擦り切れたこころ

高坂あおい

擦り切れたこころ

「もういい加減にしてよ!」


 耳に刺さるような甲高い声に頭が痛くなる。

 でも、俺には顔をしかめるほどの体力はもう残っていない。

 仕事が終わり、家に着いたと思えばすぐこれだ。

 外はすっかり寒くなり、ストーブが全力動いているはずの部屋に暖かさを感じない。


「だからごめんって。今日は重要な会議があって、書類の整理をしてたんだよ」

 

 なんでわかってくれないんだ。

 そう言うことができたなら、どれだけ楽になれただろうか。


「でも私言ったよね!? 『洗濯物入れておいて』って!」

「あぁ……」

「それにコップだって置きっぱなし。帰ってきてからあなたの後始末をしなきゃいけない私の身にもなってよ……」


 消えかけのロウソクの炎のようなか弱い声。

 家の中は電気がちゃんとついていて、明るいはずなのに、今この瞬間、この場所だけ切り抜かれたように暗闇になってる気がした。

 

 いつからこうなってしまったのか。

 去年の終わりに俺が部長に昇進した時は優しくも明るい声で祝ってくれた。

 それ以来、俺は妻である紗枝の笑顔や笑い声を見たり聞いた記憶がない。

 日々部下の後始末に追われ、何か問題があれば取引先に頭を下げに行き、部下のモチベーションを保つために定期的に飲み会に誘わなければならない。

 もちろん、俺の奢りなので、金はそれなりにかかる。

 怒られるのは俺だから、精神的に疲れる。

 そんな状態でまともに紗枝の相手をできる訳もなく、自然とコミュニケーションは減る。

 こんなことなら、昇進しない方がよかった。


「ごめん。次からはちゃんとするから」

「その言葉だってもう聞き飽きたよ!」


 紗枝の手が机に叩きつけられた。

 決して気持ちのいいものでは無い破裂音のようなものが冷えきった俺の心に響いて、すぐに消えていく。

 中央に比べて手元が少しへこんでいるダイニングテーブルを挟んで向かいにいる妻の顔は、今にも壊れてしまいそうなほど歪んでいた。

 それを見た瞬間、次言おうとしていた言葉が丸ごと吹き飛んでしまうほど、突如として湧き出てきた不安感に襲われた。

 

「もういいよ。私は明日も仕事だし、もう寝る」

「うん……おやすみ」

「……」


 妻からの「おやすみ」はなく、バタリと閉められる寝室の扉。

 その日は何をする気にもなれず、風呂に入って自分の部屋に敷いてあった布団に潜った。


 次の日は、久しぶりに目覚ましが鳴る前に起きた。

 二度寝する気にもなれずに、布団から出た時特有の寒さに体を震わせながら洗面所へと向かう。

 冷水から温水に変わるのを待ってから顔を洗い、歯を磨く。

 普段よりも少しだけ時間が早いだけなのに、今この瞬間だけ異常なまでに紗枝のことが心配になった。

 何が心配なのか、なぜこのタイミングなのかは俺にも分からないが、ただ本当に気まぐれかもしれない自分の感性に従って、寝室の扉を開けた。


「…………」


 扉の先にはいつものしかめっ面ではない、力の抜けた顔で幸せそうに眠る紗枝の姿。

 それを見て安心するのと同時に、とてつもない罪悪感に飲み込まれそうになって、音を少しでも立てないよう、ゆっくりと扉を閉めた。


「ん……おはよう……」

「……おはよう」


 それからしばらくして俺がコーヒー片手にくつろいでいると、放射状に髪を跳ねさせた紗枝がおぼつかない足取りで寝室から出てきた。

 昨日の夜に俺が「おやすみ」と言った時は反応してくれなかったのに。

 なんて少しでも考えてしまった自分の心の狭さに嫌気がさした。


 その日の紗枝はまるで人格が変わってしまったかのようで、もう最近は作ってくれなかった朝食を作ってくれたり、何よりも口数が多い。

 ただ、時折見せる、軽く口にすることができないほど重大なものを隠そうとしているような紗枝の引き攣り笑顔が、皿にこびりついた油汚れのごとく頭から離れなかった。



「行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」


 まただ。

 彼女の笑顔を見ると、息が詰まるような心苦しさや気持ち悪さに襲われる。

 それは、心の中で拡大し続けるそれに気分が悪くなった俺は、足早に家から出ていったのだった。


 この日の仕事はいつもよりもかなり早く終わり、俺は家路につく。


 うちの会社はかつて社員が何人か命を絶っているほどのブラック企業で、それが発覚した時は代表取締役であった社長を含む全取締役員が辞任するなど、かなり世間でも話題になった。

