無明を断つ
MIROKU
無刀取り
「無手にて刀を握った対手を制する技だと?」
「は」
十兵衛は父を前にかしこまった。宗矩は十兵衛を一瞥し、長く息を吐いた。
「我が父は無刀取りの妙手を研鑽していたが」
「では、それを小生に伝えてくだされ」
「待て、十兵衛。お主、何に対して命を懸けている?」
宗矩はいぶかしんだ。十兵衛の顔は真剣だ。命を懸けて戦に臨む者の顔をしている。
一体、何があったというのか。
「――止めまする」
「何を」
「城下を騒がす辻斬りを」
十兵衛の言に宗矩は眉をしかめた。
最近、城下では女ばかりを狙った辻斬りが起こっている。
下手人が誰かまで察しはついているが、同心達は手を出せずにいた。
「お主、何を言っているかわかっておるか」
「止めまする、父上。事が仕損じれば、小生は腹を切る覚悟でござる」
「お主一人の腹では済まぬ。わしも斬る事になろう。……道場へ参れ」
十兵衛と宗矩は屋敷内の道場に移り、尚も話しこんだ。
「では刀を持つな。匕首も許さぬ。よいな」
「は」
「組打の術は、擦り合わすほどに身を寄せあったところに真髄がある」
宗矩は稽古袴に、左手に刀を鞘ごと握っていた。対する十兵衛は稽古袴だが無手であった。
「お主に組打の術は一通り伝えてある。真髄があるとすれば十兵衛、すでにお主が身につけているはず―― あとは武徳の祖神の導きあるのみ」
言って宗矩は道場の上座の掛軸を見た。
香取大明神。それは武神、経津主大神の事だ。
鹿嶋大明神。それは剣神、武甕槌神の事だ。
十兵衛に勝機があるとすれば、武神剣神の導きなくして他はない。
「つかまつるぞ」
宗矩は刀を抜いた。十兵衛は顔から血の気を引かせつつも、宗矩と向き合う。
この生死の境を越えた先にしか、明日はないのだ。
満月輝く夜だった。
十兵衛は女装して辻斬りが現れるのを待ち、遂に遭遇した。
「じ、じ、十兵衛!」
辻斬りは女と思って斬りつけた相手が刃を避けたのみならず、憎き男である事に憤った。
「上様、お気を確かに」
十兵衛は女物の上衣と掲げていた薄布を投げ捨て、着流し一枚の姿になった。
「上様は魔物に取り憑かれておいでです…… 念仏を唱え、魔物を追い払いくだされ」
十兵衛は本気でこんな事を言っているのではない。
三代将軍家光が夜な夜な城を抜け出して、女を斬殺しているのは、魔物に憑かれたがため――
そのように取り計らいたい幕閣の意向と、あるいは家光が狂気から解き放たれるのを期待しての発言だ。
だが家光は十兵衛に対して憎しみしか持ち合わせていない。
「じ、じ、十兵衛! 貴様は! 貴様はあ!」
家光が一刀を打ちこんできた。十兵衛は、それを避けた。宗矩から剣を学んでいる家光だけに太刀筋は馬鹿にはできぬ。
二度、三度と打ちこまれた刃をも避け、十兵衛は家光と距離を取る。勝機を狙っているのだ。
対する家光は落ち着いてきていた。刀を上段に持ち上げ、烈火のごとき気合を放つ。
「余は生まれついての将軍であるぞ!」
家光、会心の一刀だった。
が、十兵衛は素早く家光の足元に屈みこんで一刀を避けた。
「んな!」
家光は叫んだ。その時には、十兵衛は家光の股下に右手を差し入れ、左手で胸ぐらをつかんで肩に担いでいた。
「ぬおお!」
十兵衛は姿勢を崩しながらも、己もろともに家光を地面に叩きつけた。
後世の柔道の技「肩車」であった。
これは、足元に何かが飛び出してくると、咄嗟に避けようとする人間の本能的な生理を利用した技だ。父宗矩から学んだ技である。
背中から落とされた家光はうめいた後、意識を失った。
「父上、やりましたぞ……」
十兵衛は全身にびっしょりと汗をかいていた。
初めての命を懸けた実戦であり、ましてや家光を殺すわけにはいかぬのだ。
その難事を成し遂げる事ができたのは、力や技のみならず、志の強さではないかと十兵衛は思った。
無刀取りとは、力や技ではなく心ではないのか。
死を覚悟して無の境地に入る事ができたからこそ、家光を制する事ができたのだと十兵衛は思わずにはいられない。
「局様、これでよろしいか」
十兵衛は満月を見上げてつぶやいた。
春日局は家光の実母と、幕閣では噂されていた。
その春日局に、涙ながらに家光の辻斬りを止めるよう密命を受けて、十兵衛は死を覚悟して挑んだのだ。
結果は――
子を思う母の情の勝利かもしれない。
数日後、十兵衛は江戸を発った。
表向きは家光の不興を買っての謹慎だが、事実は西国大名の情勢を探る隠密行だ。
切腹は免れた十兵衛だが、今度は命懸けの任務を押しつけられる事になった。
しかし、十兵衛は晴れ晴れとした顔で晴天の空を見上げていた。
腰には春日局から謝礼として賜った名刀、三池典太がある。
「この旅は楽しくなるかもな……」
野袴に編笠をかぶった旅装の十兵衛は、杖をつきつつ街道を行く。
前途に待ち受けるは、修羅の地獄であろう。
そして十兵衛の度は十数年に及んだ――
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