた。

 月光に照らされた彼は置物であるかのように動かない。

 人の形をなした妖花はゆっくりと十兵衛に歩み寄る。女の姿をした妖花は男と交わるか、もしくは人間の体内に魔性の種を埋めこみ、人ならざるものに変えてしまう。

 ――己の心など、すでに捨てた……

 十兵衛は心中につぶやく。後世に伝わる十兵衛の言には「捨心」なる言葉がある。

 ――俺は……

 十兵衛の心中には、走馬灯のように過去の出来事が思い返されていた。彼は今の窮地を切り抜ける一手を探っていた。

 父の宗矩の兵法修行によって、十兵衛は右目を失った。

 傷が癒えても心は癒えぬ十兵衛は、小野忠明から指導を受けた。真剣にて素振りを繰り返す、それだけだったが、

 ――隼が獲物を捕らえて即座に喰らうがごとし。

 忠明はそう言った。十兵衛には、それで充分であった。気力を取り戻した十兵衛へ、宗矩は剣ではなく秘伝の無刀取りを伝授した。

 ――武の真髄は、一瞬で敵を倒す事にある……

 宗矩の言葉もまた十兵衛の魂に刻まれた。

 ――必ずや、人のために役立ってみせまする、この命が尽きるまで。

 十兵衛は宗矩に言った、それが男の使命であると……

「退け、魔性」

 十兵衛の意識は虚無の中から蘇った。

 眼前に迫っていた魔性へ、十兵衛は左手で小太刀を抜いて斬りつけた。

 同時に右手も抜刀している。右手で打ちこんだ三池典太の刃は、魔性の額から腹部まで一直線に切り裂いていた。

 艶かしい魔性の妖花は、首筋を横に斬り裂かれ、顔面も縦に割られていた。

 奇しくも「十」の文字を刻まれた妖花は背後に倒れ、溶解していく。

「俺は柳生の剣士だ」

 両手に二刀を提げ、十兵衛は溶け崩れた魔性を見下ろした。夜の中に別の気配も感じていた。

 ――こいつら、どこから現れた。

 十兵衛は黒塗りの般若面の奥で瞠目した。いつの間にか、彼の周囲には無数の人影が現れていた。

 淡い月光に照らされた夜の世界で、彼らの目だけが不気味に深紅の輝きを発していた。

 しかし十兵衛は怯まぬ。己が命を捨て江戸を守るという意思、それこそが彼の魂に宿った降魔の利剣であるのだ。

 何も恐れる事はない、ただ最善と全身全霊を尽くすのみだ。

「ふふふ……」

 十兵衛は般若面の奥で含み笑いした。

「明日は遠いな……」

 十兵衛は明日、おりんと共に旅芸人一座を観に行く約束をしていた。

 だが、それは果たせるのか。周囲に現れた不気味な人影は、瞳を深紅に輝かせながら、ゆっくりと十兵衛に近づいてきていた。

 しかも、人影は歩を進めるたびに人ならざる存在へ変貌していた。人影の全身の肉が、歩むたびに剥がれ落ちていっている。人間の姿をしていたものが、得体の知れぬ生物へ変化していく様子は、正に地獄の光景であったか。

 ――おあああ

 怪物と化した人影の一体が、両手を差し出しながら十兵衛へ迫った。

 次の瞬間には、一条の銀光が夜の闇を切り裂いた。

 十兵衛はすでに人影の脇を駆け抜けている。無の境地に到った十兵衛、その動きは目にも留まらぬ。

 そしてまた、十兵衛の剣もだ。怪物は胴体を真っ二つにされて、地に倒れた。十兵衛の入神の一手は、忠明が生きておれば目を見張ったであろう。

 無論、父の宗矩もだ。隻眼の十兵衛は剣の理を深く学んではいないが、死地をくぐり抜けた経験が彼の技を高めた。

 姿は即ち是、空なり。

 二刀を提げて闇に佇む十兵衛は、天地宇宙と調和していた。

 突然、十兵衛は振り返りながら右手の三池典太を横に薙いだ。

 十兵衛の背後に近づいてきていた魔性の首が一刀の下に切断されて、夜空に舞い上がった。

 魔性の首が地に落ちる前に、十兵衛はすでに前を向いている。右目を失っている十兵衛だが、その分、他の感覚は常人よりも研ぎ澄まされていた。

 聴覚と嗅覚は人並みはずれ、微かな音や匂いに敏感だ。その肌は風によって流れてくる殺気を感知する。また勘も鋭く、巧みな言葉の中に混じる虚実を見抜く。

 失った右目に勝るものを十兵衛は得ているのだ。その感覚が隠密行の最中で、幾度も十兵衛を救ってきた。

 ましてや手にした三池典太は、後世で国宝に数えられるほどの名刀であった。その煌めく刃は魔物をも斬ったと伝えられている。

 三池典太は春日局より十兵衛に賜られたものだ。三代将軍家光による女ばかりを狙った辻斬り、それを春日局から密命を帯びた十兵衛が阻止した。その褒美として、この名刀を賜ったのである。

