第2話

 沖縄県は、日本列島の南に位置する島国だ。


 独自の文化が息づいているのは、昔はそこが琉球という名のもと、日本とは違う一つの国としての歴史を持っていることも関係しているのだろう。


 沖縄本島には石垣や宮古といった諸島が点在しており、戦後はアメリカとして統治されていたが、一部の米軍基地の土地を残して日本に返還され、現在に至る。


 日本に霊能者、イタコ等があるように、先祖供養を大事にする沖縄では古くからユタと呼ばれる者がおり、目に見えない問題を解決したり相談に乗ってくれたりするのだ。


 ――幽霊は本当にいるのか、あの世は本当に存在するのか。


 といった内容より、生活の一部として沖縄県民は先祖や神を敬う気持ちが強い。


 そう、とくに縁も興味もない仲村渠は、そう思う。


 家を建てる前に、土地の神様に挨拶をするためユタを呼ぶのは常識だった。お盆になると、先祖や祖父、祖母らが帰ってきていることを祝って、親族で集まり、ウンケー、ナカビ、ウークイと続き、迎えと見送りを仏壇を持った家で行うのも普通だ。


 エイサーという文化も、その各行事に根強く結びついて欠かせないものではある。


 それは神様や守護神、ご先祖様を楽しませることと、盆や旧正月に集まる〝よくない霊達〟つまるところ悪霊といったものを太鼓の音で追い払う、という意味合いもあった。


 だから夜にその音が聞こえてくると『悪霊も逃げて近付けないだろうな』と、ホッと安心する風習も、沖縄独自のものだろう。


 神やら幽霊やら信じていなかった仲村渠だって、子供の頃はオバケが怖かった。


 大人の誰かから聞いたそんな話が頭に残っていた少年時代、怖い怖いと夜道を歩いていた時に、ふっと思い出して、安心した記憶は不思議なことに大人なっても記憶に残されているものだ。


 他県からの移住者も増え始めたことでちょくちょく起こることになった『夜なのだからエイサーの練習を止めろ』の苦情を出す輩に、温厚な沖縄県民も怒りを覚えるのは仕方がないことだった。



 仲村渠は六十五年前、糸満市で産まれた。

 父親は漁師で、兄弟は全部で七人いた。当時は皆貧しく、防空壕には手榴弾も残っていたご時世でもある。


 けれど荒れ地や自然、復興中の町が遊び場の少年達にとって、防空壕というのはお金に変えられる物があるのではないか、使える物が残っているのではないないかと冒険心がそそられる場所でもあった。


 未回収の骨が出てくることも少なくなかったから、入ることに慣れてしまった少年達にとっては、驚きではなくなる。


 ただ、不発のまま残された手榴弾を誤って起爆させ、亡くなった子供もいた。

 仲村渠の兄も、それで死んだ。


 彼の父親は漁師をやっていて、不定期に船を出した。


 まだ日も明けぬ時間に、母親が作った握り飯を三個ほど風呂敷に詰めて港に向かう。


 父は戻って来ると魚を競りに出し、よく仲間同士で酒を飲んだ。普段から喋る人間ではなかったが、飲むと何かしら不満をこぼす男だったから、次第に家族との距離が開いていったことは仲村渠も覚えている。


 中でも父が一番嫌われたのは、金遣いの荒さだった。


 いくらでも酒を飲んだし、連日船を出さない日は仲間同士で居酒屋を回って、帰って来なかった。


 漁師という仕事は収入が不安定だったが、彼は貯金といったことにもまったく不向きな男だったのだ。


 船には、一番金がかかった。嵐で船体が傷つくと修理に数十万はかかり、エンジンだけで数百万もした。


 しかし、父はエンジンを取り替えたばかりの翌年には、新しい船が欲しくなり、借金をしてまた船を買い替えた。そうしているうちに借金は膨れ上がり、収入がいくらあっても足りなくなっていった。


 一番苦労したのは、父を支え続けながら家事と育児を行っていた母だろう。


 長男は漁師となって、父とは別の船の船長に雇われて収入を得た。仲村渠と年違いの兄である三男は、自営で釣り具の経営を始めた。


 その二人のおかげで、金のない月でもどうにか過ごせたが、四男の仲村渠は勉学がしたかった。年が十以上離れた二人の兄弟に相談し、母が見守る中で兄弟三人、父と向きあった。


