第10話

「ほぉ。会えない、ねぇ――」


 深い事情を何も知らないでいる男が「ふうむ」と呟き、両手を再び着流しの袖へ入れた。予定の時刻でもあるのか、彼は数十秒考え込んだあと、一度外へ目をやって「うーむ」と顎の下をさすった。


「事情はよくわかりませんが、どうしてユタ探しを必死になってされているのか、よろしければ事情の方をお伺いしても?」


 男はすぐに「無理にとはいいませんよ」と続け、労うみたいに眉尻を下げて微笑んだ。


「ただ、沖縄にも悪徳商法だってもちろんあるでしょう。へたしたら、お金だけが巻き上げられてしまうケースだってありますから。深い事情がないのでしたら、あまりユタには頼らない方をおすすめしますが」


 男は、どうやら見知らぬ仲村渠を心配してくれているらしい。


 確かに、本物を探しながら訪ねていくことについては、どうしても費用がかかってしまうという事実はあった。


 しかし、お金の問題ではないのだと仲村渠は拳を握りしめた。


 二人の今の静かな暮らしは、幸福すぎる夢であって、現実に続いてはいけない。


 そう彼には分かっていた。長引かせてはいけないのだ。自分だけは、決して揺らいでしまってはいけないのだという想いを胸に、仲村渠は男を見つめ返した。


 もし、本当に神様がいるとしたらいよいよそうに違いない。


 世界には、きちんとした理があって、本物の現実を二人は生きなければならないはずだから。


「私を、助けてくれる人間を探しているのです」


 仲村渠は、はっきりとそう伝えた。


「不思議な世界を見聞きする力を持った人間の助けが、私達には、どうしても必要なのです」


 一瞬の空白があった。


 男が珈琲を飲み干して、袖の中に両手を仕舞い込む。


(そういえば、あれからどのくらいの時が経った?)


 ふと、仲村渠は不意に時間経過についてハタと思わされた。自分のことに没頭するあまり、周りの音まで耳に入ってこないでいたらしい。


 座り慣れない焦げ茶色の木材でできた椅子と、カウンター。キッチンから聞こえてくる物音と、料理の匂い。隣の席にぽつんと置かれた妻の鞄の存在と、室内にかかった冷房で冷える素肌。窓から伝わってくる、熱気と眩しい日差し。


 引いていた波が、押し寄せてくるようにして現実感が急速に戻ってきた。


 そろそろ料理が仕上がり、妻も戻ってくるだろう。そう彼が身構えた時、男が深い溜息をもらした。


「ふうむ。あなたを助けられる人を探すのは、とても難しいでしょう」


 男が独り言のようにぼやき、席を立った。


 仲村渠は密かに落胆を覚えた。すると彼は、半ば言葉の意味を掴みかねている仲村渠に微笑みかけ、懐から一枚の名刺を取り出した。


「僕でお力になれるかどうかは分かりませんが、これをどうぞ。数日は沖縄の知人のもとで世話になっているので、彼の協力があれば、もしかしたら何かと力になれるかもしれません。……まあ、公に仕事をされている訳ではないですから、あの男が話しを聞いてくれるかは、未知数ですが」


 その名刺には、「090」で始まる番号と、「098」で始まる番号が記載されていたが、名前も住所も書かれていなかった。名刺としてはかなり奇妙なものだ。


 その時、妻が戻って来て、なぜか仲村渠はその名刺をズボンのポケットに押し込む形で隠してしまった。すると妻と入れ違いに男が着流しを揺らし、歩きだす。


「――ふうん。数分、存在しない時間があるんだな。これは珍しい」


 男が歩きながら懐中時計に目を止めて、そう呟いた。


 仲村渠は、思わず男を目で追った。しかし隣に戻って来た妻が「どうしたの?」と訊く間に、男は外に出て行ってしまった。


「何か、気になることでもありました?」

「いや、――なんでもない」


 たびたび、仲村渠と妻の周りで起こる〝存在しないことになっている時間〟について、今であったばかり男が気付いたことに、仲村渠は密かに動揺していた。


 古い友人と電話越しで話をした時も、同様のことが起こっていた。二人がそれに気付くまでには、数回のやりとりが必要だったのだ。


 それを、あの男は見抜いた。


 仲村渠は、それとなく妻や女性店員に尋ねてみた。すると男二人の話しは長話ではなくて、料理もトイレにも時間はかからなかったと、それぞれの女性は答えてきた。


             四


 妻と北部のドライブに出掛けた翌日、仲村渠は運転疲れもあり、外へ赴くことはできなかった。


 珍しく二人、遅い朝食となった。


(俺が起きた時間に、妻も同じように台所に立っているのも奇妙な感じだが……)