 黒装束に身を包み、黒塗りの般若面を被った十兵衛。二刀を提げて月下に佇む姿は、まるで十兵衛が一個の魔物であるかのようだ。

 だが、十兵衛の心には暖かく明るいものが在る。

 ――明日は会いたいな。

 十兵衛は般若面の奥で笑った。心中にはツンと澄ましたおりんの顔が思い浮かんだ。

 死の覚悟と同時に、十兵衛は生きる勇気をも得た。

「いくぞ」

 小さくつぶやき十兵衛は踏みこんだ。疾風のような速さで振るわれた三池典太の一閃は、間近にいた魔性の首を一瞬で両断した。


   **


 両親を失い、天涯孤独の身になった時、なつめは大奥へ上がった。

 遠縁の者の配慮だったが、なつめは後に後悔した。大奥に満ちていたのは嫉妬を始めとした人間の悪意だったからだ。

 嘘をつき、騙し、盗む。

 他者を省みず、自分の欲望だけを追求する。

 大奥の女たちの悪意に絶望したなつめは、やがて敷地内の井戸に身を投げた。

 だが、今では人外の魔性へと転じて生き続けている。



 とある商家では夜半の警備を手薄にしていた。屋敷の周囲には見回りの者もいない。

 これは江戸城御庭番の要請があったからだ。

 城下を騒がす女盗賊とその一団、いずこに現れるかもわからぬ彼らを誘い出すため、この商家は協力した。幕閣と深い繋がりがあるのも、協力した理由の一つだろう。

 御庭番の者を使って浪人らに噂を流す。あの商家は最近、主と用心棒らと折り合いが悪く、夜間の警備が手薄になっている……と。

 浪人と接触する事を使命としている源と政だ。彼らが一人の浪人に話せば、その話は数十人、あるいは数百人に伝わっていく。

 その中に女盗賊と縁ある者がいれば、必ずや噂を聞きつけ、馳せ参じる事だろう……と御庭番は淡い期待をしていた。

 源と政は黒装束に身を包み、商家の庭の繁みに潜んでいた。

「おいおい、お前さん気が抜けてんじゃねえか」

 政は小声で隣の源に囁いた。源と政は息を潜めて繁みに身を隠していた。

「そ、そんな事ねえよ」

 源はそう言うが、心は半ばここにあらずといった様子だ。彼は数日前にうどん屋にやってきた儚げな女の事が忘れられずにいた。

「気ぃ抜くなよ、俺ら明日はないも同然だ」

「わかってる、わかってる」

 源は言い返すのだが、その威勢もすぐに消えてしまう。恐怖や迷いよりも厄介な、恋煩いというものに源はかかっているようであった。

「し、おい」

 政は声を潜め、人差し指を口の前に立てた。源も黒覆面からのぞく目を細め、微かな物音のする方向を凝視した。

 月明かり以外に光源もない商家の庭を覆う高い屏、その上に何者かが飛び乗った。音もなく飛び乗った身のこなしは忍びの者も顔負けだ。

「き、来た」

 源も政も繁みの中で息を飲んだ。

 江戸を騒がす女盗賊とその仲間が今、彼らの前に姿を現したのだ。



 月下に佇む十兵衛は、両手に二刀を提げて呆然としていた。

 彼を囲んでいた魔性の群れは、全て斬り捨てられて、今や塵と化している。

 ――俺は生きているのか……

 十兵衛は視線を潜り抜け、大いに気力体力を消耗していた。生死を懸けた戦いの先に、十兵衛は幾度も同じような考えにとらわれた。

 呆然と周囲を眺めれば、静寂が満ちていた。無数の家屋から人が飛び出してくる気配もない。月明かりに照らされた世界は、無人の異次元のように思われた。

 ――俺は正しかったのか……

 十兵衛の思念がぐるぐると渦を巻く。彼は幕府隠密として命を懸けてきた。人を斬った事も一度や二度ではない。

 大納言忠長の駿河、はるか彼方の薩摩、更に琉球へと十兵衛は死線を転々とした。

 それでいて尚、彼が正気を保っている事を周囲は不審に感じていた。父の宗矩ですらが、十兵衛を得体の知れぬものであるかのように見ていた。

 十兵衛が正気を保っていられたのは、幼い頃に右目を失った辛苦ゆえであった。それ以上の艱難辛苦は十兵衛にない。

 残された左目も、長い間に少しずつ緩やかに視力を弱めてきている。いずれは見えなくなるかもしれない。その不安もまた、意外な事に十兵衛を救っていた。

 最悪を以て、最高に到る。

 十兵衛は心を捨てねば生きられないが、それゆえに天の加護を受けている……

「――むう」

 十兵衛は般若面の奥で呻く。三池典太の刀柄を握る右手が、微かに震えている。

 押さえようのない本能的な怯えは、何によってもたらされたか。

 十兵衛は見た。月明かりの下に現れた異形の魔性を。

 一糸まとわぬ裸身の背に、蝶に似た羽根を生やした人ならざる女を。

 ――月光蝶……

 十兵衛はこの魔性を、そう呼んだ。

 ――それにしても、なんという異形……

 十兵衛の体が本能的に震える。だが心は静かだ。彼は月光蝶を前にして必殺の機を狙っていた。

 人間を人ならざる者に変えてしまう魔性を相手に勝機があるならば、それは一秒にも満たぬ刹那の間にしかないだろう。

“ふふふ……”

