第2話 義体

 ユウはぼんやりと目を開けた。焦茶の目が天井を彷徨う。薄緑のカーテンに仕切られた狭い空間は、数日を共に過ごしても一向に馴染む事を知らなかった。


 静かだった。ずっと淡く腹の底に響いていた艦の駆動音は無く、そういえば木星圏についたんだっけ、とぼんやり思考する。艦隊は今、木星最大の衛星にして防衛軍の木星基地本部が置かれている、ガニメデに停泊しているはずだった。


 残された右肘をついて、身を起こそうとする。このバランスにも流石に慣れてきた――つもりだったのだが。

 予想外の重みにぐらりと身体が傾いだ。ユウは咄嗟に左腕を突き出して身体を支え――


「……は?」


 身体は倒れなかった。左腕が身体を支えている。ユウは目を瞬いて自分の身体を支えた腕を見た。右目カメラアイが引っ切り無しにズームインとアウトを繰り返す。焦点が合ったそれはやはり腕のようだった。半身を起こし、まじまじとそれを眺める。


 何か悪い夢でも見ていたのだろうか。底冷えする気持ちを抑え込んで薄い上掛けをめくる。病衣のズボンは、どちらも中身が入った状態でユウの視線を迎えた。ライトブルーの布地の向こうに、五指を揃えた足が見える。


 ずきり、と頭が痛んだ。

 頭の中に断片的な記憶が蘇る。肉に深く侵食されたフェニックス。警告音。識別通知。鳴り止まない撃墜通知。怒号と、悲鳴と――泡立つ、声。


「とんでもない悪夢だな……」


 縁起でもない夢だ。ユウは頭を振って夢の断片を振り払った。で目をこする。淡い駆動音が鼓膜をくすぐった。

 無性に仲間たちの顔が見たい。食堂に行けば誰か居るだろうかと思いながら、ベッドに腰掛ける形で二本の足を床に降ろした。


 今日は何日だろうか。長い夢を見ていたのなら、医務室のベッドで自分が寝ている理由がよく分からなかった。バングルのホロモニタを起動して日付を確認しようとしたところで、がちゃん、と硬いもの同士がぶつかり合う音が響く。


「こら!!」 


 マリーの怒る声に追われて、見慣れた作業用補助ユニットRAMが薄緑のカーテンに突っ込んできた。


「ユウさん!! 起きましたか!」


 カーテンの端を引っ掛けて布おばけになっているRAMが、ばたばたともがいた。マニュピレーターが布地を引っ張り、カーテンレールがたわむ。ばちんと音がしてランナーが2つ、弾け飛んだ。


「もー、何やってんの!!」


 駆け込んできたマリーが布おばけからカーテンを引き剥がす。マリーを無視して、布から解放された巨大な乾電池のようなボディがベッドにぶつからんばかりの勢いで迫ってきた。


「良かっタ。なかなか目を覚まさなかったのでもうダメかと」

「シエロ……うわ、なんだよ」


 RAMのインジケータライトをちかちかと瞬かせて、マニュピレーターでやたらと手足をつつき回してくる相棒にユウは目を白黒させた。


「はいはーい、ちょっと退いてね」


 マリーの荒れた手がマニュピレーターを引き剥がす。しっしっと犬でも追い払うようなジェスチャをされて、しょんぼりとマニュピレーターを垂らしてRAMが後退した。


「ちょっと色々確認するわよ。この指は何本?」

「2本です」

「オーケー。今日は何日か分かるかしら?」

「いえ……今確認しようと思ってました」

「ざっくりでいいわ」


 栗色の瞳がじっとユウの目を覗き込む。ユウは少し躊躇いながら、アステロイドベルト探査が始まる前の日付を口にした。マリーの眉が少し下がったのを見て、心臓が小さく跳ねる。


「あの……マリーさん」


 マリーは少し考え込むように口を噤んだ。とっ、とっ、とっ、と心臓の音がだんだんと大きくなる。


「ユウ君」

「……はい」


 片方だけ残った、焦茶の目が見開かれた。マリーは黙って答えを待っている。心臓の鼓動は全身に及び、にまで染み渡るようだった。絞り出そうとした言葉が喉でつかえる。


「夢……」


 ようやく絞り出した言葉は、溢れ出る感情に呑まれた。つかえつかえ、遠回りな肯定の言葉を口にする。


「夢、だった、ら、よかった、のに」


 夢の断片では無かった。全て現実に起こった事だった。一度飲み込んでいた筈のその感情が、偽りの安堵によってまたこじ開けられる。

 ユウは両手で顔を覆った。淡い駆動音が鼓膜をくすぐる。左目から溢れた熱い液体を、左手は感じ取ることができなかった。


 * * * 


 ユウのバイタルと脳波データを常時監視していたシエロが、医務室に来ると同時に連絡を入れたためすっ飛んできた双子に、これ幸いと様子見を押し付けたマリーは忙しなく去っていった。ここ数日医療班は働き詰めで、行き交う医療服スクラブを着た医療班のメンバーは誰もが疲れ切った顔をしている。


