第2話 命みなぎる豚骨スープ鍋
仕事が完全に終わったわけではないけれど、今日は何だかむしゃくしゃしたので、適当なところで切り上げて帰りの電車に乗った。
そしたらちょうど環さんから『今駅着いた。スーパー寄って帰る』とメッセージが来ていた。だから私は『二十分待ってて。私も行く』と返信する。
特に食材は切らしてなかったはずだから、スーパーに寄りたいってことは、きっと何か食べたいものがあるのだろう。それか、お気に入りのお酒を切らしたか。結婚してから、すっかり家飲みが増えた。今度またどこかに二人で飲みに行くのもいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、電車は目的の駅へと到着した。
改札を出たらスーパーまでダッシュだ!と思っていたのだけれど、すぐ目に入るところに夫の姿を見つけて、口元が緩んでしまう。今日は朝少し冷えたから、トレンチコートを着て出ていたのだった。コート姿の夫、最高。
「環さーん!駅で待っててくれたんだね」
「いや、待っててって、普通に駅で待つだろ」
「そっか。うふふ」
環さんは「少しでも早く会いたかったから」とか、絶対に言わない。そんな甘い理由ではなく、もっと合理的な理由だろうし。それでもいい。私を待って駅に立つ夫の姿は最高だから。
「今日は何を買うの?お酒切れた?」
スーパーに入って、カゴを持つ環さんに尋ねる。カートを用意しなかったあたり、あまり重いものを買い込む様子はないみたいだ。
「そろそろ鍋でも食べるかなと思って。モヤシでもキャベツでも、鍋にして食べるとうまいもんな」
「いいね。私、ひとり暮らしのときモヤシと豚肉だけの鍋とかしてたよ」
「二馬力だからもっと具材増やせるぞ」
「結婚って最高だね!」
仕事帰りに一緒にスーパーで食材を買うなんて楽しいなぁと、私は幸せを噛みしめる。結婚してから、何でも二倍楽しい気がする。買い物も、食事も、面倒くさかったはずの洗い物も。
「はぁ……環さんと結婚してよかった。こうしてカゴを持って真剣に食材を選ぶ姿を見るだけで眼福だもん」
「……体調不良にはちと早い時期な気がするな。今日、何か嫌なことあった?」
いつもの夫馬鹿を炸裂させていただけのつもりなのだけれど、環さんは何かを感じ取ったらしい。じっとうかがうように見つめてくる。
そういえば、今の今まで忘れていたけれど、電車に乗るそのときまで、嫌な気分でいたのだった。
「今日ね、隣の部署の若い子が休んだんだけど、理由が飼っていたワンちゃんが亡くなったからなんだって」
「それは、休むな」
「でしょ。でもね、その子の上司はそれが気に入らなかったらしくて、ずっとチクチク言ってたの。『犬が死んでショックなのは人として理解はするが、わざわざ「愛犬が亡くなったので休ませてください」なんて連絡してくるのは、社会人としての意識の低さを感じる』って」
「……そいつは一体何に引っかかりを覚えてんの?」
話し始めて、もしこの違和感や嫌悪感を環さんと共有できなかったらどうしようかと少し不安だったけれど、それは杞憂だった。彼の眉間には、皺が入っている。
「『犬が死んだでいいだろ。わざわざ愛犬って言う意味もわからんし、〝亡くなった〟なんて言葉は動物には使わない。何のアピールなんだよ』だってさ」
「それ、本人不在とはいえ、わざわざ言うことなのか?その上司の発言こそ、言う必要がないだろ」
「だよね!意地悪だなって」
環さんが同じ意見だったことにほっとしつつも、忘れていた苦い気持ちがまた胸に広がってきた。
「それで由奈さんは何で落ち込んでんの?」
「いや……そのとき、その上司に同意を求められて、私、曖昧に笑うに留めちゃったんだよね。本当は、『何でそんな意地悪言うんですか?』って言えばよかったんだけど……」
口にしてみて、さらに後悔した。彼の言葉を否定しなかったことで、私も同じ考えみたいだ。
「そこは別に由奈さんが戦わなくていいよ。由奈さんが真っ当なことを言っても聞き入れる耳はついてないだろうし」
「それはそうだけど……でも、彼女が次に出社したとき、きっと嫌な気持ちにさせちゃう」
「それも由奈さんが悪いわけじゃないだろ。……どこにでも嫌なやつはいるな。というより、人間力低いやつ。社会人としての意識の話以前に、てめぇの人間力について考えろよって言いたいな」
