炎陽

彼岸

第1話

 どこまでも続く緑色の海を割くように走る車の中で、時枝了真ときえだりょうまは最後に祖母を訪ねた小学生の頃を思い出そうとしていた。

 十二、いや、十三年前だっただろうか。了真が中学に上がる年までは、毎年夏休みをこの田んぼと山くらいしかない祖母の家で過ごすのが恒例だった。

 当時からあまり明るいとは言えない子供だった了真にとって、田舎での思い出は記憶に薄い。都会から田舎へ遊びに行く子供にありがちな、地元の子供と仲良くなることも野山を駆け回ることもなかったからなのだと思う。


 そもそもなぜ了真が二十五になって今更この田舎を訪ねているのかと云うと、毎年夏休みに小学生の了真を受け入れてくれていた、その祖母が亡くなったからだ。

 享年七十八歳。三月にくも膜下出血で倒れてから、半年も持たなかった。

 母が高校生の頃に祖父と死別し、了真が遊びに来る頃にはすでに一人で暮らしていた祖母は、元々この田舎で生まれた人ではなかったらしく、一人娘である母以外の身寄りもいない。

 そのため、通夜振舞いの席で真っ先に話題になったのは「誰があの家の片づけをするか」だった。そして、母方の家系で「存命である唯一の男手」こと了真に白羽の矢が立つのも至極当然の流れだった。

 そうして祖母の葬儀から二日後、了真はひとりこの田舎道にレンタカーを走らせている。


 八月も二週目に入り、カンカン照りの日が続いているというのに、木々や田んぼの緑は青々と光り、うっとおしいほどの生命力を暑さで草臥れた了真に見せつけている。

 似たような景色ばかり途切れもなく続く道は十三年前から全く変わらないからか、当初、田舎のことなんて何も覚えていないと思っていた了真も、少しずつ小学生のあの頃の記憶を思い出していた。

 背後に山を抱えて建つ祖母の家が、大きな口を開けて構えるお化けのようで少し怖かったこと。遮るものがない大きな空は、成長の遅かった了真の頭を圧し潰してくるようで、だから足元の景色ばかり見ていたこと。家から離れているにもかかわらず、夜になると沢のごうごうという生き物めいた音が聞こえて不安になったこと。そんな時は決まって、隣の部屋まで泣きつきに行っては優しい大きな手でなだめられ、眠りについていたこと。

 ———優しい大きな手?

 父の手だろうか?いや、祖母の家に行く時、父は送迎にだってついてきたことが無かったはずだ。まして、了真と一緒に一晩泊まるなんてことはあり得ない。

今回の祖母の家の片づけに父を誘った時だって、父は考えるまでもないという様子で「行かない」と言った。

 「ぼくはね、初めてあの家に挨拶に行った時から、もう二度とここには来ないって決めたんだ」

 そう言う父は思い出したくもないという目をしていた。

 祖母は優しい人だったが、妙なところでルールに厳しい人だった。食事の時に肘をついても、近所の大人に人見知りして挨拶ができなくても笑って許してくれるのに、畳の縁を踏んではいけない、夜中に口笛を吹いてはいけないといった古風な行儀作法には厳格で、少しでも破ると子供の了真にも人が変わったように声を荒げて叱った。

 父が挨拶に行ったというその時にも、何か祖母のルールを乱すことをして酷く叱られたんだろう。

 ともかく、そこまで言う父の存在が、あの家での記憶の中に出てくるのは考えられない。

 じゃあ、あの手は?幼い自分は誰を頼ったのだろうか。


 もやもやとした胸中で運転をしていたからか、道に迷ってしまったようだ。

 途中で左折するポイントを通り過ぎてしまったようだが、どこまで戻ればよいのかわからない。右手の山が衛星からの電波を遮ってしまっているのか、カーナビの現在地マークは一時間も前に立ち寄った道の駅で止まっている。