 まるで、決まっていた日常の繰り返しだ。


 仲村渠は、早く名刺先に連絡を取ってみたい気持ちがあったものの、理由の分からない迷いが彼の行動力を制限した。そして結局、その日は電話をかける、という行動にはでられなかった。


 明日こそは連絡を取ろうと予定を立て、彼は一度眠った。


 よく眠れないまま、翌日の土曜日を迎える。


 仲村渠は起きて早々、消化不良のような重りを腹に感じた。


 緊張していたのだ。名前も分からない、住所も不明の電話先に連絡を取ることに、とてつもなく緊張している。


 妻との食事中も、電話を掛けるタイミングばかりを考えていた。


 けれどとうとう朝食時間も終わってしまう。


(――よし)


 仲村渠は腹をくくり、すぐに書斎へと向かった。


 室内で一人、名詞に書かれている電話番号と睨み合う。そして深呼吸をしてから、何度も電話番号を確認しながらスマホのタッチ画面を触った。


 受話器を耳に押し当てて数秒、緊張しながら呼び出し音を聞く。


 すると、唐突に呼び出し音が切れて、受話器の向こうから『もしもし』と尋ねる声が上がった。


 やけに鈍った陽気な声には、聞き覚えがあった。


「あっ」


 記憶を手繰り寄せて、仲村渠の口から声が出た。


 古宇利島で出会った、あの意味深な言葉を残して去っていった狐面の男の声だ。そう思いいたって、仲村渠は拍子抜けしてしまった。


「なんだ、君か」


 固定電話にかけたというのに、なぜ彼が出るのだろう。


 そんなことを思いつつ仲村渠が言うと、化かし上手な動物が人間を小馬鹿にして楽しむように、けらけらと笑う声が返ってきた。


『驚くのではないかと思ったのに、拍子抜けされてしまいましたね。いやぁ、残念、残念。そうそう、今この家の主は、今ちょっと手が離せないので、私が留守を任されているのですよ。ほら、ピンポンダッシュされるたびに玄関まで確認したり、お客様に飲み物をもっていったり、花壇に水をかけたり、野良猫とたわむれたりする、あれです』

「……後半はよくわからないが、つまり暇を持て余しているから君が雑用を任されている、ということだろうか」

『そうそう、そんな感じです。僕は旅行者ですし?』


 男は、楽しげに語った。


『そういえば先日お話した件なのですが、何か進展はありました? 連絡をくださったということは、こちらで話しを聞いてみることにしたのかなぁ、と思ったのですが』

「そういう、ことになりますね……昨日は、調べ物だけで終わってしまいましたから」


 電話越しで、男が『ふむふむ』呟く声が聞こえた。


『実はですね、先日、僕から彼にそれとなく話をしてみたのですよ。まあ、彼は何かと忙しい男ですし、気難しいうえに気まぐれです。どうだろうなあとは思っていたのですが、まあこれがまた驚くことに、専門家としてやっている訳ではないが話しは聞いてやってもいい、とのことでしたよ。今日の午前中に時間は取ってあるそうですし、昨日の時点で茶菓子の予約も三人分されています。気兼ねなくいらっしゃってください』

「時間を取ってあるって……茶菓子まで? まるで私が今日、連絡を入れることが分かっていたみたいじゃないですか」

『あははははは、不審がらないでくださいな。僕はあなたから連絡が来ると〝先視〟していましたし、彼は僕から話を聞いて、あなたが来るという未来を〝聴かされた〟んでしょう。目と耳で前触れをされた、つまりこれも何かの縁でしょう」


 仲村渠は、男の返答が理解し難かった。

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