 しかし、今となってはその日に定められたノルマを達成すれば帰宅して良いというルールが定められ、脱ブラックの最先端を走っている企業だ。


 少し黒色が剥げてしまっている腕時計を確認してみると、まだ短針が三を指し示す前。

 いつも会社を出るのが七時や八時であることを考えると、歴史的快挙というような言葉が結構似合うのではないだろうか。


 何故こんなにも早い時間に終わったのか尋ねられれば、俺は真っ先に今朝の紗枝の顔を頭に思い浮かべる。

 あの形容しがたい気持ち悪さを含んだ顔だ。

 前日あれだけキレておいて、次の日には例の不自然な取り繕われた笑顔。

 恐らくだが、紗枝もこの嫌な空気を断ち切りたかったのだろう。

 

「ケーキでも買って帰ろうかな」


 あいつは確か果物がたくさん入った甘いやつが好きだったはず。

 それをお土産に今日こそは紗枝と向き合ってみよう。

 世には「背中合わせ」という言葉があるが、俺たちは互いに背中を向けているだけで合わせていなかったし、顔なんて見ようともしていなかった。

 だから、今日こそは……。


 ケーキの箱が入った袋を右手に握りしめて、これから見れるであろう紗枝の笑顔に高鳴る心臓を抑えながらついに家までたどり着いた。

 まだ紗枝が帰ってくるまで時間はあるはずだから、それまでに何を話すかを考えておかなければ。

 なんてことを思いつつ、仕事のカバンを地面に置いて鍵を取りだし、家へと入る。


 瞬間、俺はとてつもない違和感と気持ち悪さに襲われた。

 それは今朝の紗枝の顔を見た時よりも遥かに強烈に俺の全身へと広がっていった。

 原因が分からず、混乱するままに靴を脱ぎ捨てた俺は、音を立てながらリビングへと向かう。

 角を曲がり、リビングが見えたその時、俺はこの気持ち悪さの全てを理解するのと同時に、その光景が示す意味を理解するのを拒んでいた。

 震える右手からビニール袋が落ちて、不愉快な音をたてる。

 それでも俺はその光景から目を離すことが出来ず、俺の全身は氷漬けにされたかのように動かなった。

 もし俺が少しでも動けば、それを理解しなければならなくなるから。

 だから、俺はリビングでうつ伏せに倒れている紗枝を眺めることしか出来ずに、顔の見えない妻が闇に溶け込んでいくのをただ立ち尽くして見ていることしか出来なかった。


 しばらくしてから、俺に意識というものが戻ってきて、強制的に時が動き始めた。

 そして、事の重大さをやっとで理解する。

 あまりの衝撃に声を発することが出来なかった俺は、近所の大きな病院まで走った。

 何度も足が絡まって転びそうになったが、その度に体勢を立て直して、それでも止まることなく走り続けた。

 しかし、そこでもやはり唇を震わせることしか出来ず、ぐちゃぐちゃに散らかった字で書き記すと、やっとで救急車が動いた。

 診断はくも膜下出血(破裂脳動脈瘤)。

 俺が発見した頃にはすでに、妻は旅立った後だったらしい。

 あまりにも急すぎる死だったので、慰めの電話が親や友人、職場の人たちから届いたが、俺はまともに言葉を返すことが出来ず、ひたすら虚無感の奴隷として過ごす毎日を送った。

 職場には気分が悪いと言って休み始めて一週間後に退職届けを出した。


 朝コーヒを入れる時、二杯分のお湯を沸かしてしまう。

 昼飯を食べる時、弁当がないことに気づく。

 夜は勝手に湧いていたはずの湯船はなく、用意されているはずの夕飯がないことに苛立ちを感じる。

 いつもはテーブル越しに見えていた妻のしかめっ面がなく、あまりの見晴らしの良さに寂しさを覚えた。

 ポストに届くハガキや封筒に書かれた「高田紗枝」の名前を見る度にセンチメンタルな気持ちになった。

 溜まっていくだけの食器に嫌気がさした。

 もう捨てようと取り出した妻の服の匂いに懐かしくなった。

 懐かしいものに囲まれることで幸せを見出した。

 常に妻の楽しげな姿が見えるようになった。


「ねぇ。今日こそはあそこに行かない?」

「そうだな。俺も前々から行きたいと思ってたんだ」

「ねぇ、早く!」

「ちょっと待っててな。すぐに準備するからな」

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