 月光蝶は微かに笑った。十兵衛の決死の覚悟を嘲笑っているようだった。

 次の瞬間、月光蝶の瞳が黄金の光を放ったようだった。

 十兵衛の意識が吹き飛びそうになる。閉じたまぶたの奥に、十兵衛は過去の光景を見た。


   **


 ――七郎さん、ありがとう……

 十兵衛に看取られて女は息を引き取った。すでに山賊らに襲われて重傷を負っていた。

 女の手を握っていた十兵衛の顔には、何の感情も浮いていなかった。

 隠密行の最中に見知った女が死んだ、それだけの話なのだ。

 大納言忠長の治める駿河城下は魔都であった。人の命は塵芥(ちりあくた)のごとく失われていた。

 十兵衛も私事にこだわる必要はなかった。彼は城下にて七郎(十兵衛の幼名)という偽名を用いて活動し、遂に大納言忠長と接触している一団を突き止めた。

 十兵衛の隠密行も大詰めかもしれなかった。俗に裏柳生と呼ばれる同志らも駿河に集まってきている。

 女一人の死にかまうべきではない、と十兵衛の父たる宗矩ならば言うかもしれぬ。

 だが、十兵衛はそうは思わぬ。無感動な隻眼の面の奥には、激しい感情が渦を巻いていた。

「……わかった、やってみよう。できるかどうかは、わからんが」

 十兵衛は女の亡骸の額を撫でた。せめて安らいでくれるようにと。


 山賊らを襲ったのは、たった一人の黒装束の者だった。

 首尾よく農家から食物を奪い取った山賊は、上機嫌で森の隠れ家へと戻った。農民は何の抵抗もせずに食物を差し出したので、彼らも無駄に斬り捨てる事もなかった。

 だが、それは巧妙な罠であった。上機嫌で浮かれていた山賊らは、気が緩んでいた。

 そこに襲いかかってきたのは、短槍を手にした黒装束の者だった。

 木々の陰に隠れ、一団の背後から襲撃してきた黒装束の者は十兵衛だ。

「ば、化物!」

 叫んだ山賊の腹を槍で突き刺し、素早く引き抜いて次の者を突く。

 十兵衛の顔には黒塗りの般若面があった。それが月明かりの下では化物と錯覚させた。食物を手に入れて浮かれていたのも、山賊から猛々しさを奪っていた。

 十兵衛は応戦してきた山賊の槍を、己の短槍で横に打ち払った。そして、すかさず短槍を投げつける。短槍の穂先が山賊の腹に突き刺さった。

 無手になった十兵衛は腰の刀を抜いた。打ちこんだ三池典太の刃は、山賊の胴丸をも斬り裂いて絶命させた。

 夜空に山賊の悲鳴が響く。十兵衛は脇差しも抜いて斬りまくる。

 山賊が突いてきた槍の穂先を三池典太で打ち払い、脇差しを投げつけた。脇差しは山賊の首筋に突き刺さり、そこから鮮血が噴水のように吹き出した。

 さほど時間も経ずに、死傷者を含めた十数人の山賊が行動不能に陥っていた。場に満ちる血の匂い。残るは二人だ。

 長巻を手にして踏みこんできた山賊に、十兵衛は素早く間合いを詰めた。鋼の刃が打ち合い、轟音が虚空にこだまする。

 つばぜり合いに陥る前に十兵衛は間合いを離して、飛び退いた。

 左手側からもう一人の山賊が突っこんでくるのへ、十兵衛は三池典太を投げつける。鋭い切っ先は山賊の胸板を貫き、鍔本まで山賊の体に埋まった。

「な、何者だあ!」

 長巻を手にした山賊が叫んだ。薙刀に似てはいるが、長巻は刃が三尺、柄は四尺ほどある。

 その長巻を構えて山賊は十兵衛をにらんだ。山賊の長だろう、ためらいなく人を殺して強奪してきただけに、力も技も胆力もあった。

 その山賊の長を前にして、十兵衛は無手で立ち尽くしていた。闘志も覇気も殺気もない。

 月光に照らされた般若面が不気味だった。黒装束の十兵衛は、一個の魔物のようでもある。

 今の十兵衛には感情も理性もない。

 姿は即ち是、空なり。

 十兵衛は無の境地に立っている。

 両者は無言で対峙した。無手になった十兵衛が圧倒的に不利のはずだが、山賊は踏みこめずにいた。

 十兵衛は両手を開いて、顔の前に持ち上げている。お手上げ、降参の意味にも取れそうだが、般若面の奥からは不屈の精神が感じ取れた。

 山賊は長巻を構えたまま踏みこめない。十兵衛に気圧されているのだ。

 その間隙を衝いて十兵衛は踏みこんだ。疾風のごとき速さだ。

 十兵衛は右掌を打ちこむ。同時に左掌も打ちこむ。十兵衛の左右の掌が山賊の胴丸に打ちこまれた。

 重ねた両掌からの衝撃が山賊の胴丸を越えて、内臓へと伝わる。山賊は息苦しさに蒼白になった。

 十兵衛の動きは止まらぬ。彼は山賊の右手首を左手でつかむと、独楽のように体を回した。

 山賊は十兵衛によって投げられ、大地に背中から落ちた。

「うう……」

 それでも立ち上がろうとする山賊に十兵衛は左足で踏みこんだ。脛当てのつけられた右足で回し蹴りを放つ。

 十兵衛の全体重の乗った右回し蹴りは、立ち上がろうとしていた山賊の側頭部に叩きこまれた。鈍い音と共に山賊は再び地に倒れ、そして動かなかった。

 十兵衛は山賊を見下ろし、やがて息をついた。金属製の脛当ての表面に、血と数本の頭髪がこびりついていた。

 ――これで良いか……

 十兵衛は般若面越しに夜空を見上げた。十数名の山賊は、皆死んでいた。辺りには血臭と死の気配が漂っていた。



 十兵衛が人を殺したのは、この時が初めてであった。いかに死に行く者の最後の願いだったとはいえ、彼は人殺しには違いない。

 だが、十兵衛は仏法天道に導かれていた。

 闘争に明け暮れる修羅も、時に仏敵を降伏するからこそ、仏法の守護者であるのだ。

 十兵衛の戦いには意味がある。腕自慢技自慢でもない、己の力を誇示するためでもない。

 仇討ちのため、命懸けで数に勝る敵に挑んでいく。そんな事は容易にできる事ではない。

 ――これが俺の背負う責というものか。

 十兵衛はしばし呆然とした。幕閣の者、特に旗本階級の者から柳生家は妬まれていた。

 先祖から戦場を駆けてきた旗本ですらが大半は数百石だというのに、将軍家剣術指南役にして幕府大目付たる柳生家は今では一万石の大名であった。

 そのため幕閣の一部では「柳生の剣は魔剣」と蔑まれている。無刀取りに関しても実体が外に漏れぬ以上、妖術のように思われていた。

 まだある。十兵衛は家光の辻斬りを止めた。それが故に三代将軍家光の下では、十兵衛は出世を望めない。命懸けの隠密行を任されているのが証明だ。

 弟二人が家光の小姓になり、気に入られている事が十兵衛には救いだ。己が死すとも柳生家には未来がある。

 そして、この寒々しい血と闘争の道にも救いがある。

 ――せめて人の役に立ってから死のう。

 その思いある限り、十兵衛は自身が踏みこんだ兵法の道に後悔はない。

“何人殺めれば満足か”

 魔性の声が響く。月光蝶による十兵衛の精神への責めは終わらなかった。


   **


 商家の庭に息を潜めていた源と政は息を呑んだ。

 探していた盗賊団が、遂に彼らの目の前に現れた。

 商家の塀の上から、数人の人影が静かに商家の庭に降りていく。

 ――き、来た……

 源も政も緊張に汗をかいていた。例えるならば妖怪に出会ったような緊張だ。二人の視線の先では、塀から飛び降りた人影は庭を見回している。

 ――どうする……?

 源と政は繁みの中で顔を見合わせた。彼ら盗賊団を捕らえねばならぬ、逃がしてはならぬ。緊張ゆえに源と政は動けない。

 盗賊団がただの強盗であれば、源と政もためらいはしない。力の限り戦うだけだ。

 だが盗賊団は義賊だという。あるいはそれを装っているのか。月明かりに照らされた盗賊団は十人あまり、彼らは商家の庭の中ほどまで進んできた。先頭に立つ小柄な人影は、噂の通り女性のようである。

 その時だ、庭に殺気が満ちたのは。

 源と政が身構えるよりも早く、商家の庭のあちこちから、伏せていた者達が立ち上がった。

 驚きを隠せない盗賊団。彼らは円陣を組み、小柄な人影を内側にかばう。よく統率されたというよりは、盗賊団にとって首領は命より大事な存在なのだろう。

「お前らの悪運もこれまでだ」

 盗賊団を囲む伏兵の中から、一人の男が声を発した。

 頭巾で顔を隠しているが、源と政には声でわかった。

 染物屋「風磨」の店主、國松の声だった。


   **


 十兵衛の意識は記憶の中をさまよっていた。

 駿河への潜入は、最初にして最大の使命だった。

 駿河大納言、徳川忠長。幼名を國松という。その忠長には、無数の勢力が接触していたのだ。

 北の独眼竜、薩摩の島津公、更に紀州の徳川家……

 十兵衛と他の隠密達は震え上がった。彼らのような木っ端隠密に何ができようか。江戸へ命がけで報告に上がっても、幕閣の何者かによって口封じに殺される可能性もあった。

 ――何たる事よ。

 若き十兵衛も緊張に脂汗を浮かべた。独眼竜政宗公は、十兵衛とは見知った仲である。

“ほう、どうした一つ目小僧”

 十兵衛が家光の小姓を務めていた頃、城内で出会った政宗が声をかけてきた。互いに隻眼であるという事が親近感を高めたのだろう。

 ――政宗公ですらが未だ天下を狙う野心を抱いているのか……

 十兵衛は決して政宗を嫌っているわけではない。むしろ右目を失い意気消沈していた十兵衛に喝を入れてくれた存在だ。

「大藩の大名に紀州徳川家など、我らの手に負えませぬ」

 隠密の一人は顔を蒼白にしていた。十兵衛と協力し、駿河に滞在する彼らは出自もバラバラだ。

 伊賀甲賀の忍び、江戸城御庭番、旗本の二男三男……

 使命の為に命を懸ける事ができる彼らでも、天下の乱れを止める事はできぬ。

 駿河大納言忠長に、後ろ楯として政宗公、島津公、更に紀州徳川家までついているとなると、彼らが命を捨てても、どうにもならぬ。

 世の中が再び戦乱に包まれる――

 そんな暗黒に似た絶望感が、十兵衛を始めとした隠密達の心を支配していた。

 ――まさかこれほどまでとは。

 十兵衛の心にも絶望感が満ちている。

 忠長は家光と違って、父の秀忠からも愛されていた。次期三代将軍の座に関しても、幕閣では大いに意見が割れていた。それを収束させたのは春日局であった。

 ――局様……

 十兵衛は唇を噛んだ。彼は春日局の依頼で家光の辻斬りを止めた。その後、十兵衛は家光の小姓を辞し、隠密となった。切腹せずに済んだのは、春日局の助命嘆願もあったという。

