第17話 雪の雫に熱をこめて

 32名のパイロットが犠牲になった。

 加えて、十数名の者が重傷を負った。ようやく余裕が出てきていた医療区のベッドは再び満床になっている。


 戦闘が終わってから3日経った今も、ユウは目を覚まさない。


 * * * 


 ドアをノックする音がした。

 二段ベッドの下段で戦闘ログを眺めていたナギは億劫そうな動きで首だけを動かしてドアをちらりと見ると、その音を無視してバングルのホロモニタへと視線を戻す。


「入りますよ」


 返事を待たずに、ドアが開いた。ドーナツの載った皿を携えたラニが顔を出す。


「おやつ、食べませんか」


 そう言ってラニは椅子に腰を降ろした。ナギは目だけを動かして皿の上に盛られたドーナツを見ると、もぞもぞとベッドから起き上がる。


「食べるー」


 ベッドに座ったナギの膝の上にドーナツの皿を置いてやって、ラニは立ち上がった。床に乱雑に積まれた服の山から衣類をつまみ上げ、畳んでは積み上げていく。


「ねぇナギ」

「ん?」


 ナギはあっという間にドーナツを一つ平らげ、指についた砂糖を舐めながら首を傾げた。


「同室のメイベルが、サラの部屋に移るんです。だから……私の部屋に来ませんか」

「えー、やだ。引っ越しめんどいもん」


 にべもなく言い放って、ナギは二つ目のドーナツに噛り付く。ラニはナギの隣に座り、ぼさぼさになってしまった白い髪を梳いた。


「じゃあ、私がこの部屋に越してくるのはどうです?」


 ナギは答えない。ただもそもそとドーナツを齧っている。ラニはナギの膝から皿を取り上げた。サイドデスクにそれを置き、華奢な体を抱きしめる。


「無理しないで。一人でいないほうがいいです。ギルバートさんにはなれないけど……私も、いるから」


 紅い瞳孔が一瞬拡大した。すぐに眇めたその目が、冷たい色に濁る。口にくわえたままのドーナツから、細かな欠片が零れてラニの肩に落ちた。ナギは黙ってラニの体を押しやると、その肩からドーナツの欠片を優しく払い落として立ち上がる。


「飲み物貰ってくるよ。部屋はラニの好きにして」

「ね、ねぇっ! 荷物の整理、私がしておきましょうか」

「ん。ありがと、助かる」


 振り返らずに返事だけを背後に投げて、ナギは部屋を出た。すたすたと居住区の廊下を歩く。居住区を抜けたところにある食堂は、午後の半端な時間ということもあって人がまばらだった。がらんとした空間に、カウンターの奥で食器を片付けている音だけが響く。

 ナギはウォーターサーバーに歩み寄ると、サーバ横に備え付けられたカップの束から1つを引き抜いて、そこに冷たい水をなみなみと満たした。ぐいと一気に煽れば、ドーナツに水分を奪われてぱさぱさとしていた喉が潤いを取り戻す。カップをカウンターの下げ口に押し込んで踵を返したその背に、快活な声が跳ねた。


「ナギ! ドーナツがあるんだけどね、食べて行かないかい」

「もう食べたよ。ご馳走様、美味しかった」

「そうかい。……無理するんじゃないよ」


 艦の台所を預かる、艦隊の母ナタリアの声は包み込むように優しい。ナギは振り返らずに再び眼を眇めた。ひらひらと手だけを振って歩きだす。


 部屋に戻ると、ラニはいなかった。わずかな片付けの痕跡がある。サイドデスクに置かれた小さな箱に目が留まった。つやつやとした紙で包まれたそれは、見覚えのない箱だった。細いリボンが掛けられていて、そのリボンの隙間に四つ折りにした紙が挟み込まれている。小さく「HappyBirthday Nagiたんじょうびおめでとう、ナギ」と書かれていた。

 リボンをほどくと、四つ折りの紙がポトリと落ちた。箱をデスクに戻して、紙を拾い上げる。開いてみると、それはギルバートがよく使っているブロックメモの1枚だった。

 

