第三章 アステロイドベルト
第1話 傭兵とコドモ
なんだか酷く
薄緑のカーテンに区切られた狭い空間には、沈黙と消毒薬の匂いが満ちている。片肘をついてもそもそと身を起こすと、点滴のチューブがぴんと張った。
ナギはちらりと腕に目をやると、躊躇いなく針を引き抜く。たぱたぱと細い針の先から透明な雫が散った。白すぎるその肌の肘の内側だけが、繰り返しルートを取られたせいで黒ずんでいる。黒ずみの中央にぽつんと浮かんだ
カーテンを少しだけ開けて左右に素早く目を走らせる。誰も居ないとみるや否や、猫のような動きでするりとカーテンから抜け出した。足音を殺して素早く医務室の扉に歩み寄る。扉の脇にあるセンサにバングルをかざすと、控えめな駆動音と共に扉が開いた。再度首だけ出して、左右を確認。人影がないのを確認してととと、と廊下に駆け出した。
裸足の足にリノリウムの床がひやりと冷たい。柔らかに足裏を押し返す床の感触が、火照った身体を冷ましてくれるようで心地よかった。包帯だらけの身体のあちこちが一歩足を踏み出す度にきしきしと悲鳴を上げるが、黙殺して医務区画を駆け抜ける。身を低くして上半身に動きを伝えず、最低限の動作で走るその所作は傭兵時代に身につけたものだ。医療班の詰め所の前を素早く駆け抜け、医療区から出るための最後の扉を開けるためのセンサにバングルをかざした時だった。
ビーッと拒否感の強いアラームが鳴り響く。
「やっべ」
ナギがそう呟くのと同時に、詰め所のほうから「こらーっ!!」とマリーの叫ぶ声が聞こえてきた。アラームは鳴ったものの、扉自体は開いたのでそのまま逃げだす。後方でだん! と足を打ち鳴らす音が聞こえ、思わず振り返ったその視界いっぱいに蜘蛛の巣のようなネットが広がった。
「嘘でしょ」
咄嗟に避けようとしたが叶わず、対人制圧用の特殊ネットがナギの全身を包みこむ。ネットの端につま先を引っ掛け、バランスを崩しながらもうまく受け身を取りながら転がったナギは、流れるような動きで足をまさぐり「あっクソ、ナイフがない」とぼやいた。着せられているのは簡素な病衣なので当たり前である。ナギはしばらく絡まりがひどくならないように慎重な動きでネットの中でもぞもぞ動いていたが、やがて諦めたように肩を落としてむっつりと近づいてくるマリーを見上げた。靴音高く駆け寄ってきたマリーは、バズーカ型のネットランチャーを肩に担いでいる。
「何そのえっぐいの。患者に向けて使うものじゃないでしょ」
「だ・れ・の・せいで配備したと思ってるのかなぁー?」
そう笑顔で答えたマリーの目は全く笑っていない。笑顔を絶やさないタイプの医療班長はネット越しにナギの細腕をむんずと掴むと、バングルのバイタルデータを紅い瞳に突き付けた。
「いたたた」
「39.4度! よくそれだけ動けるわね。呆れるわ」
だがナギは反省する様子もなく、ペロリと舌を出して見せる。
「部屋に帰りたいんだよ。ナイフも
「この
マリーは苦虫をまとめて数匹噛み潰すと、笑顔を消して
「あのね。今何人治療中か分かってる? いつ容態急変してもおかしくない人が何人いるか分かってる? あなたと押し問答してる間に誰か急変して手遅れになったら責任取ってくれるの?」
畳み掛けるように詰られて、ナギの目が丸くなった。医療区からはしょっちゅう脱走しているナギだが(そしてそれはたびたび成功していた)、ここまでマリーが神経を尖らせているのは珍しい。
「はいはい、戻りますよぉ。ボクなんかほっといて寝ればいいのに」
「そういうわけにはいかないわよ」
ぐるぐるとネットを腕に巻き付けて回収しながら、マリーはさも当たり前のように言った。律儀だね、と言い置いてナギは脱走してきた道を戻る。扉を開けてカーテンを引き、ベッドに座り込むと大きなため息をついた。右手を軽く握ったり開いたりしながらその手をじっと見つめていると、ぱたぱたとマリーが部屋に駆け込んでくる。