 そして十兵衛の愛刀、三池典太は春日局から賜ったものだ。家光の辻斬りを止めさせた報酬である。

 この名刀によって十兵衛は幾度も命を拾ってきた。それゆえ、彼は春日局を悪くは言えぬ。父とはいわば政敵の間柄であったが。

「大阪城よりは、ましであったな」

 十兵衛は気分を切り替えた。少々でも重苦しい雰囲気を打ち払いたかった。

 忠長は駿河に着任する前、秀忠に大阪城をねだっていた。三代将軍の弟として、西国大名へにらみを効かせるためだ。

 剣術指南役である宗矩、小野忠明から兵法も学んだ忠長である。その武辺の程は十兵衛も及ばぬ。

 信長の血も引く忠長の面影は、兄の家光には似ず、鋭く険しいものであった。

 あるいは十兵衛の師事した小野忠明と似通った気性であるかもしれぬ。忠長は十兵衛の父、宗矩とは反りが合わなかったようだ。

「大阪城……でありますか。忠長様が大阪城に御座すれば、天下の半分は簡単につきましたな」

「うむ、そうだ。だから今は、まだなのだ」

 十兵衛は言った。忠長は駿河にいるからこそ、まだ三代将軍の治世は続いているのだ。これが大阪城であれば、たちまちのうちに天下は覆っていただろう。

「助九郎様ならば、何か知恵をお出しくださるでしょうか」

 隠密の一人が言った。木村助九郎は石舟斎宗厳の高弟であり、後世にも名を伝える名剣士だ。

 その純朴な人柄に忠長も感服して師事しており、仙台や薩摩の間者も、あえて手出しをしなかった。

 徳のない者に、武を学ぶ資格なし。

 助九郎はそれをよく体現した人物であったろう。

「……そうか、無刀取りだ」

 十兵衛の左の隻眼が、くわっと大きく見開かれた。

 自身の閃きを実行するには、半端な覚悟ではできぬ。

 己の死、そして人生の最期まで覚悟しなければ、実行できぬ。

 成すか成せるか。

 いや、やるか、やらないかだ。

「俺は死なねばならぬ」

 十兵衛は血の気の引いた顔に、開き直った苦笑を浮かべた。



 数日後の事である。

 十兵衛は日の暮れた頃、駿河城の敷地内にある道場へ姿を現した。

 稽古袴姿の十兵衛は、決死の形相をしていた。彼の隣には忠長の剣術指南役、木村助九郎の姿もある。

「若、本当にやる気ですか」

 助九郎は十兵衛に問うた。

「ああ」

 と十兵衛は答える。二人は年齢も違うが、いつの間にか同等の立場で接していた。

 助九郎から見れば、十兵衛は師事した石舟斎宗厳によく似ている。

 顔はあまり似ていないが、雰囲気や佇まいがよく似ているのだ。

 ――あるいは本当に石舟斎様の生まれ変わりかもしれぬ。

 助九郎は本気で思っていた。十兵衛は石舟斎宗厳の亡くなった翌年に産まれた。十兵衛と共にいると、助九郎は石舟斎宗厳と一緒にいるような奇妙な安堵を感じていた。

 また、十兵衛は宗厳と同じ箇所にホクロがある。十兵衛の父宗矩などは、父が息子に産まれ変わったと畏怖していた。

 ひょっとすれば、それが親子の対立の原因になっていたかもしれぬ。宗矩と十兵衛、二人は互いに認めあいつつも、魂の根本では対立していた。

 宗矩は出世を望むが、十兵衛は立身栄華を望まぬ。

 だからこそ宗矩は将軍家剣術指南役にして幕府大目付であり――

 十兵衛は大目付宗矩の嫡男でありながら、幕府隠密として駿河に潜伏しているのだ。

「――む」

「参られましたな」

 十兵衛も助九郎も同時に気を引き締めた。道場の床に立てられた数本の燭台の明かりが、現れた人物を照らし出した。

「十兵衛」

 道場内に現れたのは忠長だ。いつも険しい表情だが、今宵はどこか愉しげな顔をしている。

 鋭い眼光と威圧感――

 忠長の佇まいに十兵衛も助九郎も、この時ばかりは心身が震え上がった。

 忠長、家光の母であるお江の方は、織田信長の姪である。忠長は信長の血を色濃く受け継いでいた。

 剣術指南役たる助九郎ですらが見た事のない忠長の凶相は、戦国の魔王信長のようだ。

「無刀取りを見せるというのはまことか」

「御意」

 十兵衛は忠長に頭を下げた。

 家光に続き、忠長にまで十兵衛は挑む事になるとは。

 またしても天下の一大事が十兵衛の双肩にのしかかった。

「噂を聞いておるぞ。兄上を無刀取りで制したと」

 忠長は愉しげに言うが、十兵衛の心胆は冷えるばかりだ。幕閣の秘事中の秘事を忠長が知っているとは。

「御存知でしたか」

「無論だ」

 忠長の目が細められた。彼が十兵衛に一目置くのは、宗矩の嫡男だからではない。むしろ忠長は家柄にこだわる者を嫌悪する。

 忠長が愛するのは勇士である。

 己を捨てて命を懸けて働く者には、敵であろうと身分卑しかろうと敬意を評する。

 その気質は、太閤秀吉を愛した信長に通ずるものがある。血の繋がりは容姿よりも魂に現れるのかもしれない。

「刀を持った相手を無手で制する…… 故に無刀取りか」

「――御意」

 十兵衛は忠長の目を見て応えた。

「見せるというのだな。だが余が認めなければ何とする」

 忠長は酷薄そうな笑みを浮かべた。忠長は左手に刀を鞘ごと握っている。先の言葉通り、十兵衛に刀を持った相手を制してみよと忠長は言っているのだ。

 それは即ち、忠長を制するという事だ。兵法に関しては指南役の木村助九郎すら翻弄する忠長を、十兵衛は無刀取りで制しなければならぬ。

「小生、命はありませぬ」

 十兵衛は静かに言った。すでに死は覚悟している。

 死中に活あり。

 今、十兵衛の魂は無の境地に到っている。

「余に斬られても恨むな十兵衛。手厚く葬ってやる」

「ありがたき幸せに存じます」

「ふふっ、余は但馬とは反りが合わなかったが、十兵衛とは反りが合いそうだな」

 忠長は十兵衛に何度も仕官を奨めていた。十兵衛の腕前や人柄を評してではない。彼は己に仕える士が欲しかったのだ。

 忠長の心境を回顧するならば――

 彼に仕える者、全て江戸幕府の者であった。忠長に仕えているという気持ちはさらさらない。

 忠長の家臣数千名の武士は、江戸旗本の次男三男ばかりで構成されていた。

 大阪の役から十数年で世の中は変わり、武士の意識も変わった。剣術よりも算術がもてはやされ、戦から縁遠い旗本の二代三代が幕閣の中枢を占めてくる。

 そうして天下泰平の気風の中で育った者達ばかりが、忠長の元につけられた。忠長としては血を吐くような無念の思いであった。

 ――余に仕える士はいないのか!

 血のにじむような兵法練磨の果てにたどり着いたのは、天下を安らげる三代将軍の弟ではなく、お飾りもしくは厄介払いの駿河大納言であった。

 ――真のもののふが欲しい!

