ガンスリンガー・ビジネス

佐井乙貴

第一話『鉱山は眠らない』 EPISODE ONE: “The Mine Never Sleeps” (1)

 逃げる。

 少女は、ただひたすらに、逃げる。

 夜の闇に侵された荒野を。

「助けて……」

 時にふらつき、時につんのめりながらも、けっして止まらない。

 もし、足を止めでもしようものなら――

 あの足音が聞こえてくるようだ。

 あのうめき声が耳から離れない。

「助けて…… 誰か……」

 少女は、逃げ続ける。




 時は、1875年。

 ところは、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部。メキシコとの国境付近。

 見渡す限りの荒野と、雄大なる半島山脈ペニンシュラ・レンジの、その狭間はざまに、ある小さな田舎町があった。

 町の名は、“ロス・ロボス”。

 スペイン語で「狼たち」。

 そんな物騒な名前ではあるものの、はた目にはこれといって見るべきものもない、のどかな町である。

 食料品店、雑貨屋、宿屋、葬儀屋、教会、保安官事務所、それと酒場サルーン

 あとは町の外に、民家と畑、牧場がいくつか。

 国境近くの土地特有の、移民の子孫や旧メキシコ領の住民など、ヒスパニック系が多いところもありふれている。


 しかし――


 ロス・ロボスには、他の町にはない、ある特徴があった。

 それを詳しく知るためには、町に一軒しかない酒場、“タルデ・デ・ロス・ロボス”の中をのぞくのが手っ取り早い。

 町で最も大きな建物のひとつに数えられる、二階建ての酒場。

「狼たちの午後」の意を看板に掲げるこの店は、今日も大勢の男たちで盛況を呈していた。

 聞こえてくるのは、酔漢すいかんの笑い声と、ジョッキやグラスがぶつかり合う音。

 丸テーブルを囲んでポーカーに興じる連中もいれば、豆のペーストフリホレス・レフリトスを挟んだトルティーヤをがっつく者もいる。

 それらをいろどるのは、年老いたオルガン弾きがかなでる、陽気な音色だ。

 自由、欲望、享楽きょうらく

 広い酒場に満ちているのは、多分にして、そういったものであった。


 そして、蝶番ちょうつがいのきしむ音と共に、スイングドアが開いた。


 タルデ・デ・ロス・ロボスに、男がまた一人。

 噛みタバコでくちゃくちゃと口を動かし、いかにも荒くれ者という強面こわもての、大柄な男。

 男は、店に入るなり、

「へっ、しけた店だぜ」

 そう言い捨てた。

 店の中へと歩みを進めつつ、一分の隙も与えてなるものか、とばかりに、眼光鋭く周囲を睥睨へいげいしている。

 数人の客が、胡乱うろんげな目つきで、彼を見やった、その時――

「ちょいと、そこの。帽子」

 女の声だった。

 声の主は、カウンターの向こう側にいた。

 大きく胸の開いたドレスを着た、メキシコ人女性。

 あまり背の高くない、四十路よそじおぼしき年増女ではあるが、熟成された凄艶せいえんな美貌の持ち主だ。

 男は、たっぷりと時間をかけて、彼女のほうを向き、

「あん? 俺に言ったのか? 店員さんよ」

「店員じゃない。主人だよ。アンタ、店の中では帽子を取りな」

 それを聞くと、男はへらへらと笑いつつ、カウンターに寄りかかった。

「取る取らねえは俺の自由だ。メキシコ女の指図は受けねえよ」