――ナギへ。

――19歳の誕生日おめでとう。

――店員の話じゃ、魔除けの守りになるらしい。

――お前は粗雑に扱いそうだから、シルバーをタングステンカーバイドに変えて貰った。目潰しにでも何でも好きに使え


 そういえばもうすぐ誕生日だったっけ、と呟いてナギは紙を裏返した。本文以外の紙があちこちへこんで、至る所にその筆圧が残した透明な誕生日の文字列が見えた。


「慣れない事しようとするからじゃん」


 そう言ってデスクにメモを放り投げると、びりびりと雑に包装紙を破り捨てる。姿を現した小箱の蓋をすぽんと開け放ち、中に入っていたものをつまみ上げた。細い銀の鎖の先で、鋭利なシルエットの小さな十字架が揺れる。

 十字架の周りを公転するような意匠で取り付けられた小さな紅い石を紅玉の瞳で見つめて、「バカだね」とナギは一言呟いた。

 

  * * * 


 その日、ラニはもう訪ねてこなかった。午後からまた点滴を受けに行って、部屋に戻ってもいいと言われたのは消灯時間間際の事である。


 まっすぐ部屋に戻らず、食糧生産プラントの方へ足を向ける。消灯時間間際で、人影はまばらだった。消灯されたからと言って別に出歩いてはいけないわけではないのだが、比較的面倒な申請を通さなければ灯りは使えないため、夜勤以外の人間は大抵部屋に戻る。艦で扱う時間は基本的に地球出発時の24時間サイクルを維持していて、消灯時間に合わせて生活することは宇宙の暗闇を進む中では健康維持にとっても重要な事だった。


 プラントに着く頃には艦の灯りは落ちていた。は賑やかに鳴き交わしている動物たちも、今は薄暗がりの中で静かに呼吸のみを繰り返している。

 ひっそりとその横を通り過ぎ、菜園に足を踏み入れた。入口のすぐ傍に貰った小さな場所で、4つの鉢植えがつけた花がその白い花弁を非常灯の淡い緑に染めている。 


 腿を探って小さなナイフを取り出すと、ナギはスノードロップの鉢植えの前にしゃがみ込んだ。ぷつんぷつんと、ナイフでその花を切り取っていく。

 摘み取った花を携えて立ち上がろうとして、ナギは目を細めた。

 

「……誰?」

「すみません、僕です」


 誰何すいかの声に応じて姿を見せたのは赤毛の少年だった。


「何?」


 短く問われて、ハイドラは金の瞳をナギの手の中に向ける。


「その……花を、少し譲ってもらえないかと思って。今回、QP達もたくさん死んだから――クピドが少し元気がないんです。花をあげたら元気が出ないかなって思って……その、気に入っていたみたいなので」


 ハイドラがおずおずと話すのを黙って聞いていたナギは、肩を竦めてひょいと小さな花束をハイドラの頭より高い位置に持ちあげた。


「だーめ」

「え……」

「これはね、人に贈るもんじゃないよ。女の子に花を贈るときはね、花言葉なんかを調べてからにしなさい」

「でも、前に花言葉は希望って」

「そうだよ、そっちはね」


 ナギはそう言って鉢植えに残った花に向けて顎をしゃくった。ハイドラの表情が疑問符で埋まる。

 ナギは目を眇めて少年を見降ろした。


「人に贈るときのスノードロップの花言葉はね、“あなたの死を望む”だよ。どうする? 持ってく?」


 ハイドラは目を瞬かせた。数秒の沈黙ののち、「……いえ、やめておきます」と細々と答える。

 その肩にぽんと手を置いて、ナギは背を向けた。


「花なんてあげるくらいならドーナツでもあげたほうが喜ぶよ。じゃあね」

「でも、その花は一体……」


 戸惑ったようなハイドラの声が、細い背に跳ねて花弁を揺らした。ナギは答えず、少年を残して歩き去る。

 プラントを後にして、ラウンジに向かった。まばらだった人影は完全に姿を消し、自分の靴音だけが小さく響く。いつかの夜に自分を迎えに来たギルバートが、自分を背負っても足音を立てなかったことを思い出した。足音を立てずに歩くことはナギにだってできるが、なんとなく自分がここにいることを示したくて、小さく踵を鳴らして歩いていく。

 

 ラウンジの近くまでたどり着いた時、ナギはぴたりとその足を止めた。ラウンジの中からは、低い男の声が漏れてくる。足音を消してラウンジの入り口に忍び寄り、出入り口から死角になっている場所に身を沈めた。


「サイトウ、お前の采配はいつも見事だった。お前をフライトリーダーに任命したのは間違いではなかったよ。地球を出る前、ナタリアさんが苦労して手に入れてくれた牡蠣は旨かったなぁ。また一緒に食いたかったよ。……すまない。すまない……」