 忠長はそれを所望した。己の元に仕えてくれる勇士達を。

 かつて御神君家康公は、最も信頼する旗本五百騎がいれば、天下に敵はないと太閤秀吉に告げた。それがゆえに太閤秀吉は家康公に一目も二目も置くようになったという。

 常識的に考えれば、五百騎で天下を取れるわけがない。だが、家康は五百騎の旗本で、天下の全てを敵に回せる気概があった。

 それほどに主君と臣下は強い絆で結ばれていたのだ。だが忠長にはそれがない。

 忠長の精神を狂気へ導いたのは、耐え難き孤独のゆえだった。

 ――おいたわしや忠長様。

 十兵衛には忠長の孤独が理解できる。

 失った右目に勝るものを以て、十兵衛には忠長の心が理解できる。

 忠長は最初から幕府には不要であったのだ。それが十兵衛には理解できる。

 十兵衛もまた、家光には不要扱いされてきた。家光は事ある毎に十兵衛に苛立ちをぶつけた。

 それは家光の妬みであった。右目を失った十兵衛だったが、それこそが十兵衛の人生の始まりではなかったか。

 小野忠明の指導、春日局の気に入りよう、父たる宗矩との無刀取りを練磨する修行の日々……

 十兵衛は輝いていた。視力に不安のある中で、十兵衛は必死に前を向いていた。

 いつ果てるかも知れぬ人生に、死に花を咲かさんとしていた。

 が、忠長にはそれがない。あったのは失望ばかりだ。

 兵法、軍学。己を磨けば磨くほど、幕閣は忠長を危険視した。忠長が伊達家や島津家の使者に会い、幕府転覆を考えるのも、当然の成り行きだった。

「それがし斬られて果てた時は、木村殿に後事を託してありまする」

 十兵衛はすでに遺書をしたため、助九郎に渡してあった。死んだ時に備えてだ。生きていれば、忠長を無刀取りで制する事ができれば、十兵衛自ら忠長に進言すべき事がある。

「参れ」

 道場中央に進み出た忠長は鞘から刀を抜いた。

「応」

 十兵衛も進み出て、道場中央で忠長と対峙した。彼は無手である。無手で刀を制してこそ無刀取りであり、忠長をも納得させる事ができるだろう。

 助九郎が見守る中で十兵衛と忠長、どちらからともなくしかけた。

「キイエーイ」

 忠長の烈火の気迫、そして打ちこまれた刃。

 十兵衛は刃を避けて、素早く忠長の右手側に回りこんでいる。

「おお」

 声を発したのは助九郎だ。十兵衛の左足は、踏みこんできた忠長の右足の踵を払っている。

 ダアン、と忠長は板の間に仰向けに倒れた。十兵衛、一瞬の早業だ。後世の柔道における小外刈りだ。

 これが試合ならば一本勝ちだ。大抵は負けた側も見事な一本勝ちに感心するが、これは試合ではない。

「うう!」

 十兵衛、叫んで飛び退いた。倒れた忠長が刀を横に薙いできたからだ。飛び退かなければ、膝から下を両断されていたろう。

 立ち上がった忠長は鬼神のごとき迫力で十兵衛を見据えた。十兵衛の小外刈りで感服するどころか、火に油を注いだ事態に発展したようだ。

 忠長は本気で十兵衛を斬ろうとしていた。

 ――なんたる凄まじい鬼気……

 十兵衛は忠長の顔に鬼を見た。それは忠長の内で長年に渡って養われてきた、負の感情であった。

「これで余を制したと思っておるのか」

「まさか」

 忠長の問いに十兵衛は冷静に答えた。これが戦場であるならば、相手の命を奪うまで戦いは続くのだ。

 十兵衛の父もまた、こう言うであろう。

 残心、と。

 勝敗の決するまで気を抜くなと。

「しかし、ますます気に入った」

 忠長は刀を下段に構えながら、十兵衛へ一歩、間合いを詰めた。

「気に入らぬのが気に入った」

 忠長、静かに微笑した。同時に踏みこみ、袈裟がけに十兵衛に斬りつけた。

 十兵衛はその一閃を後退しつつ、身を翻して避けた。

 半円を描くような十兵衛の動きは、無刀取りの真髄であった。彼の体は忠長の刃の死角へ――

 忠長からは遠く、己からは近い距離へと移動しながら、十兵衛は反撃の機会をうかがう。

「――は!」

 十兵衛は忠長の側面から、肩を用いて体当たりした。当たりは浅いが、忠長はよろめいた。

 忠長へ組みつこうとした十兵衛だが、その彼の頭上へ忠長が一刀を打ちこんだ。

 刃が空を裂く。十兵衛は斜め前へ前回り受け身しながら刃を避けていた。

 互いに間合いを離し、道場内で対峙する十兵衛と忠長。

 いつの間にか両者は本気で対峙していた。

 十兵衛の心からは己の使命など消えていた。忠長を無刀取りで制した後は、紀州公らとの交流を断絶するように進言する……

 それが十兵衛の思い描いた展開であるが、今ここに到っては、彼の脳裏からは消えているらしい。

 あるのは、一瞬の勝機に己の全てをこめる気迫だ。

「十兵衛、余に仕えよ」

 忠長もまた不敵な笑みを浮かべていた。天下広しといえど、忠長と対等に接してくれる者などいない。

 その孤独が満たされていくのを忠長は感じていた。十兵衛との命がけの対決が、忠長の虚無を埋めていっていた。

 端から見守る助九郎は、もはや言葉もない。

 忠長の顔からは険が取れ、十兵衛は命懸けで勝負に臨んでいる。

 命を懸けた戦いでありながら、二人は輝いてすらいた。

 それに口を差し挟むなど、助九郎にはできなかった。

 ――だが、しかし。

 助九郎の剣士としての魂は、両者の実力を推し量った。

 忠長の兵法は助九郎仕込みだ。師たる助九郎をも翻弄する忠長を、十兵衛は無手にて制する事ができるのか。

 十兵衛は宗矩から無刀取りの妙技を伝えられている。無刀取りとは先師の剣聖・上泉信綱から石舟斎宗厳へ伝えられた、組討術である。

 俗に柔術と称される組討術は、幕末まで全国に諸流派二百を数えた。組討術自体は珍しいものではない、後世の柔道の型に組みこまれている。

 ただの技ならば、いかに強くとも忠長を制する事はできぬ。忠長が心から心服せぬ限り、力尽きるまで両者の対決は続くだろう。

 先ほどがそうであった。忠長は十兵衛の小外刈りによって倒されたが、それで心まで折れたわけではない。むしろ闘志をますます盛んにして、十兵衛に斬りこんだ。

 忠長の心には満たされぬ思いが、暗黒の渦と化して蠢いているのだ。それを払わずして、十兵衛に真の勝利はない。

 助九郎の思考も一瞬であった。急に道場内の空気が変わった。

「――む?」

 忠長は刀を手にして戸惑う。十兵衛の気配が変わった。

 十兵衛は両手をだらりと力なく提げた。一見すれば無気力な姿勢だが、十兵衛の全身から発される気はどうだ。それは忠長と助九郎をまとめて押し潰そうとするような――

「これは……」

 忠長は刀を構えたままつぶやく。戦国の魔王、信長に似た容貌に、明らかに動揺の色が見えた。

 姿は即ち是、空なり。

 死を覚悟した十兵衛は、無の境地に入っていた。

 その十兵衛を見つめ、忠長は刀を上段に構えた。忠長もまた十兵衛を前にして、全身全霊を振るわんとしていたのだ。

 さほど広くない道場に、清廉にして鋭い気が満ちる。

 燭台の淡い光が、十兵衛と忠長を照らし出している…………

「……かあっ!」

 忠長は叫んで踏みこんだ。刀を振り下ろすより前に、十兵衛は忠長の懐へ踏みこんでいた。

 素早く組みつき、忠長の右腕に抱きつく。次の瞬間には、十兵衛は体を回して忠長を背負っている。

「おお!」

 助九郎が叫んだのと、忠長が道場の床に背から投げ落とされたのは同時であった。

「くはっ……」

 仰向けに床に倒れた忠長がうめく。十兵衛の刹那の――

 後世の柔道における一本背負い投げによって忠長は敗れた。

 柔よく剛を制す。

 十兵衛が体現したのは、その境地だった。

「大儀であった……」

 忠長は床に倒れたまま、満足げに目を閉じた。死んだわけではない。十兵衛の無刀取りに――

 柔よく剛を制す、その体現に敗北し満足したのだ。

「恐悦至極であります」

 十兵衛は床に横たわる忠長に、慇懃に頭を下げた。彼もまた満足した。

 死線を乗り越えた先にある無の境地、そこに到達し、なおかつ忠長の刃を制する――

 それを達成した十兵衛の胸には、正しく感無量の思いが満ちるのだった。

 二人の命懸けの対決を見守っていた助九郎も、満足げに微笑した。胸熱くする対決であった。

 そして、これより後、忠長は十兵衛の言に従い、幕府転覆の意思を捨てた。

 それで全てが終わったわけではなかったが、少なくとも十兵衛は天下大乱の危機を防いだのだ……



 ――そうだ、あの時だ。

 十兵衛の意識は深い闇に捕らわれたままであった。

 彼は月光蝶によって精神を責められていた。人知を越えた幻怪なる術に十兵衛の魂は汚染され、発狂もしくは崩壊の危機にあった。

 彼を救ったのは、学んで身につけた技と、歩んできた道の中にあった。

 即ち、兵法・無刀取りだ。

 無刀取りは人殺しの技だが、人を救う技でもある。現に忠長は救われたのだ。

 彼は切腹した事になっているが、密かに救われ、今では染物屋風磨の店主の國松となっている。

 風魔忍者の子孫を率い、忠長は江戸を守るために日々奮戦しているのだ。

 ――剣禅一如、活人の技……

 十兵衛の意識は闇でもがいた。それは母の子宮内で動く赤子のようである。

 自身の達した行い、最高の技。

 その充実あるゆえに、十兵衛の魂は自我を保っていられたのだ。

 ――俺がやるべきは……!