 そう言い放ち、ペッと不快な音を立てて、茶色い唾を吐いた。

 唾は痰壺スピトゥーンを外れ、床を汚した。あるいは、最初から入れるつもりはなかったか。

 女主人の眉根が、明らかな怒りをもって、きつく寄せられる。


 すると――


「待て待て。待ちたまえ、エスメラルダ」

 横合いから、身なりのいい中年男が、女主人を制した。

 上等な仕立ての背広服と、蝶ネクタイ。それと、綺麗に整えられた口髭くちひげ

 西部の酒場には似つかわしくない、洗練されたたたずまい・・・・・と言っていい。

 彼は、男に向かって、こう名乗った。

「私はウィンストン・サムナー。この店の常連だ。以後、お見知りおきを」

 アクセントや発音から、英国人とわかる。妙に気取った、気障きざな物腰も含めて。

 ウィンストンと名乗る、この中年男は、口髭の端を指で撫でつけながら、男に尋ねた。

「ところで、君。この酒場は初めてかね?」

「そうだが、クソッタレの英国野郎ライミーがなんの用だ」

「忠告だよ」

 男の無礼な言葉にも、あくまで紳士然とした態度を崩さないウィンストン。

 彼は、大袈裟な身振り手振りで、こう続けた。

「彼女の店には、いくつかの厳然たるルールが存在する。そのうちのひとつが『店の中では帽子を取る』というものだ。よく憶えておくといい」

 たしかに店にいる客は、ウィンストンも含め、誰一人として帽子をかぶっていない。

 しかし、男は、またひとつ床に唾を吐き、彼の言葉を笑い飛ばした。

「へっ、よけいなお世話だぜ。帽子を取らなかったら、どうなるってんだよ」

 瞬間、ガチャリという音が、カウンターの中で鳴った。

「こうなるのさ。クソ野郎イホ・デ・プータ

 見れば、女主人エスメラルダが、水平二連の散弾銃を構えているではないか。

「今すぐ店をおん出て、二度と来ないか。アタシにぶち抜かれるか。ふたつにひとつだ」

 散弾銃を構える姿は堂にっており、脅し文句にもなかなかの凄みが感じられる。

 今は男も笑いを引っ込め、微動だにせず、彼女をにらみつけていた。

 男の手が静かに、ゆっくりと下ろされ、

「三つめもあるぜ。ババア」

 そう言うが早いか、腰の拳銃を抜いた―― かと思いきや、いくつもの撃鉄を起こす音が、店中に響き渡った。

 男が振り向くと、店内にいるすべての客が、一斉に拳銃を抜き、彼に向けているではないか。

 隣のウィンストンも同様だった。いつの間にか、銃口が彼の鼻面を狙っている。

「あ…… なっ……」

 数え切れぬ銃口ににらまれ、男は言葉を失ってしまった。

 店のどこかで、

「これが四つめってワケだ。チンポ野郎ディック

 と誰かが言い、続いて笑い声があちこちから上がる。

 下品な言葉に、ウィンストンはしかめ面で首を横に振りつつ、

「賞金首以外に無駄な弾は使いたくないが、彼女に害をなすのならば、その限りではない」

「賞金首……?」

 男は、己を狙う銃口の向こうにあるウィンストンの顔を、ジッと見つめた。

 そうだ。思い出した。

 気障で、気取り屋な、英国人賞金稼ぎの噂。

 サクラメントでも聞いた。

 サンディエゴでも聞いた。

 たしか、名前は――

「あ、あんた、“英国人イングリッシュ”ウィニーか……」

「ほう。私も有名になったものだ」

 ここで初めて男は、店内にいる客たちの顔を注視した。