「で、何でお前はいつも無許可で改造されてんの?」


 ユリウスはじっとりとした目で、ユウの新しい手をさすりながらそう言った。ユウは黒いワイヤ状の機器をつけた白い指が自分の手の上を滑っていく様を眺めながら、小さく溜息を吐く。


「眼は合意だったから、無許可はこれが初だよ……」

「兄貴、そろそろ代わろうか?」

「ダメ」


 ユウの手をさすり続けているユリウスの手元を覗き込んでユリアが問うが、ユリウスはぴしゃりと拒否した。「なんか絵面が嫌なのよね……」とユリアが肩を竦める。

 それを聞いたユリウスの表情が、ふにゃりと溶けた。


「わかる、わかるよユリア。お兄ちゃんもさするならユリアちゃんの手がいいよ……」

「気持ち悪」


 ユリアは冷たい冷たい目をして兄の脛を横から蹴飛ばした。ユリウスは一瞬顔を顰めながらも、とろけた表情を崩さない。どうやらこの兄の頭の中ではユリアが嫉妬していることになっているようだった。ユウから見ても若干気持ち悪いそのユリウスの手から、ユウは手を引き抜こうとする。


「ユリウスもういいよ……感覚調整用の機械もあるらしいから」

「そうですよ。なんなら私がやりまスよ」


 カーテンで仕切られた空間の隅でインジケータライトを紫にしてVR空間に引き篭もっていたシエロが、ライトを外向きカメラを示す緑に切り替えて言った。伸ばされたマニュピレータをユリウスがぴしゃりと叩く。


「黙らっしゃい。マリーさんがでの調整もあったほうがいいって言ってただろ。さっさと調整して復帰しろ」


 今やっているのは人工皮膚の感覚を脳にフィードバックするための、視覚経由の調整だった。人間の脳というものは、案外視覚によって騙されやすい。

 こんな実験がある。本物の手を視覚から隠し、その隣、見える位置に膨らませたゴム手袋を置く。ゴム手袋を触っている様子を見せながら本物の手に同様の触覚刺激を与えていると、やがてゴム手袋にのみ触った場合でも脳は触覚を知覚するようになるのだ。

 ユウが受けているリハビリ措置は、その感覚フィードバックを応用したものだ。人工皮膚から感覚信号は既に発生しているのだが、受け取る脳の側はそれを未だ紐付けられずにいる。そのため実際に触れることで触覚信号を脳側の処理に紐付けていくらしい。


 そんなわけでこの穏やかな昼下がりの時間、ユウはこうして男に手を握られる羽目になっているのだった。

 感謝とささやかな拒否感がない混ぜになった複雑な感情でそれを眺めていたユウの視線が、カーテンレールをランナーが滑る音につられて仕切りのカーテンを向いた。


「こら、目ぇ逸らすな」


 まだ蕩けた表情が戻りきっていないユリウスが掛けたその台詞は、シチュエーション的に完璧だった。カーテンを開いて入ってきた人物に焦点を合わせるユウの右目のカメラアイのズーム音だけが、沈黙に満ちた空間に響く。

 可愛らしい苺と菓子のイラストが印刷された袋を携えた副艦長、ツェツィーリヤは氷点下の気配を振りまきながら静かな声でこう言った。


「失礼。邪魔するつもりはありませんでした。どうぞお続けになって」


 * * * 


「なんだ、リハビリでしたの。でしたらそう言ってくだされば良かったのに」

「俺が何度言っても聞く耳持ちませんでしたよねぇ上官サマぁあ……?」


 ブチ切れたユリウスとそれに噛みつくツェツィーリヤを、割って入ったユリアが宥めすかすのに少々の時間を要した。ユリアの丁寧な説得によってようやく事態を飲み込んだツェツィーリヤは、涼しい顔をして菓子の箱を開けている。


「言葉の信用というのは、その人の信用に比例するんですのよ」

「俺はいつだって極めて誠実な男なんですけどね」

「嗜好が歪んでいるという部分の話ですわ」


 ユリウスの額に幾つも青筋が立つ。どうどう、といきり立つ兄を宥めながらユリアが首を傾げた。


「イリヤさん、何か御用があったのでは?」

「まあ、さすがユリアちゃんね! はい、カスタードケーキをあげますわ」

「あ……ども」

「ユウさんに木星圏の義肢技術についての説明に来たんですわ。ええと……資料を、ああその前に貴方にもカスタードケーキを」

「あ、ありがとうございます」


 バングルからケーブルを引き出そうとして、菓子の小袋を持ったままだったことに気付いたツェツィーリヤがユウの手にも菓子を握らせる。ユウはそれを枕の傍らに置くと、手首を捻ってバングルのコネクタ部分を差し出した。