 十兵衛の意識は目覚めた。彼の右手は三池典太の柄を握りしめていた。

 春日局から賜った三池典太の名刀は、十兵衛と共に死線を越えてきたのだ。

 全ての闇が晴れていくようであった。

 十兵衛の意識は、再び虚無の中からよみがえったのだ。



 十兵衛が気づけば、彼は一人、夜の中に立っていた。

 月光蝶の姿は何処にもない。十兵衛は柳生の屋敷からさほど遠くない路上に一人、刀を右手に佇んでいたのだ。

 般若面の奥で十兵衛の隻眼は燃えている。彼は己の使命を思い出したのだ。

 ふと、十兵衛は國松が潜んでいるという商家を思い出した。場所はわかっている。

 十兵衛は三池典太を鞘に納め、夜の中を駆け出した。


   **


 染物屋の風磨は風魔忍者の末裔だ。

 十兵衛が産まれる少し前、風魔忍者は江戸を荒らし回っていた。

 彼らは密かに命を受けた宗矩と忠明によって成敗された。

 首領の小太郎の首と引き換えに、風魔忍軍は生かされた。

 平時は評判の染物屋、だがその実態は幕府お抱えの実戦部隊として、彼らは荒事を難なくこなしていく。

 御庭番の本来の任務は、江戸城の警備である。なので幕閣でも御庭番を治安維持に使うのは、ためらいがちになる。

 そのような時、染物屋の風磨は明日をも知れぬ実戦部隊として暗躍する。数年前の島原の乱でも、風磨の者が隠密として活躍した。

 老中の松平伊豆守信綱や宗矩は、江戸に居ながらにして島原の状況を知っていたのである。

「ぐわ!」

 風磨の者によって、盗賊団の一人が斬られた。黒装束に身を包んだ風磨の忍びは、無慈悲な暗殺者であった。

 盗賊団は小柄な影を――間違いなく義賊の首領だ――取り囲み、風磨の忍びに抵抗する。

 だが盗賊団は力及ばなかった。一人、また一人と風魔忍者に斬られていく。

 これは國松からの指示も影響しているかもしれぬ。國松は盗賊団全滅の命を、配下の風魔忍者に下していた。

 それは模倣犯が相次いだからであった。職もなく金もない浪人達に礼節などない。彼らは金のために義賊を装い、押し込み強盗を働いた。

 そのような模倣犯らは必ず成功するわけではなく、むしろ失敗の方が多かった。だが押し込み強盗の件数が急激に増加したために、國松も動かざるを得なかった。

 ――天晴れ義賊よと、褒めてやりたいところだが……

 國松は素直にそう感じていた。だが、模倣犯による押し込み強盗の発生件数がうなぎ登りとあっては、彼も見逃すわけにはいかなかった。

 今ここで義賊を全滅させ、浪人達の悪意を挫く以外に、江戸の平和を保つ術はないように思われた。

「うおおお!」

 一人の盗賊が、國松へ踏み込んできた。決死の気迫から放たれた一刀を、國松は瞬時に抜いた刀の鍔本で受け止める。

 國松と盗賊は鍔迫り合いの姿勢を取った。

「何のために、そこまでやる」

 國松は――

 元の大納言忠長は盗賊に問うた。

「す、全てだ!」

 盗賊は叫んで刀に力をこめた。

「俺は生き返ったんだ!」

 盗賊の渾身の気迫に、十兵衛以上の実力者である國松が気圧された。

「そうか……」

 國松の声に哀憐がこもった。

 だが、それは一瞬だった。國松は鍔迫り合いの姿勢から素早く飛び退いた。

 盗賊が体勢を整えるより早く、國松は拝み打ちの一刀を放つ。

 鋭い一刀は、盗賊の顔を真一文字に斬り裂いていた。

 が、盗賊は絶命しなかった。彼は刀を手放しながらも、國松に抱きついた。

「た、頼む……」

 盗賊は國松の耳元に囁いた。直後に力尽きた盗賊の体が地に倒れた。

 國松の胸元は盗賊の返り血に濡れた。絶命した盗賊の言は何を意味しているのか。それはもちろん、盗賊達の女首領の事だろう。

「あ、ああ……」

 盗賊の女首領は呆然と立ち尽くしていた。己の部下達は、彼女を守って死んでいった。

 風魔の者達も、盗賊達の命がけの行動に怯み、女首領に斬りこめずにいた。

 この間、御庭番の源と政は繁みの中から虐殺を眺めていた。

「ひ、ひでえ……」

 源は大きな体を僅かに震わせていた。彼は風魔忍者がためらいなく盗賊を斬り捨てていく様に、戦慄したのだ。

「皆殺しにしなくても……」

 政は風魔忍びのやり方に怒りを感じていた。國松の真意を知らぬ彼には、風魔忍びが血も涙もない悪鬼に思えて仕方なかった。

 かと言って、源と政に何ができようか。相手は家光の弟、國松の率いる風魔忍者だ。

 大納言忠長は秘密裏に生かされた。そして國松と名乗り、江戸にはびこる悪党を殲滅させる事を使命としていた。

 彼らと御庭番は意見が合わぬ。御庭番は江戸城警護が任である。風魔のやり方に口を挟む事はできぬが、反発は絶えない。

「……もうよかろう」

 國松は頭巾の奥から、くぐもった声を出した。普段の彼からは想像がつかぬ、弱気な声であった。

「見逃してやれ」

 國松は風魔忍者にそう告げた。動揺する風魔忍者の前で國松は刀を鞘に納めた。盗賊団は女首領を残して、全員が斬られていた。

「見事なり」

 國松の脳裏に苦い記憶が思い出された。

 兄の家光の命により、忠長は改易される事が決まった。所領は十分の一程度を残して没収された。仮にも将軍の弟に対して幕閣は非情な命を下したのだ。

 これに家臣は憤るかと思われたが、数千人の家臣は誰も江戸幕府に抗う事はなかった。

 家臣のほとんどは江戸旗本の次男三男であった。彼らは改易の命が下ると、足早に江戸の実家へ帰ってしまった。

 忠長につき従ったのは僅かであり、十兵衛や木村助九郎は幕閣側でありながら味方についた。

 ――余のために、真に命を懸けてくれたのは、十兵衛と木村のみであったな。

 國松は昔日を思い出した。同時に盗賊の女首領が羨ましかった。彼女を守るために、配下の盗賊達は平気で命を捨てた……

「何処へでも去るがいい」

 國松は女首領に告げた。覆面で顔を隠した女首領の表情はわからない。

 が、その顔からは血の気が引いていた。自分のために命を捨てた男達への、様々な感情が渦を巻き、一時的に混乱させているようだった。

 刀を抜いたままの風魔忍者に囲まれたまま、女首領は体を小刻みに震わせていた。

 やがて彼女に変化が訪れた。

 ――あああああ!

 女首領は夜空に吠えた。月光の下、彼女は血涙を流していた。

 月明かりの下で女首領の体に変化が起きた。黒衣を引き裂いて肉体は肥大し、その顔は人ならざる存在へと変わっていった。

「これは――」

 國松はうめいた。女首領の体は服を引き裂くほどに肥大し、全身は獣毛に包まれた。

 およそ七尺を越える巨体が月下に咆哮する。それは後ろ肢で立ち上がった巨大な狼のごとくである。

「おのれ化物!」

 決死の黒覆面が――

 風磨の忍び達が数名、刀を手にして人狼に斬りかかった。

「待て!」

 國松の制止がかかる前に、人狼が右手を振るって忍び達をまとめて薙ぎ払った。男数人がまとめて吹っ飛ばされるとは、なんという力だ。

 ――オゴオオオオオ!