 今まで見てはいても、ただの有象無象うぞうむぞうとしか思っていなかった、客たちの顔を。

 すると、どうだ。

 誰も彼もが、見たことのある面構え、聞いたことのある風貌に見えてくる。

 例えば、薄い頭髪を無理やりな一九分けにしている、神経質そうな男。

「そっちにいるのは“掃除屋クリーナー”ウルフギャング……――」

 例えば、ポーカーに興じていた、片目の男、頬傷の男、髭面ひげづらの男の三人組。

「そっちはクローニン三兄弟……――」

 ウルフギャングと呼ばれた男は、指先でテーブルを細かく叩き、

「訂正を要求する。ウルフギャングじゃない、ヴォルフガングだ。ヴォルフガング。ヴォルフガングとドイツ語発音で呼んでくれ」

 と、ドイツなまりの早口でまくし立てた。

 ウィンストンは、「静粛に」とばかりにウルフギャングへ人差し指を立てたのち、男のほうへ向き直った。

「さて、どうするね?」

 聞くまでもない。男はすっかり震え上がっている。

 この酒場にいる客は、いずれも名うての賞金稼ぎ、という事実に。

 男は、あわてて帽子を取り、

「す、すまねえ、ミスター・サムナー。そちらのマダムも。い、今すぐ出ていくよ」

 足をもつれさせながら、スイングドアに身体をぶつけ、まさにほうほうの体で店から逃げていった。


 そう。これが、ロス・ロボスの有する、他の町にはない特徴。


 いつの頃からなのか、なぜそうなったのかはさだかではないが、多数の賞金稼ぎがこの町を拠点にしており、その割合も住民とほぼ同数という、“賞金稼ぎの町”なのだ。

 あらゆる店を賞金稼ぎたちが利用し、また繁盛もしているため、町の経済は彼らによって回っていると言ってもよいほどであった。

 おまけに、悪漢あっかん無頼漢ぶらいかんの類、特に指名手配のおたずね者などは、賞金稼ぎたちを恐れて、けっしてこの町には近づこうとしない。

 そのため、ロス・ロボスの治安は、まったく完璧なものだった。


 さて、規律と秩序を取り戻したタルデ・デ・ロス・ロボスでは、エスメラルダが散弾銃をしまいつつ、

「よけいなことすんじゃないよ、アンタら。あんなチンピラ、アタシだけで充分だ」

 などと、威勢よく息巻いていた。

 まさしく“女傑”という言葉の似合う女主人だ。

 ただし、賞金稼ぎたちは皆、ニコニコと笑い、彼女を優しい目で眺めている。

 “英国人”ウィニーなどは、胸に手を当て、頭を下げていた。

「レディを危険な目に遭わせてはいけない、と思ってね。つい、差し出がましい真似をしてしまった。許してくれ、ママ・エスメラルダ」

 彼の言葉に、フンと鼻を鳴らすエスメラルダであったが、その口元には、まんざらでもない、という笑みがこぼれていた。


 ふと、気づけば、なにやら外が騒がしい。

 先ほどの男が、表で騒ぎでも起こしているのか。

 新たに店へ入ってきた客も、後ろを振り返りつつ、スイングドアを押し開けていた。

 エスメラルダは、その客を捕まえ、

「外でなにかあったのかい?」

「ああ、中国人のガキが、ふらふら歩いてたかと思ったら、倒れちまったんだよ。えらくボロボロの身なりだったし、ありゃどっかから逃げ出し――」

 みなまで聞かぬうちに、彼女は店の外へ飛び出した。

 なるほど。たしかに、少女が道の真ん中に倒れ込んでいる。