 一縷の望みをかけてグーグルマップで現在地を確認しようとしたが、こちらも同様に道の駅周辺を現在地マークがぐるぐると円を描き続けている。目印になりそうな建物のポイントまで戻って仕切りなおすにしてもこれでは難しい。

 困り果て、わけもなく車外に出て右手の山を見上げた。山肌を埋め尽くす有象無象の木々は、日光を奪い合い上へ上へと枝を伸ばしている。その姿が浅ましく思えてしまうのは、この状況を作り出している原因がこの山のせいだという少しの憎らしさもあるのだろうか。

 一呼吸ついて、何か手立てを考えようと再び車内に戻ろうとしたところ、

 「大丈夫ですかー?」

 左手側の田んぼを一つ挟んだ向こうの道、路肩に止めたトラクターの窓から半身を乗り出し、大きく手を振って同世代くらいの青年が呼び掛けてきた。

 「ちょっと道に迷ってしまって…」

 「えー?すいませーん、聞こえないのでそっち行きますねー」

 そう言って青年が駆け寄ってくる。首にタオルを巻き、泥で汚れた作業着を着ているが、健康的に焼けた肌と、上背がある割に幼く人懐っこそうな顔立ちのおかげか爽やかな印象だった。

 「どこ行きたいん?」

 了真が同世代とわかったからか、被っていたキャップを外しながら先程より砕けた口調で問いかける。

 「あ、え…っと、鬼捨おにすてにある小川紗栄子おがわさえこさんの家に行きたいんですけど…」

 「…もしかして、リョウマくん?」

 了真の手元のグーグルマップを覗き込みかけた青年が、その姿勢のままおずおずと了真の目を覗き込むので、了真は反射的に目を逸らした。

 「覚えてる?俺、坂下さかした辻堂貴一つじどうきいちやけど。昔、リョウマくんが小川のおばあちゃんちに来た時、一緒に遊んだりしたの。」

 ———記憶にない顔だった。

 先程やっと田舎での記憶を思い出し始めたところだからだろうか。それにしても、当時友達のいなかった了真に仲良く遊んだ相手がいたのなら、真っ先に思い出すはずなのに。

 「ごめん…」

 申し訳なさから消え入りそうな声でつぶやく。

 「いやいやいや、もう十年以上前やし覚えてないよな!こっちこそゴメンな!」

 動作が大きいのは癖なのだろう。貴一は殊更明るい声でわざとらしくブンブンと手を振った。

 「それに、一緒に遊んだのはリョウマくんがこっち来始めた最初の方だけやったし!ほかにもっと仲良い子、出来たんやろ?」

 「え?」

 「リョウマくん、言っとったもんな、名前は忘れちゃったんやけど。その子と遊ぶんやって、すごく嬉しそうな顔して。やから、俺よりその子の方がいいんやってちょっと悔しかったんやもん、俺。」

 それ以降は遊びに誘っても全敗、振られちゃったんやな。それにしても不思議やな、この辺は子供少ないから地域の子供はみんな友達同士なんやけど、リョウマくんと仲良くなったって言っとる子おったかな?まあいいや、小川のおばあちゃんち行きたいんよな、俺のトラクターで先導するから———

 人見知りが激しくて、内向的で、外遊びが嫌いな当時の了真に、積極的に声をかけてくれる貴一のような子供以外に仲の良い友達が出来た?