 女だった人狼は夜空に咆哮した。いや、それは嗚咽であったか。彼女は仲間の死に悲しみ、絶望してしまったのだ。

 今や人狼の目からは涙があふれて止まらない。女首領と配下の浪人、彼らに何があったのか余人は知らぬ。

 あるいは男女の契りを結んでいたかもしれぬ。浪人達は皆、彼女を守る為に斬り死にした。それもあるかもしれない。

「鬼も哭くのか」

 國松は再び刀を抜いて人狼を見据えた。

 その技量は十兵衛以上だが、國松は人外の者と命のやり取りに及んだ経験はない。

 國松ですらが人狼を前にして、心身の震えを抑える事ができなかった。

 心は闘いに向かっても、刀柄を握る右手が小刻みに震えている。

「未熟千万……」

 國松は尚も刀を正眼に構え、人狼に突きつけた。彼と風磨の忍び、更に繁みからとびだした源と政も人狼を取り囲む環に加わった。

 人狼の視線が一瞬、源の方へと流れた。

「なんだ?」

 源の戸惑いも一瞬である。人狼は夜空を見上げて咆哮した。それは身を挺して死んでいった男達への挽歌であったか。



 ――あの屋敷か!

 夜の中を駆けてきた十兵衛は、國松らが潜んでいる商家の側まで来た。

 その時、十兵衛は月夜に響く人狼の雄叫びを聞いた。

 それを聞いた瞬間、彼の心は白紙の境地へ――

 自らの説く捨心の境地へと達した。

「ふ」

 声にならぬ吐息を漏らし、十兵衛は駆けながら三池典太を抜き、そして商家の屋敷を囲む塀の手前に投げつけた。

 地に突き刺さる三池典太、その刀柄を踏み台にして十兵衛は跳躍した。

 黒装束の十兵衛は月下に身を踊らせ、体を捻りながら塀を飛び越え――

 商家の敷地内へ着地した。

「十兵衛!」

 國松は般若面の十兵衛の姿を認め、叫んだ。

 敷地内に着地した十兵衛は、静かに人狼の姿を見据えた。般若面を被った彼は、人狼に劣らぬ一個の化物のようである。

 ――俺と同じだな。

 十兵衛は人狼へと一歩、また一歩と間合いを詰めていく。人狼の嗚咽の咆哮は、まだ続いていた。

 十兵衛は幼き日に右目を失った。父宗矩との兵法修行の際に、木剣の突きによって潰されたのだ。

 右目を失った十兵衛は深い絶望へ落ちた。左目まで失えば、一切の光なき世界へ落ちる。幼い十兵衛にはそれが恐ろしかった。

 ――同じだ……

 十兵衛は人狼の悲しみを理解できる。失った喪失感は、体感しなければ余人にわかるまい。

 人狼は近寄ってくる十兵衛にようやく気を向けた。その口が開いて鋭い牙がむき出しになった。

「相手してやる」

 十兵衛は無手にて人狼の前に立った。距離は十尺ほど開いていた。

「来い」

 十兵衛は僅かに身を沈ませた。右手は腰に差した小太刀の刀柄に伸びている。

 般若面の奥で十兵衛は険しい表情を浮かべていた。それは魔を降伏する不動明王の如しだ。

 商家の庭にいる者は全て息を呑んだ。十兵衛の全身から発される刺すような気迫に気圧されているのだ。

 人狼とて例外ではない。義賊の女首領も多少は修羅場をくぐったかもしれぬが、十兵衛の気迫は次元が違う。

 十兵衛は死を覚悟して、無の境地に到っていた。

「――ふ」

 声とも吐息ともつかぬ言葉を漏らし、十兵衛は踏みこんだ。

 目にも留まらぬ踏みこみだ。十兵衛は一瞬で人狼の脇を駆け抜け、小太刀で抜き打ちに斬りつけていた。

 十兵衛の一閃は人狼の首筋を切り裂いていた。あふれた鮮血が、噴水のように夜空に噴き上げる。

 ――オアアア!

 人狼は最後の力を振り絞り、十兵衛につかみかかろうとした。

 十兵衛は、その人狼の足元へ滑りこんだ。人狼が体勢を崩した僅かの一瞬に、十兵衛は人狼の右手首を左手で握っていた。

 人狼の体が前方へ回転しながら地に倒れた。刹那の間に十兵衛がしかけたのは、後世の柔道における「球車(たまぐるま)」だ。

 三船久蔵十段の編み出したこの技は、足元に何かが飛び出してくると咄嗟に避けようとする、人間の生理的反応を利用した技だ。

 國松らには、人狼が自分から前方へ回転したように見受けられたろう。同時に神業であるとも。

 立ち上がった十兵衛は右手に小太刀を提げたまま、人狼を見下ろした。その隻眼には慈悲の光も宿っていた。

 人狼は立ち上がってきた。裂かれた首筋からのおびただしい出血――

 同時に人狼の、いや彼女の心からは一切の無明は消えていた。

 彼女は力尽き、商家の庭に前のめりに倒れた。その体は塵と化して消えていく。

 ここに義賊は全滅した。


   **


 十兵衛は板の間の道場にいた。

 柳生屋敷の庭にある道場だ。稽古袴に着替えた十兵衛は、隻眼を閉じ瞑想している。

 呼吸が整い、気力が全身に満ちてくる。手のひらも暖かい。心は晴れて、天地宇宙の気と調和するかのようだ。

 今の彼は清廉なる気を放つ、一人の兵法者である。たとえ勝てずとも、今の十兵衛ならば挑む。

「参れ」

 十兵衛の眼前には、同じく稽古袴姿の國松が立っていた。信長の血を継ぐ國松は、今は戦国の魔王のごとき形相だ。

 十兵衛、國松共に心は乱れていた。

 女首領に率いられた義賊を討ち、その全滅の噂を江戸市中に流した。

 そのおかげで浪人による押しこみ強盗の件数は激減した。江戸には数万人の浪人がいる。模倣犯が相次いでいたのは、特別な事ではなかった。

 十兵衛は、おりんとの約束を果たし旅芸人一座の催し物に出かけた。だが心は晴れぬ。

 旅芸人一座の公演は終わり、不気味な妖怪のロウ人形の展示会になっていたから……というわけではない。

 十兵衛も國松も江戸の治安を守るという務めを全うできた。

 だが義賊を皆殺しにした事が、両者の心を痛めた。

 ゆえに二人は手合わせを求めた。

 全身全霊を振るうしか、十兵衛と國松の憂鬱を晴らす手段があったろうか。

 彼らもまた人間である。終わりなき辛苦の中で正気を保っていられるほど、十兵衛も國松も強くはない。

 辛苦を断つには人間を捨てれば良い。人間としての仁義礼智信、全て捨てれば楽に生きられる。大半の浪人のように嘘をつき、盗みを働き、女を犯し、人を殺せるようになれば何も恐れるものはない。

