神様、俺は妻が心配でならんのです
百門一新
第1話
いかにも胡散臭い古びたアパートの一室に来て、早七分。
六十代後半の仲村渠孝徳(なかんだかり こうとく)は、痺れはじめた両足の痛みに後悔を覚え始めていた。
古びた畳みや障子の匂いを押しのける、強烈な御香で今にも鼻が曲がってしまいそうだ、と彼は思った。
ここは狭い四畳半の部屋だ。その畳間のタンスの上などに置かれた数多くの仏像や熊の置物にも、彼は冷静でいられなかった。シーサー、招き猫、水晶を抱え込んだ竜、とぐろをまいた金色の蛇がいる十二支のミニチュア祭壇……ああ、息が詰まりそうだ。
仲村渠は、騒がしい足音を発する目の前のユタへと視線を戻す。
そして、やはり顔を顰めるなり、すでに嗅覚が麻痺しかけている自身の鼻をつまんだ。
彼はユタというものをあまり知らなかったが、これは違うかな、と当初から思っていた自分の直感が徐々に真実味を帯びてくるような気がしていた。
仲村渠は、若いうちに自身の家族とは縁を切っていたので、墓に関わる行事や知識、ユタとの接点を一切持っていなかった。
妻にはもちろん親族がいて、シーミーや盆の行事も毎年のように行っていたが、仲村渠といえば盆の時くらいに向こうの親族の方へ顔を出しても、ほとんど酒を飲んでいるばかりだった。
『自分で解決しがたい悩みや相談事なら、ユタに見てもらった方がいい』
(以前、俺にそう教えたのは、誰だっただろうか?)
と、その時、彼は耐えきれずくしゃみを一つした。
誰が言っただとか、そももそ今はどうでもいい、と彼は胸のうちでイライラして吐き捨てる。
(もし平気な顔で今、そう勧めてくる輩が目の前に現れたら、ぶっ飛ばしてやる)
そう苛立ちつつ、仲村渠は水晶ばかりが並べられたテーブルの隅に置かれていたティッシュの箱を、勝手に引き寄せて、忌々しく鼻をかんだ。
鼻を噛んだ際、御香と線香が混じった香りが己の鼻腔からも出ることに気付いて、彼は愕然とする。
自分の肺が室内の空気に染まっており、しまいには口からも出る。
仲村渠はしばし言葉を失った。調子外れの長い祝詞を、足音と共に奏でていたユタの男がそのタイミングで名演技ぶったたくましい声を張り上げた。
「さあこれからですよ!」
彼は、こちらが花を噛んだことも気付いていなさそうだ。
不意打ちのような奇声の声かけに驚いた仲村渠は、「ぐぅ」と溜息をこえ、嫌々ながら顔をそちらへと戻す。
すると、テーブルの向かいでは、巫女服を着た中肉中背の中年男が、訳の分からない奇妙なポーズで――仲村渠の記憶が正しいとするならば、恐らくこれは今の若い子に人気のある、沖縄発祥のヒーロー物の決めポーズだったような気がする――深く頷いてみせる。
(おいコラ、今のうなずきはなんだ? 全然以心伝心もしとらんからな)
まるで『何もかもお見通しですよ! 任せてください!』といわんばかりの顔だが、仲村渠は、実に苛立ちを覚えた。
(俺とお前は、お互いのことを何一つ理解し合っちゃいねぇぞ、絶対になっ)
などと思う仲村渠など、置いてけぼりで目の前のユタは続ける。
「心配ご無用! 私は、中部の女子高生にも信頼の高いユタですからね! インキチ臭い他の偽者共と違って、初診料を含めて三千円であなたを救ってみせますよ」
「いったい何が分かったというんだね? そもそもこのアンケート用紙に、私と妻について少し書いただけじゃないか」
仲村渠は、生年月日と出身地を書き記した紙を指先で叩いた。
面談が始まった際、ユタは数分それを眺めて「二黒土星ですね、なるほど」と言って頷いていたものの、仲村渠は『それが?』と疑念たっぷりに思ったものだ。
そもそも目の前の男が、その言葉の意味を理解しているのかも甚だ疑わしい。
(いや、俺のそんな無神論な感情は、どうでもいいのか)