「痛む? 痛み止め足そうか?」
「そんなに痛くないよ。ちょっと目が冴えちゃっただけ」
そう? と言ってマリーはナギの腕を取った。点滴のルートを取りながら尋ねる。
「寝れてないなら一緒に眠剤落とすけど」
「いらない。部屋に帰れば寝れるんだけどなぁ。点滴まだ要るの?」
「あと少しなんだから我慢しなさい」
「はいはい……」
手早く点滴を打たれ、仰向けに転がされる。薄い上掛けを掛けられながら、ナギはぼんやりと天井を見上げた。もう脱走しないでよね、とぷりぷりしているマリーに軽く手を振ってカーテンから追い出すと、やることがなくなってしまった。仕方なしにカーテンのランナーの数を数える。52個。繰り返し数えて脳に刷り込まれているその数字は、今日も変わらず52だった。
遺伝子欠陥を抱え、生理機能に問題のある体は定期的な投薬治療が必要だった。幼い頃はさほどでもなかったが、特に宇宙空間での戦闘に従事するようなってからその頻度は増している。医務室には第二の家ともいえるレベルで入り浸らざるを得なかったが、正直もううんざりだった。今日だって大した傷でもないのにこうして寝心地の悪いベッドに押し込まれている。包帯を巻いたまま戦場を駆け回っていた頃が懐かしかった。
起点を変えて再びランナーを数える。四隅のそれぞれから数えて一巡したころ、ようやく瞼がとろりと重くなってきた。熱に火照った体は重怠く、首の付け根のあたりからずぶずぶと異世界に沈み込んでいくような感覚を覚える。墜ちていくのに任せて、ナギは静かに意識を手放した。
* * *
「寝てんじゃねぇか」
カーテンを引く音と同時に聞きなれた声が耳をくすぐり、浅い微睡から戻ってきたナギは薄く目を開ける。覗き込んでくる緑の目の持ち主を、ふわふわとした頭で呼んだ。
「……ぎる」
「ったくこの17歳児は。いつまで送り迎えが必要なんだか。
ナギはゆっくりと瞬きをする。細い霜を集めて作ったような、白く透けた睫毛が紅玉の瞳の上を行ったり来たりした。ナギは起き上がろうともせず、ギルバートに向かって両腕を突き出す。その腕から既に点滴の針は抜かれていた。
「あるけなーい」
ギルバートは盛大なため息を吐き出す。反論するのも面倒な様子で黙って後ろを向くと、ベッドの前にしゃがんで背中を差し出した。ナギがもそもそ起き上がってその首にかじりつく。
「おま、あっついな」
「そーなの。
「真夜中に叩き起こされた俺のほうが
ギルバートはそう言ってナギの身体を揺すり上げた。華奢に見えてしっかりと鍛えられたその体は意外と重い。
カーテンを引く音が響き、マリーがひょこりと顔を覗かせた。
「ごめんねー、ギルバートさん。これ薬。朝起きたら食事の前に飲ませてあげて」
「どうも。マリーさん、コイツまだ熱かなりありますけど連れて帰っていいんですかね」
「ここにいて何度も脱走するくらいなら部屋で朝まで寝てくれたほうが治りも早いわよ」
「イヤなんかすんませんねホント……」
おかんむりのマリーにぺこぺこ頭を下げて医療区を出る。少し歩いたところで、微かな歌声が聞こえてきた。ギルバートは鼻に皴を寄せて唸る。
「誰だ、こんな時間に」
「この声、クローンのおちびさんでしょ。今日共同碑に行ってたみたいだからなんか思うところがあるんじゃない」
ほぉ、と気のない返事を一つ返して、ギルバートは緑の誘導灯が淡く照らす廊下を歩いた。真夜中の静謐な空気を、少女の歌声だけが微かに揺らしている。その中を進むギルバートの背中は驚くほどに振動を伝えてこなかった。数々の死線を潜り抜けたかつての傭兵は、足音一つ立てず部屋まで辿り着く。
「ほら降りろ」
「ん」
素直に背中から滑り降りたナギは、病衣をぱたぱたとさせて顔をしかめた。
「べたべたする。シャワー浴びていい?」
「好きにしろ。俺は寝る」