 が、二人にはそれが無理だ。

「では……」

 十兵衛はゆっくりと一歩を踏みこみ、二歩目で一気に國松に向かった。

 風のような速さで迫った十兵衛に、國松は身をさばいて側面から組みついた。

 互いにうめきをもらしながら十兵衛と國松は組み合った。後世の柔道のようだ。

 互いに右手で対手の襟元を、左手で対手の右袖をつかんで離さない。組みつく事で相手の技を封じるという意味もある。

「ふ――」

 吐息と共に十兵衛は國松へ足技をしかけた。

 右足での小外刈だが、國松の左足は瞬時にそれを避け、刹那の間に閃いて空振りした十兵衛の右足を払う。

 燕返しと後世に伝わる鮮やかな技だ。体勢を崩した十兵衛は、床に尻をついた。

 國松の体が沈む。彼は十兵衛と組み合ったまま、素早く床に正座した。

 と見えるや、國松は十兵衛の右手首を捕らえてひねりあげ、そして脇へと投げた。

 十兵衛の体は背中から床に落ちた。國松の技をこらえれば、右手首が折れていただろう。

「くう……」

 十兵衛は悔しげに床でうめくと立ち上がった。國松も立ち上がった。今、彼が見せた技は宗矩より伝授された技だという。

 十兵衛には伝授されていない、座敷内での技だ。かつて國松は城内で刺客に襲われる事を想定し、その対処法を宗矩から学んでいた。

「今日はこれまで」

 國松は息をついた。その技量は十兵衛以上である。

「何ゆえ手心を加えたか」

 國松は十兵衛に問う。怒りとも失望とも判別できかねる感情が、國松の中で渦を巻いていた。

「手心ですと」

「そうだ、お主は」

 そこで國松は言葉に詰まった。

 十兵衛は國松との手合わせで実力の半分も発揮できていない。

 先日の魔性との対決を思い出せば、よくわかる。あの時の十兵衛は、今の比ではなかった。

 そして刹那の間に閃いた十兵衛の球車…… あれは神業だ。魔性の人狼も、あの技によって心が折れ、感服し、そして死を受け入れたように思われた。

「いや、止そう。余は十兵衛の敵ではないからな」

 そう言って國松は口元に笑みを浮かべた。そう、十兵衛の真なる敵は江戸の平和を乱すものであり、そのために命を懸けている。

 命を懸けて戦うからこそ、十兵衛は実力以上の実力を発揮できるのだ。だからこそ江戸の守護者に相応しいのだ。

 十兵衛の本職は三代将軍家光の御書院番(親衛隊)だが、これは仮の身分に過ぎない。

 実際には國松と共に凶賊に立ち向かう特務に就いていた。十兵衛は江戸城御庭番を率い、國松は染物屋風磨の忍びを従え、明日なき戦いの道を歩んでいたのだ。

「恐れ入りまする」

「十兵衛、改めて余は誓う。兄上の治めし城下を、そこに住まう人々の平和を守るとな。公の徳川忠長は死んだ、ここにいるのは國松という男だ」

 國松は道場の上座に目を向けた。

 十兵衛もつられて隻眼を向ければ、香取大明神と鹿島大明神の掛け軸が目についた。

 武徳の祖神、香取大明神たる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。

 剣と雷の神、鹿島大明神たる武甕槌大神(たけみかずちのかみ)。

 国家安泰を司る二大武神は、まるで十兵衛と國松のようである。


   **


 十兵衛は源の屋台へ足を運んでいた。すでに夕闇が降りていた。

「お待ち」

 源は新作の蕎麦切りを十兵衛と政の前に出した。これは蕎麦粉で練った生地を麺状に切ったものだ。

 後世のもりそばの原型だ。この時代の蕎麦というと、丸めたそばがきの事だ。

「お、いけるじゃねえか」

 政は蕎麦切りをすすった。

「うむ、これはいいな」

 十兵衛も一口すすって感心した。蕎麦には疲労回復の効果もあるという。源が出した蕎麦切りはまだ試作の段階だが、いずれは屋台自慢の一品になるかもしれない。

「そうですかい。あ、お代は要りやせん、まだ試作なんで」

 そう言って源は通りを見回した。屋台の左右に続く通りに、人影はなかった。

「また来ねえかなあ……」

 源は寂しげな顔をした。彼はいつか店を訪れた女の再来を待ち望んでいた。

「あの時の暗い女かよ、冗談じゃねえ。縁起が悪くていけねえよ」

「そんな事を言うんじゃねえよ政。俺にはわかるぜ、あの人はいい人だ」

「あー、そうですかよ。おい、蕎麦切りもう一杯くれよ」

「……そういえば見つからなかったな」

 十兵衛は卓に肘で杖つきながら、ぼんやりと考えた。

 大奥の井戸に身投げした女中の死体は忽然と消え失せた。源の屋台に女が訪れたのは、その日の夜ではなかったか。

 それから数日して、江戸には女首領の率いる義賊が現れた。女首領は魔性の者であった。

 その義賊も先日、全滅した――

「お前なんぞに食わせる蕎麦切りはねえ!」

「なんだと、このやろう! 俺を何だと思っていやがんだ!」

 源と政が口論するのを十兵衛はぼんやりと眺めた。これも平和の象徴だ。



 明けて翌日。

 今日も江戸の空を日本晴れだ。

 青く澄んだ空と白い雲を眺めていると、十兵衛の心は安らぐ。

「いつもの」

 十兵衛は茶屋の店先の床几に腰かけ、おまつに声をかけた。

「はいよ」

 おまつが返事をした。団子と茶を運んできたのは、おりんであった。

「お待たせ」

「う、うむ」

「……この前はありがとね、楽しかったわあ」

 おりんの目は笑っていない。十兵衛はうつむいて言葉も出ない。彼とおりんは旅芸人一座の芸を観に行ったが、いつの間にか公演は終了しており、なぜかロウ人形の展示会になっていた。

「気持ち悪かったわあ、血河童豚(ちかっぱぶた)」

 おりんの感情のこもらぬ視線が十兵衛に突き刺さる。当日おりんは簪で整えた髪をまとめ、おまつから借りた上等の着物で着飾っていた。

 十兵衛に対してツンツンした態度ばかりのおりんだが、一応は気にしていたというか――

 その結果は血河童豚(ちかっぱぶた)という不気味な妖怪のロウ人形であった。家畜の血を吸う河童のような豚のような、不気味な生物であるらしい。最近、江戸近郊で目撃情報が相次いでいる。

「あ、あれは……」

「ごめんねえ、あたしも知らなくてさあ」

 おまつは十兵衛を援護した。旅芸人一座は江戸で押しこみ強盗が増えたのを懸念し、予定より早く江戸を発っていたのだ。

 ロウ人形の展示会は、旅芸人一座の後に控えた催し物だったが、予定が早まったのだ。

「ふん」

 そっぽを向いてしまったおりん。十兵衛はかける言葉もなかった。

「次はまともなのに誘ってよ」

 と、おりんは少し機嫌を直した様子だ。十兵衛はほっとして胸を撫で下ろした。おりんと接するのは、立ち合いにも似た緊張を感じてしまう。

「そうかい、それじゃ良さげなのを探しておくよ」

「うむ、頼むぞばあさん」

「おばあちゃん、こんな人を甘やかしちゃ駄目よ」

 茶屋の店先に明るい雰囲気が生まれた。その中に身を置く事が十兵衛にはこそばゆい。だが、それがいい。

「――む?」

 十兵衛はその時、通りから視線を感じて振り返った。総髪の凛々しい男が、足を止め、十兵衛を見つめていた。

 微笑している男は従者らしき少年と共に、すぐに通りを進んでしまった。

 ――あれは誰だ。

 十兵衛の隻眼が細められた。記憶にはない男の顔だった。だが決して不快感はない。男には清々しい気配があった。名のある者に違いなかった。

「ああ、今のは張孔堂さんだよ」

 おまつは新しい客を出迎えながら、十兵衛に言った。おりんも十兵衛から離れ、客に茶を運んでいる。

「張孔堂……」

「たまに来てくれるのさ」

 おまつは何気なく言ったが、十兵衛の心には引っかかった。

 由井張孔堂正雪なる人物は、巷で名を挙げている。軍学の塾を開いているという事だが、その知性と人徳が人を引きつけるという。

 しかも知力のみの人ではない。正雪の右腕には、宝蔵院の槍の遣い手である丸橋忠也がついている。正雪もまた兵法に優れているとは、張孔堂に通う者達の言だ。幕閣内にも張孔堂をひいきする者は多い。

「なるほど納得だ」

 十兵衛は膝を叩いて青空を見上げた。由井張孔堂正雪、あのような人物が江戸に現れているとは。

 江戸の未来は、きっと明るいものと成る……

 十兵衛は、そう確信した。

「ふっふっふ、俺も通ってみるか…… 生涯は学びの舎だ」

 十兵衛は口元に笑みを浮かべた。自分が命を懸けて守ってきたもの、それに報われた心地がする。

 江戸は平和なのだ。

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