「父さん、弟の孝徳を大学までいかせてやりたいんだ。俺たちは勉学をしなかったが、こいつは勉強がしたいんだよ」

「分かった。大物を釣りゃあそれだけで入学資金になる。俺も頑張ってやるさ。もしもの時は、俺の船を売ってやってもいい。孝徳、お前も頑張らなければいけないぞ。チャンスは一回だ。一発で合格できなきゃ、本気じゃなかったと俺は受け取るからな」


 漁師の仕事は、毎月の収入が大きく違う。


 父は頑張りを見せて借金は急速に減っていった。不景気には微増を繰り返したものの『頑張れば返せないことはないのだ』と仲村渠も期待した。


 だから仲村渠は、家を手伝いながら必死に勉強した。勉強にあてる金はなかったが、すべては六年後の大学受験のためにと心を決めていた。


 勉強なら同級生の誰にも負けなかったし、自己防衛のための喧嘩も次第に負け知らずになり、身体だって強くなっていった。


 彼が家を飛び出したのは、それから六年後のことだ。


 当時十八歳だった仲村渠が学校から受け取ったのは、大学の合格を知らせる通知書だった。


 けれど父は「そんな約束など知らぬ」と赤ら顔を傾げて言い放ち、仲村渠が問い詰めると、激怒した。


 この頃になると父は、怠け者のようにあまり船を出さなくなっており、酒を飲まないと手が震えた。彼の父はアルコール中毒になっていたのだ。


 仲村渠は十八歳で父と決別し、家を出た。


 身体は丈夫で力もあったから、すぐに仕事は見つかった。


 新しい生活の場としたのは那覇だった。彼は、働きながら大学に通い、そして卒業した。


 それから縁があって公務員試験の話を受け、役所勤めになったのはその数年後だ。それからは定年退職まで職が変わることはなかった。


 定年退職後は、静かな暮らしが続いた。


 仲村渠は那覇新都心に一軒家を構えている。



 ――彼がその自宅で、先日に中部で出会った『シーサーの置物を持った巫女服姿の中年男』の悪夢に飛び起きたのは、朝の七時半のことだ。


「はぁっ、はぁ……なんだ、夢か」


 というか、とてつもなくひどい悪夢じゃねぇか、なんて思った。


 先日の調子外れの声がドンドコ聞こえてきそうで、仲村渠は眩暈を覚えた。


(――くそっ、奴は俺の夢にまで現れるってのか!)


 心底憎たらしい。


 そんなユタの男から餞別にいただいたシーサーのお面は、とうとう捨てきれずに、寝室の机の上に置いていた。


 捨ててしまいたいが、けれど徳があるというのなら無暗に捨ててしまってはいけないような気がしたのだ。


 これがシーサーの形をしていなければ、きっとすぐに捨ててしまっていたに違いない。


 実に憎たらしいが、それでも仲村渠は沖縄県民としての信心まで捨てきれないのだ。


 立派に定年退職までつとめ、しっかり老後の貯金まで用意して老後の生活を迎えた仲村渠の穏やかな一日は、洗面所を済ませたのちに珈琲の香りから始まる。


 その日も、顔を洗ってあとに漂ってきた匂いにつられるようにして移動した。


 リビングに足を踏み入れた途端、生暖かい風が彼の頬を柔らかく打った。彼は眩い光りに溢れる室内の光景に、しばし佇んだ。


 全開にされた窓からは、陽気な六月初旬の明るい日差しと暖かい風が舞い込んでいる。まとめられていないカーテンが自由きままに風に膨らみ、光りの波を奏でていた。


 新聞紙はきちんとすでに食卓の上に準備され、飛ばされてしまわないよう茶菓子の入った容器に踏まれている。


(ああ――)


 なんて感慨深い思いに包まれ、彼はしばし立ち止まり続ける。


 ほんの少し前までは普通にあって、そして一時、彼の世界からなくなってしまっていた〝日常〟だったから。

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