 低く通る声はシキシマのものだ。ナギは狭い空間に頭を預けて目を閉じる。この司令官が夜更けにひっそりと死者の元に足を運んでいることを、艦の誰もが知っていて、誰もが知らないふりをしていた。

 穏やかに生前の思い出を語り、そうしておいて最後には謝罪を繰り返す。一人一人に、丁寧にそれを繰り返した。身勝手だな、と思ってナギは口の端を緩める。でもそれでいいのだ。追悼というものは一見死者のためのものに見えて、それは生者が赦しと区切りを求めるためのものに他ならない。


「ギルバート。お前がどれだけこの隊を支えていたか、お前知らないだろう。私も本当に頼りにしていたんだよ。正直お前がいなくなって、これからナギのことをどう扱うべきか悩んでいる。だが心配するな。私が必ず何とかする。だから安心して……いや、私にこんなことを言う資格はないんだ。私の指揮が至らないせいで辛い戦いを強いた。すまん。本当にすまない……」


 狭い空間の中でナギは淡く笑う。恐らくそんな大層な話ではないのだ。。そう、それだけの話で。

 シキシマの悔恨は滔々とうとうと続いた。繰り返される低い声に、意識がふらりと眠りの縁を越えかけたところで、ようやくシキシマがラウンジの入り口に足を向ける。

 ふらふらと、普段は決して見せない弱弱しい足取りでラウンジを出ていく司令官の姿をひそやかに見送って、ナギは狭い隙間から這い出した。長時間ぎゅっと縮めて詰めこんでいた体をぐうっと伸ばす。その胸元で鋭利なシルエットの十字架がかすかに揺れ、死者のためにともされた灯りを反射して淡い銀の光を振りまいた。


 ラウンジには棺を模した小さな箱が並んでいる。一番眺めのいい場所に置いてやろう、と誰かが言い出したためここに移されたそれらの中身は、ほとんどが空っぽだった。僅かな遺品と仲間たちからのささやかな贈り物を詰めたこれらは3日後、宇宙へと送り出される。かつて船乗りたちが海で死んだ仲間を海に還したように、星と星の狭間で死んだ者は宇宙へと還されるのだ。


 ナギは小さく、小さくなってしまった養父の前に立つ。「……ドジ」と小さく呟いてから、しゃらりと鎖を鳴らして十字架を見せつけるように持ち上げた。


「お守りってのはね、シルバーだからお守りなんだよ。素材替えるとか、馬鹿じゃないの」


 くつくつと喉を鳴らす。こんな情緒の欠片もない事をする男だから、ギルバートはもう一つの意味もきっと知らない。


(――首飾りを贈るのは、お前を大切に想い、この先もずっと共にあること証でもあるのだよ)


 知っていたら、きっとこんなしょうもない死に方をするはずもない。それが大層小気味が良くて、笑いが零れた。

 

 今日、自分を抱きしめたラニの体温を思い出した。何かあるたびに怖かったね、と抱きしめてくれたかつての家族を思い出した。

 ギルバートは家族を殺され、殺人に手を染めて血溜まりの中にいた自分を、抱きしめもせず、ただ手を引き、毛布と温かいコーヒーをくれて、それから話を聞いてくれた。

 あの日感じた疑問の答えを、唐突に理解する。どうしてこの男についていきたいと思ったのか。怖かったね、も。もう大丈夫だよ、も。この男は言わなかった。それが心地よかったのだ。自分に対して何を決めつけることもなかった、最初のひと。


「ねぇギル」


 いつかこんな日が来ると思っていた。だって自分の方が強いから。ナギの手からスノードロップの白い花が離れ、小さな棺の上に乱雑に散らばる。


「ちゃんと死んでね。生き返ってくるなよアザトゥスになるなよ

 

 この花を、ずっとねつを込めて育ててきた。いつか来るこの日に、雪の雫このひとをあとかたもなく融かし尽くしてしまうようにと。



――———――———――———――———

お読みいただき、ありがとうございます。

これにて3章は完結となります。


このあとおまけを2つ挟んで、4章開幕となります。

4章は木星圏を舞台に、今までとは少し違った展開をお見せする予定です。

彼らの旅は折り返し地点。

今しばらくお付き合いいただければ幸いです。


近況ノートにちょっとしたあとがきのようなものを置いています。

もしよろしければ覗いてみてください。

https://kakuyomu.jp/users/arai-coma/news/16818093080933568630

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