「技術説明に来るなら仕様くらい把握しとけよな。リハビリ方法だって載ってんだろうに」

「ややこしくなるから兄貴は黙ってて」


 バングル同士をケーブルで繋いでいるツェツィーリヤを横目で見ながら混ぜっ返したユリウスが、ユリアに叱られてしゅんとしょぼくれる。


「そうね、わたくしも内容全てを把握できてはおりませんわ」

「なんだ、やけに素直だな」

「自分の不手際を認めないほど愚かではなくてよ」


 フン、と鼻を鳴らしてユリウスはそっぽを向いた。ツェツィーリヤは気にした様子もなくバングルを同期モードにすると、手元で資料を開く。ユウのバングルからもホロモニタが出現し、5つの目と2つのカメラアイがそれを覗き込んだ。


「今回ユウさんの手足に造設した義肢は、木星圏の企業、ガレリアン・ダイナミクス社から提供されたものです。それに伴い、貴方の脳には侵襲性のブレイン・マシン・インタフェースが挿入されました。そこのコネクタを使っているという事は、ここはマリーさんから伺っていますね?」


 ツェツィーリアはユウの首元のコネクタから伸びるケーブルをちらりと見て尋ねる。ケーブルはユリウスの手に装着されたワイヤ状の機器と繋がっていた。ユウはコクリと頷く。


「執刀はアサクラ副班長が行いました。経過はマリーさんも看てくれますが、不都合や不調がある場合にはアサクラさんへ連絡してください。差し当たって……今そこのシスコンと繋いでいて問題はありませんか?」

「おい。俺にはちゃんとした名前があるんですがねぇ上官サマ」

「失礼、トルストイ上等兵。でも貴方の上官であるわたくしにも名前はございますのよ」

「これはこれは、失礼しましたリーゼンフェルト中尉ど……ぶぇあ!」


 半眼でそう返すユリウスの横っ腹に、ユリアのキックが炸裂した。ユリウスがスローモーションで倒れ込み、びぃんと貼ったケーブルが突っ張ってぶつんとコネクタから外れる。ユウが「い゙っ!?」っと悲鳴を上げた。

 脇腹を押さえて切ない呻きを上げている兄をズルズルと引きずって数歩後退すると、ユリアはぺこりと頭を下げる。


「すみませんイリヤさん。兄にはよーーく言って聞かせておきます。コイツがいると話が進まないと思うので私たちはこれで」

「えっ、あっ、ユリアちゃんそんな」


 ツェツィーリアが切なげに伸ばした指の先で、ぴしゃりとカーテンが閉じられた。あからさまに肩とテンションを下げたツェツィーリヤに、ユウがおずおずと尋ねる。


「あの……誰か呼びましょうか、マリーさんとか。俺と二人だとお嫌でしょう」


 ツェツィーリヤは長い睫毛を何度か上下させた。少し憂いを帯びたエメラルドグリーンの瞳が、瞬きのたびに見え隠れする。それをただ心配そうに見上げてくるユウを見て、彼女はすっきりと通った鼻筋の下で形の整った唇を緩めて見せた。


「お気遣いありがとう、ユウさん。このままで問題ありません」

「でも……その、男が苦手なのでは」


 自分で言っておいて、「すみません、立ち入ったことを」と眉を下げたユウに、ツェツィーリヤは少し困った顔をする。


「いやだ、わたくしったら。……そんなに?」


 ユウはツェツィーリヤ着任の日、艦長室の前にたむろしていた連中の事を思い出した。この美麗な副官の気を惹こうとして、何人もの男たちバカどもが玉砕していったのを知っている。ひっそりと「氷の女王」と呼ばれているその美貌を見ながら、ユウは曖昧に頷いた。ツェツィーリヤは苦笑する。


「わたくしは男性が苦手なわけではなく、男性から向けられる好意が苦手なだけなのです。貴方、わたくしの事を何とも思っていないでしょう」

「えっ!? あ、いやその」


 今度はユウが忙しなく瞬きをする番だった。その目がうろうろと自分とシエロの間を行き来したのを見なかったふりをして、ツェツィーリヤはバングルの資料に目を落とす。マニュピレータがポン、と肩に乗った。


「この処置は木星圏では一般的なもので、諸問題はクリアされているため特段大きなリスクもないそうです。“目の時のような心配はない”というのがアサクラさんからの伝言です」

「本当かなァ……」


 ボディを揺らして、シエロが呆れのパラメータを付与した声で混ぜ返す。プリセットの溜息音声のおまけつきだ。そのカメラアイに握ったマニュピレータをむぎゅっと押し付けて、ユウは首を傾げた。


「一般的、なんですか? これ、普及している技術という理解でいいんでしょうか。神経接続系がここまで緻密にできるとなると、全身義体もあったりするんですか」

「話と資料に依れば、その通りです。全身義体の方にももう何人もお会いしましたよ」


 ユウは手のひらを見る。寝起きに本物のそれと見紛ったそれは、改めて見ても生身のそれに非常に近しいものだった。

 一、二度それを開閉し、シーツを撫でて感触を確かめる。ユリウスがせっせとさすってくれたお陰で神経回路は繋がりつつあるようで、さらさらとした手触りが淡く感じられた。その視線はシーツの端を滑り落ち、の冷たい金属の背に落ちる。


 秘かな決意を静かに灯した目を見て、ツェツィーリヤは端麗な顔に淡い苦笑を浮かべた。


「——高価たかいですよ」



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