 その横では、保安官バッヂをつけた小男が、おろおろとした様子で立ち尽くしていた。

 エスメラルダは、急いで駆け寄り、少女を助け起こした。

 客が話していた通り、中国人だ。年の頃は十一、二歳か。

「保安官! アンタ、行き倒れを眺めてるだけかい!」

「い、いや、その、どうしたものかと……」

「店に運ぶから手伝いな!」

「わ、わかったよ……」

 保安官は言われるがままに、少女を抱え上げ、重そうに顔をしかめながら、酒場へと運んだ。


 椅子に座らされた少女は、薄目を開けて、荒い息をしている。

 どうやら意識を失ってはいないようだ。

 その横では、保安官がへとへとな様子で、汗を拭いていた。

 小柄な少女を運んだだけだというのに。

 エスメラルダは、彼の肩を叩き、

ありがとうグラシアス、保安官。アンタもたまには役に立つね」

「いや、なに……」

 そこへ、酔客すいきゃくの野次が飛んだ。

「よう、エンツォ! あんた、賞金を払う以外にも仕事があったんだな!」

「行き倒れのガキを運ぶなんて、ロレンツォ・スコレーリ保安官殿にゃ大仕事だぜ!」

 そう痛烈にからかわれても、保安官は気弱く笑うだけだ。いかにも風采ふうさいが上がらない。

 少女の手に、水で満たされたコップが、差し出される。

 暖かい笑顔のエスメラルダから。

「大丈夫かい。ほら、水を飲んで」

「ありがとう……」

 一息で水を飲み干す少女。

 こんな年端としはもいかぬ子供が、飲まず食わずで、倒れるまで歩き続けてきたとは、一体なにがあったというのか。

 エスメラルダは、少女の前髪についた砂を払いつつ、尋ねた。

「一体、なにがあったっての? どっから来たんだい?」

「コヨーテズ・デン……」


 “コヨーテの巣穴コヨーテズ・デン

 それは、半島山脈ペニンシュラ・レンジのふもと、鉄鉱脈に囲まれた鉱山地帯。

 大勢の中国人労働者が、日夜採掘作業にいそしんでおり、中国人たちの集落もあった。

 それに、名前の通り、コヨーテが数多く生息する地域でもある。


 馬であれば、この町から半日とかからないが、子供の足ではどれほどかかったことであろう。

 飢え、渇き、疲労、足の痛み、コヨーテの恐怖。

 己の身に置き換えた想像など、したくもない。

 エスメラルダも、保安官も、客たちも皆、一様に嘆息たんそくをもらした。

「あんなとこから歩いて? 親父さんやお袋さんは?」

爸爸バーバも、媽媽マーマも、死んじゃった……」

 聞き慣れぬ言葉だが、父親と母親のことか。

 両親は死に、子供はさまよい続けた末に行き倒れ。

 エスメラルダは、眉をひそめ、首を横に振る。

「気の毒に……」

 すると、少女はうつむき、こんなことを言い出した。

「お願い、助けて…… 爸爸と媽媽、殺された……」

 殺されたとは、穏やかならぬ話である。

 親子共々、悪辣あくらつな白人にでも追われたか。

「殺されただって? 誰にだい」

「死んだ人……」

「だから、その死んだ人は、誰に殺されて死んだかを聞いてるんだよ」

 少女の顔が、上がった。

「死んだ人、襲ってきた! 死んだ人、夜歩く!」

 その顔には、恐怖と悲しみが、ありありと浮かんでいる。

 少女はエスメラルダにすがりついた。

「お願い! 助けて!」

 死者が、夜に歩き、生者を襲い、殺す。

 死者が歩き?