 貴一が話した思い出は、とても信じられるものではなかった。

 だからと云って、この人のよさそうな青年が、久しぶりに会う———先ほどまで、存在を忘れていたような———幼い頃の友人に嘘を吐くとは思えなかった。

 ここに来てから胸にわだかまっていた靄が、その体積を増していく。喉のそばまでみっしりと膨れ上がったそれを無理矢理に飲み込んで、前を行くトラクターに続き、田舎道を進んでいく。


 道に迷ったと気づいた地点から二十分ほど来た道を引き返したところで、左折するはずだった辻が見えてきた。道の間の三角形の狭い地形に、お地蔵様のような石の像が立っている。お堂や祠のようなものはなく、石の像はむき出しの地面にポツンと置かれているため、風雨にさらされた表面がずいぶん削れて細かい造形は失われてしまっている。

 「ここなー!この置物、、が目印やから!次来るときは迷わんようにな!」

 前のトラクターから貴一が声をかける。

 そこからしばらく道なりに進み、山を目前としたところで祖母の家の前に到着した。

 「リョウマくん何でここに来たん?来るの久しぶりやよね?」

 車から降り、貴一にお礼を言うためトラクターに駆け寄ったところで、貴一がそういえばと前置きして尋ねた。

 「小川のおばあちゃん、三月あたりから入院しとるけど、もしかして荷物取りに来たん?」

 「おばあちゃん、先日亡くなっちゃって…。この家、片付けに来たんだ。」

 「ご愁傷さまです」と、先程とは打って変わって沈痛な面持ちで貴一は頭を下げた。

 「俺も小さい頃からお世話になってたのに、気づかなかったなんて薄情やよな、ごめん…」

 「葬儀は東京で上げたからしょうがないよ。むしろ、こちらこそここの人にお世話になってたのにご連絡もしないで…」

 祖母の葬儀は母と祖母の知人数名が中心の簡素なものだった。父方の参列者は父ひとりで、その他の親類は不参加。祖母の住んでいた地域の人には連絡すらしていないようで、式の最中から了真は、まるで祖母の死を隠しているようなその様子を訝しく思っていた。

 「そっか…おばあちゃん亡うなったんや…リョウマくん一人で片づけるん?大変やろ」

 手伝おうか?と眉尻を下げ気遣わしげに貴一が申し出てくれたが、農作業の途中であっただろう貴一に、これ以上面倒をかけるのは申し訳ない。それに、昔よりはマシになったとはいえ、人見知り癖のある了真にとって、これからさらに何時間もよく知らない相手と一緒に居るのは辛かった。

 「大丈夫。ありがとね、いろいろ気遣ってくれて。」

 「全然!今日泊まりで作業なん?明日の朝またここ通るから、なんかあったらいつでも言ってや」

 別れ際まで了真の様子を気遣う貴一を、門前で見送る。トラクターがバックで元の道へ引き返していくのを見て、「明日の朝ここを通る、、」と云うのも了真に気負わせない気遣いなのだとふと気づいた。

 本当に良い人なんだな、何でこんな良い人と遊んだこと、忘れてたんだろう。

 何度記憶を掘り起こそうとしても、やはり貴一との思い出は了真の記憶になかった。


 朝の七時から車を走らせて六時間、やっと到着した祖母の家に向き直る。

 平屋建ての古めかしい家は、午後一時の暴力的なまでに明るい陽光を浴びても尚黒い。

 行きがけに母から渡された鍵をジーンズのポケットから取り出し、スチール製の引き戸の鍵穴に差し回した。

 カラカラと乾いた音を立てて戸が開き、中からひんやりとした三月のままの空気が足元に降りてくる。取るものもとりあえずで家を出てきたと聞いていたから、冷蔵庫の食品や食べかけの朝食が腐っていることを覚悟していたが、思いのほか屋内は無臭だった。

 恐る恐る玄関に入り、引き戸を閉め、

 「…ただいま」

 誰にともなくつぶやく。


 「おかえり、りょうくん」


 絹糸のような柔らかく低い声。

 沢の音が怖いと訴えた夜、「だいじょうぶ」となだめてくれた声。あの、優しくて大きな手は———

 了真はもう、全て思い出していた。


 「ただいま、ミズハ」


 振り返った先、真っ黒な家の中、燐光のように仄青く、肩先まで伸びた長い白髪が光っている。

 ミズハはあの頃と寸分変わらない姿で、了真に微笑んだ。

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