「そうなの……あの人、時々びっくりするくらい冷たいの」
話しながら、なぜ自分がこんなにも疲弊したのかを理解した。他人の冷徹さやチクチクした感情に触れると、どうにも擦り切れてしまうのだ。何もできないくせに、ただ無駄に傷つく。繊細なのではなく、惰弱な自分が時々嫌になる。
「そういう発言って、結局そいつが何を軽く見てるのかがわかるんだよな。そいつが他人の妻を軽く見てたとしたら『妻が死んだことを〝愛妻が亡くなった〟なんて言うな』とか言うぞ。だめだろ、これ」
「そう、だめなんだよ。だって家族だもん、わんこも妻さんも」
犬を妻に置き換えたところで、胸がキュッと苦しくなった。これ以上は無理だ。違うことを考えて気を紛らわせなければ。
「そういえば、愛妻はあるのにその夫版の言葉は知らないね。何て言ったらいいのかな」
「マイスイートダーリン」
「え?」
「だから、マイスイートダーリンだって」
肉を吟味しながら、環さんは真顔で言う。この人の時々真顔でぶっ込んでくるギャグがやばい。あまりにも真顔だから、ギャグじゃない気もしてくる。
「それって、もし環さんが死んじゃったら私、会社に『私のマイスイートダーリンが亡くなりまして』って言うの?ふざけてない?」
おかしいだろと思って尋ねると、環さんの肩が震えていた。目を合わせない。やっぱりふざけているらしい。私が真に受けて外で披露したらどうするつもりだったのだろう。
「ふざけるなよ。俺、由奈さんより長生きするし。その覚悟で生きてるし」
「うんうん。筋トレ頑張ってるもんね」
「めちゃくちゃ健康に気を使って二人で長生きする。させる」
「そうだね」
話は逸らされてしまったけれど、うまいこと着地したのでよしとする。話しているうちに、胸の中にあった嫌な感じも大分薄れてしまった。
「ニラ、モヤシ、豚肉がもりもり……何鍋にする?キムチ?」
「キムチもいいけど、今夜は豚骨にしよう。ニンニクスライスも乗せて煮込んで、スタミナ疲労回復鍋にする」
「おお!」
環さんの口からレシピの詳細を聞いて、大正解の味だなと思った。食べる前から確実にわかる美味いやつ。
「とりあえず、しっかり食べて元気になるぞ。チクチクした言葉にやられるっていうのは、疲れてる証拠で、体が疲れると心も弱くなるから」
「うん。食べて強くなる」
「そうだ。肉食って勝つぞ」
「うん。優勝する」
会計を済ませたあと、勢いしかない謎の会話をしながら家に帰る。環さんといると、こんなふうにふざけていられるのが好きだ。今日は日頃の私が担っている何割かぶんのふざけを、環さんが担当してくれている気がする。
「とりあえず材料切って鍋にぶち込んで煮込むだけだから、先にお風呂どうぞ」
「では、お言葉に甘えて」
帰宅して、環さんに促されてバスルームに向かう。具体的な提案をしてもらったときは、それに従うのがいい。私はウキウキしながら体を清めた。
お風呂あがり、髪を乾かそうと洗面台の前に立つと、もうすでにいい匂いがしてきていた。スタミナ溢れる、美味しい匂いだ。
「あがったよー」
「ちょうどできたぞ」
「やったー」
リビングに行くと、もうテーブルに鍋がセッティングされていた。猫舌の私のために、すでに小鉢に具材が取り分けられている。
「冷ましてある……嬉しい」
「不幸な事故は未然に防ぎたいからな」
「繰り返されるよね、痛ましい事故」
「フゥーフゥーしろって言っても覚えねぇもんな」
呆れたように言いつつも、いつも冷ましてくれるのだから愛だ。苦手なことが多いと、そのぶん環さんの愛を感じられる。
「美味しいねぇ。鍋食べると、寒い季節も生きられる気がするね」
豚肉とニラとモヤシを一度に口に入れると、ジュワッと具材の味と染み込んだ豚骨スープが溢れ出て幸せな味だ。環さんも黙々と食べている。
あれだけたくさんあった野菜も、クタクタになってあっという間になくなってしまう。それでも、目の前にはわりとたっぷりスープが残っていた。
「……締め、ラーメン入れるか?」
「あー、太るー」
「動け」
私の答えを聞かずに、環さんは問答無用で麺を投入してしまった。もちろん食べるけれど。
だって環さんは、ちょっと文句を言いつつもウォーキングに付き合ってくれるから。
環さんはデレないけれど、妻の体調管理には本人以上に熱心なのだ。
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