 しばしの静寂ののち、エスメラルダや賞金稼ぎたちが、一斉に笑い出した。

 当然とも言える、皆の反応。

 少女はがっくりとうなだれてしまった。

「ウソじゃない…… 本当…… ウソ、言わない……」

 瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 エスメラルダは、慌てて少女の両肩に手を置いた。

「すまないね。疑ったワケでも、嬢ちゃんを笑ったワケでもないんだよ。ただ――」

 そして、少女の頭を優しく撫でる。

「――ただ、嬢ちゃんはなんて運がいいんだろう、って思ってね」

 そう言うと、彼女は立ち上がり、店の奥へ顔を向けた。


「ジョー! ブロンディ・ジョー! 仕事だよ!」


 少女の視線も、客たちの視線も、一斉に奥のテーブルへと注がれる。

 その先には、二人の男がいた。


 一人は、二十歳そこそこの、年若いメキシコ人。

 褐色の肌に、切れ長な目の、苦み走った美形だ。長い黒髪を三つ編みにしている。

 彼は、エスメラルダの呼びかけに応じず、黙然もくぜんと新聞を読んでいた。


 もう一人の男は、テーブルに両の足を乗せて居汚いぎたなく座り、帽子を顔に乗せて眠っていた。

 隣の客が、眠っている男の肩をつつく。

「ジョー。おい、ジョー。起きろよ。呼んでるぜ」

「ああ? なんだってんだよ……」

 ジョーと呼ばれた男は、顔の帽子をのけると、大儀たいぎそうに立ち上がった。


 少女の目に映ったのは、初老の白人男。

 頭には髪の毛が一本もなく、顔は白いものの混じった無精髭に覆われている。

 白いシャツも茶色のベストもよれによれて小汚かったが、それに反して、右腰と腹部に一丁ずつ拳銃を収めたガンベルトは、大層立派な作りなのが印象的だった。


 ジョーは、頼りない足取りでふらふらと近づいてくると、保安官を押しのけ、カウンターに寄りかかった。

 あきれたように首を横に振っているのは、ウィンストンだ。

「ジョー、昼間から飲み過ぎではないかね?」

「大きなお世話だぜ、ウィニー。 ――おい、エスメラルダ。ウイスキーだ」

「その前に、この嬢ちゃんの話を聞いてあげな。あんたらの出番だよ」

「ああん……?」

 鼻の毛細血管が破れた酒飲み特有の赤ら顔が、少女の顔に近づけられる。

 少女はびくりと身を震わせ、小さくなってしまった。

 エスメラルダは笑って、その小さな肩を抱き、

「怖がらないでいいんだよ。こいつは“金髪のブロンディ”ジョー。向こうで新聞を読んでる若いメキシコ人が、相棒のエル・ソル。今、嬢ちゃんに一番必要な連中さ」

「ブロンディ……?」

 そうつぶやく少女の視線が、ジョーの頭部に向けられる。

 ジョーは、うっとうしそうに顔をしかめると、少女に問いかけた。

「おまえ、名前は?」

姬美華ジーメイホア……」

「なにがあったか、とりあえず話してみろ」

「え、ええと――」


 メイホアと名乗る少女の口から、たどたどしい英語で語られた、事の次第はこうである。


 メイホアの父親は、鉄鉱採掘現場で働く、労働者だ。

 しかし、その採掘現場は、どこか奇妙だった。

 事故死した者や病死した者の遺体が、製鋼会社の監督員の手によってどこかへ運ばれ、帰ってこないのだ。

 メイホアの父の友人が、現場で事故死した時も、そうだった。

 残された家族を気の毒に思った父は、ある夜、「少し調べてくる」と言い残し、家を出た。

 そうして、それきり戻ってくることはなかった。

 父が行方不明となった、三日後の晩。

 何者か数人が、メイホアの家に押し入った。

 それは父と、死んだはずの父の友人や労働者たちだった。

 血の気のない顔で、恐ろしいうなり声を上げながら、父は母に襲いかかった。

 母は絞め殺され、メイホアは命からがら家から逃げ出した。

 それから丸二日の間、さまよい歩き、ここロス・ロボスにたどり着いたのであった。


 なんともおぞましい話ではあるが、近くで話を聞いていた他の客の中には、懐疑と嘲笑をありありと顔に浮かべる者もいた。

 しかし、ジョーは、グラスに注がれたウイスキーをぐいとあおり、

「なるほどな。生ける死者リビング・デッド、ってワケか……」