再びイライラしてきた仲村渠は、心を落ち着けるように隣をこっそりと見た。
隣の座布団には、自分よりも二十も若い妻が正座している。彼女はやはりきちんと理解していない様子で、にこにこと楽しげにユタの男を見つめていた。
先程、ユタが彼女を見ただけで『事情は分かりました』と言ったものだから、仲村渠は少し信用してしまったのだが、……どうやら見当違いだったようだ。
「はぁ……」
彼は、すっかり冷えた目の前のカップの茶に溜息を落とす。
あの時受けた神秘的な謎めいた驚きと、期待を返して欲しい。
救いといえば、今の妻には、目の前でされていることにつついては事情が理解できない、ということが何軒も回って分かったことだ。
(――それも実に、不思議でならないことなのだが)
いったい、何が起こっていのか。
仲村渠は妻のぼんやりとした横顔に、どこか無垢な子供の『楽しい』という気持ちを見て取り、思わず安堵する。
(まぁ彼女が楽しそうなら、それでいいか――)
「いいですか、ナカバカリンさん!」
「うおっ!? ばっ、あ、いや違う、ナカンダカリだ」
何もよくなかった。驚かされた仲村渠は、ひとまず素早く訂正する。
この男は彼がアンケート用紙に名前を書いた時に、『ナカムラフクロウ』と読んだつわものである。いったい俺の名前のどこにフクロウがいるのだろう?と仲村渠は思ったものだ。
「うふふ、面白い人ねぇ」
隣で、妻がころころと笑った。彼女は当初からこのような感じで、ずっと呑気だ。
ユタは、名前を訂正されたことについてはまったく気にとめない様子で、テーブルを挟んだ二人の向かい側で巫女服を揺らし、くるりと回ると、次は某漫画の有名な決めポーズを一つ決め込んで、仲村渠を真面目な顔付ききで見据えた。
(そもそも、なんでこいつは女用の巫女服を着ているんだろうなぁ……)
完全に無の過剰の顔になった仲村渠は、不思議でたまらない事項について思考を避難させる。
「よいですかナカバンリカンさん!」
「おいお前、ふざけてるのか?」
絶妙に間違える名前には、よくもまぁ似たようなニュアンスでころころと思い付くセンスを持っているものだと、もう呆れを通り越して関心させられる。
そんな仲村渠の反応など、やはり彼は見栄てさえいないみたいだ。
「今、あなたは重大な試練の時にあるのです!」
「はぁ、なるほど。俺に、試練、ね」
「今すぐ祓ってしまわないと大変だ!」
「いった何を祓うというのだね?」
仲村渠は、ほとほとうんざりしながら、聞いた。
そもそも『祓えるものなら祓ってみろよ』と挑発的に思った。
(本当に祓って〝害を与えたり〟するようであれば、その時は、俺がお前の顔面に鉄拳を飛ばしてやるからな)
とはいえ、この男がそのへんに関してまったく信用ならないのは確信している。
きっと、巫女服を着た中年太りの面白男は、確かに、さぞ女子高生のお喋りにもってこいの話題に違いない。
するとユタを名乗るその男が「よくぞ聞いてくれましたね」ともったいぶった前置きをしてから、奇妙な指の差し方で、仲村渠にビシリと指を突き向けて、断言した。
「奥さんに取りついている悪い霊がいます!」
仲村渠は、その回答を聞いて、完全にあてになにないと判断した。
ユタは続けて「大変だ、大変なんだ」と言いながら、シーサーの置物をむんずと掴むと、高く掲げた。続いて拍子のずれた音を踏みながら何事かを唱えつつ、部屋をぐるぐると回り始める。
ユタのヘタクソな盆踊りを、何も知らない妻だけが楽しんでいた。
少女のような笑い声と、中年のおっさんのはしゃぎっぷりがを聞きながら、仲村渠はとうとう頭を抱え、まずはどうやってこの場から逃げようかと考えた。
一
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