断章 母の日記
※このエピソードには妊娠・出産に関する冒涜的な内容が含まれます。こちらを読まなくてもメインのストーリー理解に影響はありませんので、このような要素が苦手な方は飛ばしてお読みください。
4月12日
日記をつける事にした。
もし私と同じ目にあっている人がいたら、その人の助けになるように記録をつける。
あの化け物に犯されてから1週間、私のお腹は膨らみ続けている。今日ついに中から蹴る感触がした。中に何かがいる。早く堕ろさないと。
テオの子供では絶対にない。こんなペースで大きくなるわけないんだから。
テオ。何で死んでしまったの。私の事守るって言ったくせに。
4月13日
今日は半日水風呂に浸かっていた。
家のあたりは壊されていなくて本当によかった。まだ水も出るし1日3時間だけど電気も通ってる。めいっぱい氷を作って運んだ。
効果はなさそう。冷たすぎて体の感覚がない。中から蹴られる感触もわからないのだけが救い。
4月14日
熱がでた
つらい
4月15日
少し熱は下がってきた。あれだけ体を冷やせば風邪ひくのも当然か。
お腹の中でしきりに何かが動いている。頭がおかしくなりそう。
何で私だけが苦しんで、お前は生きているんだ。
4月16日
まずい。どんどん大きくなってる。
お腹を床やドアに叩き付けたり、殴ったりしてみたけど痣だらけになっただけだった。痛い。怖い。こんなこととても続けられない。
もう食べるのをやめよう。
4月17日
怖い。怖い。怖い。怖い。
私はどうなってしまうの
おなかすいた
4月18日
産まれた
ちいさい
人間だ
4月19日
人間じゃない
4月20日
頭がおかしくなりそう
昨日床に叩きつけて、首が変なほうを向いて、動かなくなったはずだ
何で生きてるの
4月21日
起きたら乳に吸い付いていた。冗談じゃない
4月22日
腕から奴らと同じモノが出てきた。喉を切ったら血がたくさん出て動かなくなった。
このまま死んで
4月23日
風呂に沈めておいた
4月24日
風呂の水が肉塊に変わっている。アイツはそれを啜ってる。
化け物め。どうしたらいいの。
4月25日
なんだかあそこが無性にかゆい。
お風呂に入りたいけど、あの肉塊をどうしたらいいのかわからない
4月26日
アイツ全部食べたの?
大きくなってる。
5月3日(繰り返し日付が消されて上書きされた痕跡がある)
立った。
何をしても死なない。記録を残していないことを許してほしい。
人間の赤ん坊の形をしたものをどう殺したかを毎日書くなんてばかげてる。書いているだけで気が狂いそうだ。
もしかしたら私はとっくに狂っていて、何かを間違えているの?
5月5日
床を溶かして肉に変えて食べてる。おかしいのはこいつだ。私じゃない。
絵本に出てきた怪物みたいだと思って、ハイドラと呼んだらこっちを見た。
私あの絵本が本当に怖くてきらいだった。お前にぴったりの名前ね。
5月8日
軍の人たちの持っている武器なら殺せるのかもしれない。
そう思って街を歩いてみたけど、いいものは見つからなかった。
5月10日
お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。
5月18日
すっかり記録をさぼってしまった。
ずっとほったらかしているのにあれはまだ生きてる。
何もやる気が起きなくて、テレビを眺めて過ごしてる。
敵の本拠地が壊されたってニュースを聞いてテオと飛び上がって喜んだのがすごい昔の話に思える。まだ3ヵ月も経ってないなんてどうかしてる。
ニュースによれば火星に来てた奴らの掃討もほぼ終わったらしい。
最近警報も聞かなくなったし、終わったの?
ハイドラは興味があるみたいで離れたところからテレビをじっと見てる。
5月23日
私の事お母さんって呼んだ
お母さんって何 何なの わたしじゃない わたしじゃない
5月28日
おなかすいた
5月31日
何もする気が起きない
なんだか体がぬるぬるする
化け物が毎日オートミールを食べさせてくれる
6月2日
テオ
どこにいったの
6月5日
やめて
やさしくしないで
6月12日
さよなら はいどら
のろわれたわたしのやさしいばけもの
わたしがわたしであるうちに
————————
ハイドラはじっと血溜まりに沈む母の姿を見つめた。固く瞑った両目の下では、唇が笑顔のようにも泣いているようにも見える形で歪んでいる。
母がよく何かを書き込んでいたノートを拾い上げる。中の文字は半分くらいしか読めなかったが、母が悲しみと絶望に沈んでいったことだけはなんとなく理解ができた。
ハイドラはノートを拾い上げると、台所にあった布を身体に巻き付けた。人間は裸で外を歩かない、はずだ。扉を開けると、ゆっくりと歩み出る。外に出るのは初めてのことだった。街はあちこちが崩れていて、人の気配は感じられない。
ノートを抱きしめて、半分廃墟と化した街を歩く。時折ぽつぽつと灯りの灯っている民家があったが、それは彼が探しているものではなかった。
どれくらい歩いていただろうか。橙色の空は次第に紫になり、フォボスの薄明かりが地面を照らし始めた頃。
「……お前っ、大丈夫か! どこから来た」
ようやく、彼は出会った。
重々しい武器を携えた防衛軍の兵士は、泣きそうな顔でハイドラに駆け寄った。猫のような、金色の目で彼は兵士の顔を真っ直ぐに見上げる。
「へいたいさん。ぼくを、ころしてください」
冷え切った小さな手を取った彼に、ハイドラはおやつをせがむような調子で言った。
「は?」
2歳程度の見た目の幼子から発せられたその申し出は彼の理解を越えていて、兵士は目を見開いて固まった。
ハイドラは目を閉じると孔を開いた。音もなく孔からぬるりと顔を出した鮮やかな肉色の触手に、兵士が弾かれたように小さな手を放して後退る。
「ぼくは、ばけものなので。ころしてください」
再度、幼子は死をせがんだ。兵士の顔は恐怖か怒りか、とにかく感情をふんだんに含んでいびつに歪んでいる。
長い沈黙の果てに、兵士は絞り出すように言った。
「……嫌だ。お前はそのうち人を殺すんだろう。でも俺はもう……、これ以上、自我が残っている奴を殺したくない……」
幼子は眉を下げる。歯磨きが終わったから、もうお菓子はだめ。と言われたような、そんな表情だった。
兵士は優しい声で言った。
「そいつをしまってくれ。出来るんだろ」
ハイドラは素直に応じた。孔の閉じた腕の先の小さな指の先を、グローブに包まれた分厚い指がつまむ。
「お前は生きて、そして地獄を見るといい」
そう言った兵士の顔は、恐怖と、怒りと、憐憫と、嫌気と、悲しみをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた表情を浮かべていた。
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