ジャケットを脱ぎ捨て大きな欠伸をしながらそう答えたギルバートのバングルが突然光り、狭い個室にコール音が鳴り響いた。ギルバートはとても嫌そうな顔でバングルを覗き込むと、コール元の識別名を見て諦めたように応答を操作する。
「ごめんねギルバートさん! ナギちゃんのお薬1種類渡し忘れてて……。申し訳ないけど取りに来てもらえないかしら。頓服だから」
「わざわざすいませんねぇ。すぐ伺いますんで」
通信を切り、大きな溜息を漏らすと再びジャケットを羽織り直す。いそいそとバスルームに消えていく背中に「すぐ戻るから寝てろよ」と言い置いて部屋を出た。
* * *
「服を着ろ」
薬を抱えて帰ってきたギルバートが発した第一声はそれだった。ナギはしっとりと濡れそぼった白髪の先から水滴を滴らせたまま、大判のタオルを雑に肩から掛けて戦闘ログを睨んでいる。服はと言えばかろうじてショーツを履いているだけで、タオルの合間から控えめな膨らみが覗いているのが見えた。そんなナリをしていて、白い太腿にはしっかりとナイフホルダーが巻かれているのがまたタチが悪い。
「おかえりー」
「おかえりじゃねぇんだ。お前ね、だいぶ年頃になってきたんだからもう少し慎みというものをだな」
ナギは戦闘ログから目をあげると、じっとギルバートを見上げた。ギルバートが僅かにたじろいだのを見て取って、にんまりとした笑みを唇に刷いてするりと椅子から立ち上がる。
「なぁにギル、劣情でも湧いてきた?」
「バカか、自分の
擦り寄ってきた頭を押さえてぐい、と遠ざけるとナギは軽く目を開いてからくすりと笑った。
「ふぅん、父親ってそういうもんなんだ」
「そうだよ。……だから服を着なさい」
ワントーン下がった声にはぁい、と笑みを含ませた声で答えると、ナギは雑多に積まれた服の山をごそごそと漁り始める。
「まぁね、知ってましたよ。だってギルの個人ストレージにあるえっちな動画は全部金髪巨乳美女だもんなー」
「なんで知ってんだよオメーは!」
「ボクってば天才ですし。セキュリティが甘いんだよーばーか」
慌ててバングルから個人ストレージにアクセスすると、鍵を掛けた上で念入りに隠しておいたはずのフォルダは暴かれ「ボクのおすすめ☆」とタイトルのついた圧縮ファイルが追加されていた。無言でそれをゴミ箱に叩き込み、顔を上げると愛娘がずぼっとサイズの合わない白いTシャツから顔を出したところに目が合う。何がとは言わないが色々と透けていた。ギルバートは色々な感情をとりあえず飲み込むと「お前絶対その格好で外に出るなよ」と言い捨てて二段ベッドの下段に滑り込む。真夜中に叩き起こされて、彼は疲れ果てていた。
「……なんのつもりだ」
その下段にナギが潜り込んできて、ギルバートは低い声で唸った。ナギはふわふわと蕩けるような声でくすくす笑う。
「あんたの可愛い娘はさ、不安な夜を過ごしたばっかでひとりで寝れないんだよね」
「からかってないで自分のベッド行け狭いだろ」
そう言って小突いた腕をがっしりと抱き込まれる。文句を言おうと口を開くが、少女は既にすうすうと規則正しい寝息を立てていた。ギルバートは今夜何度目になるのか、もう数えたくもない溜息を吐く。触れている部分が熱いのは、ナギの体温が高いせいだと無理やり思い込む。無駄なくしなやかな筋肉のついたナギの体だが、鍛えようのない部分がふんわりと柔らかった。先ほどナギに言った台詞を、ギルバートは繰り返し己の頭の底に叩き込む。
金髪巨乳美女は別にそんなに好みではなかった。ただ、たくさん集めてたくさん浴びて、それで自分の嗜好が変わってくれればいいなと思っていただけで。さらに念入りに隠していたもうひとつのフォルダが暴かれていなくて本当に良かったと思う。この秘密は墓まで持っていくと決めていた。
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