 と驚きも疑いもしていない。

 ウィンストンが、ブランデーを片手に、笑って言った。

「まさに君ら二人の得意分野だな。こういう常識外れの不可思議なことは」

 ジョーはそれに答えず、まっすぐにメイホアを見つめて、尋ねた。

「メイホア。コトをかたづけるのはいいが、これは仕事だ。報酬はあるんだろうな」

「ジョー、アンタねえ」

 怖い顔でにらみつけるエスメラルダであったが、ジョーはどこ吹く風だ。

 だが、メイホアは難しい英語がわからない。

「ホーシュー?」

 ジョーは、メイホアの顔の前で、親指と人差し指と中指をこすり合わせ、

「金だよ。金」

 途端に、メイホアはうつむき、消え入りそうな声をもらした。

「お金、持ってない……」

「じゃあ、話はこれで終わりだ。俺ぁ慈善家でも修道士でもねえ。タダ働きはごめんだ」

 こうなると、エスメラルダは黙っていられない。

 腰に手を当て、居丈高いたけだかな調子で、二人の間に割って入った。

「ちょいと待ちな。アンタ、おとといときのうの分の部屋代がまだだったね」

「な、なんでえ、やぶから棒に。しかたねえだろ。仕事がねえんだからよ」


 どの土地でも、酒場は簡易な宿屋も兼ねているものである。

 ご多分にもれず、ここタルデ・デ・ロス・ロボスにも、二階に六つほどの小さな寝室があった。

 帰る家を持たないジョーのような者には、こういった酒場の狭い寝床が住まい・・・と言ってよい。


 ここぞとばかりに、エスメラルダがふんぞり返る。

「じゃあ、一週間分の部屋代を勘弁してやるから、この子の面倒を見てあげな」

「なにい!? たった一週間分かよ!」

「文句があんなら、今すぐ倉庫か豚小屋にでも引っ越せばいいさ」

「足元見やがって、こんちくしょう……」

 ジョーは、歯噛みしながらウイスキーをグラスに注ぎ、またひとつあおる。

 その横では、エスメラルダが打って変わった優しい笑顔で、メイホアの手を握っていた。

「メイホア、よかったね。こいつらが必ずなんとかしてくれるよ」

「ありがとう、エスメラルダ」

 と、うなずくメイホア。

 これには、ジョーが慌てた。

「お、おい、俺ぁまだ『やる』とはひと言も――」

 メイホアは、グラスを握る彼の手に、己の小さい手を重ね、笑った。

「ありがとう、ジョー」

 もはや、なにを言うもかなわない。

 砂ぼこりで黒く汚れた顔に、こんなにも安心しきった笑みを浮かべられては。

「ったく、ツイてねえなあ…… なんで俺ばっかり、こんな仕事なんだよ……」

 また一杯、ウイスキーが彼の喉を通り過ぎる。

 そして、グラスをガンとカウンターに置くと、いまだに我関せずと新聞を読んでいる相棒に、声をかけた。

「おい、ソル。行くぞ」

 相棒エル・ソルは、ひとつ鼻でため息をつくと、新聞をテーブルに置き、立ち上がった。

 ものも言わず、漆黒のジャケットに袖を通し、同じく黒い帽子を手に取る。

 飲んだくれも、その相棒も、仕事となれば行動は早い。

 ジョーは、窓の外遠くにそびえる半島山脈ペニンシュラ・レンジを見すえ、

「まずは採掘現場を見てくる。それと中国人の集落もだ」

 どちらも夜が来る前に見ておきたい。

 ソルに投げ渡されたこげ茶色のジャケットを羽織はおりつつ、ジョーが出入口のスイングドアに手をかけた時、メイホアが彼へ声をかけた。

「ジョー…… 気をつけて……」

 彼はちらりとメイホアのほうへ目をやったが、なにも言わず、店を出た。


 うまやに向かい、二人は歩く。

 ジョーは、懐から出した葉巻をくわえ、面倒臭げにつぶやいた。

「夜になると死者が動き出して歩く、か。やっぱりアレかね」

 ソルは、ただ前を向いたまま、

「十中八九な」

 と言葉少なに答える。

 マッチを求めて、ポケットというポケットを探るジョーであったが、

「となると、問題は死者じゃなくて、生者のほうだな……」

 ついにマッチは見つからなかった。




                                 ——続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る