第2章 特別披露試写会

第8話 これで共犯ですね

 担任に決まってから数週間が経ち七月。梅雨が明け、すっかり外は夏模様へ変わっていた。


 照りつける日差しが容赦なく肌を焼き、耳を掠める風が蝉の鳴き声を運ぶ。


 いつものように鎌倉駅で降り、バスに乗り換え四駅先のバス停で下車する。


 杏奈の家の方向へ向かっている途中。また深緑色のハットキャップを目深に被った人とすれ違った。


杏奈の家に行くたびにこの人と会っている気がする。気にしすぎなだけかもしれないが。


「お邪魔します」


「いらっしゃいせんせー」


 玄関へ上がると杏奈が出迎えてくれた。今日は制服ではないらしい。


 胸に猫がプリントされた白いTシャツにグレーのスウェットパンツ。柳のようにしなやかな髪の毛を後ろで一つ結びにして、純白に輝くうなじが覗く。珍しくかなりラフな格好をしていた。いつも通りの可愛さだ。


「そんなにわたしのこと見つめて、どうかしました?」


「え、そんなに見ちゃってた? ならごめ――」


「うそですよ」


「え?」


「だからうそですって。せんせーの反応が面白くて、つい、意地悪しちゃうんですよね」


 そう杏奈は悪戯っぽく微笑んだ。無意識に見つめてしまってたのかと思い、内心ひやひやした。


「お母さんは仕事?」


「はい、仕事です」


「そっか」


「実は今日撮影があったんですよね」


「うん」


「それで学校早退して、そしたら案外撮影が早く終わったので着替えたわけですよ」


「うん?」何が言いたいのだろう、と首を傾げる。それに答えるように杏奈はくるりと、その場で身体を一回転してみせた。


「どうです? せんせー。いつも制服ばかりで飽き飽きしてるとおもいまして」


「…………」


「なんで無言なんですか!」


「今日も元気だなーって思ってただけだよ」


「そこは似合ってるね、の褒め言葉の一つ、言ってもいいと思うんですけど」


「似合ってるね」


「そんな棒読みで言われても嬉しくありませんよ!」


 ぷいっ、と杏奈は唇を尖らせてそっぽを向く。大人じみていると思っていたが、けっこう子供っぽい部分もあるらしい。


「あ、せんせーは先に二階へ上がっててくださいね。いまお茶用意しますので」


「そんな気遣わなくても大丈夫だよ」


「それくらいさせて下さいよ。これぐらいしか、出来ないんですから」


 言ってさっさと杏奈はリビングへ消えてしまう。

 手伝おうか迷ったが、それだと折角の気持ちを無碍にしてしまうような気がして。睦目は大人しく杏奈の部屋へ向かうことにした。


 先に丸椅子を杏奈のキャスターチェアの隣に置いて待つ。


 見慣れた部屋とはいえ、けれどここは杏奈のプライベートの場。つい、好奇心が勝っていけないと思いながらも、周囲へ目を向けてしまう。……と、倒れている――というより、伏せられている写真立てが、引き出し棚の上にあった。なんだろう? 睦目はそれに手を伸ばしかけて――


「せんせー持ってきましたよー」


 ドアが開いた。咄嗟に伸びた腕を引っ込める。


「うんありがとう……ってそのお皿……」


 杏奈が持ってきたお盆の上にはグラスが二つ――となぜか丸皿あり、そこには沢山のスルメが盛られていた。


「へっへーいいでしょ」


 杏奈がむぎ茶が注がれたグラスを一つ渡してから、自身の席に着く。


 そしてスルメが乗った皿を堂々と中央に置いた。


「そういうのは休憩時間に……」


「まーまーいいじゃないですかそれくらい。お母さんいないんだし」


「でももう授業始めるぞ?」


「……仕方ないですねー。せんせー口開けてください」


「え?」


「いいから」


 言うが早いか、杏奈はその細く長い手を動かしスルメを一足つまみ、有無も言わせずに口の中へ突っ込んできた。


「え、ちょっ――」


「これで共犯ですね」


 そしてニカッと悪者のような笑みを浮かべた。


 ――杏奈はずるい。


「……しようがない。でも、食べるのは休憩時間のみだからな。それ以外はダメ」


「はーい。わかりましたー」


「じゃあ授業始めるよ」


  

 ――授業開始から数十分。突然、数学のプリントを解いていた杏奈の手が止まった。


「はぁー疲れた。せんせースルメ食べていいですかー?」


「だからダメだって」


「ケチー。それじゃあモテませんよー」


 間延びした、飽きたような口調で適当なことを言う。


「別に、モテようとしてる訳じゃ……」


「あ、そうだせんせーっ!」


「どうした?」


 杏奈の目の色が変わった。この感じは……前に一度見た。


「彼女は――」

「いないよ」

「へ?」

「だからいない」


 別に隠すようなことでもない。


 杏奈が口を一文字に結び、むーっと何か言いたげな視線を送ってくる。


「まるで先を読んでいたかのような発言ですね」


「表情がわかりやすかったからだよ」


 よくそのような顔を大学で見ているからでもあるが、杏奈にはよくからかわれるので、たまにはこっちから仕掛けてもいいだろう。


「そんなわかりやすいかな……? にしてもせんせー彼女いなかったんですね」


「そうだよ。いないよ。わかったのなら解くのを続けて」


 ここはびしっと、先生として注意をしなければ。


「やらないと休憩なしにするよ」


「え、それはいやです! わかりましたよやりますよー」そうして杏奈は、再びプリントと向き合う。


「へーそっか。彼女、いないんだ」そしてそんなことを小さく呟いた。


 けれど、なぜああいうことを尋ねてきたのか、それが判明したのは授業が終わり睦目が帰りの支度をしている時だった。


「ねぇーせんせー」


「まだなにか気になることがある?」


 さっきの数学の問題の説明わかりにくかったかな、と思っていたら。


「これあげます」


 自身のバッグを漁り取り出してきたのは白い封筒だった。


「これは?」


「完成披露試写会のペアチケットです」


「…………えっいいの? こんな大事なもの」


 完成披露試写会ってことは、以前テレビで宣伝していた映画のことだろう。確かタイトルは

『MIRAI-終末を知る者-』だったはずだ。


「別にいいですよ。いままでのお礼もありますが、なによりせんせーに観てもらいたいんです」


 正直、嬉しかった。こんな風に慕ってくれていたことに、我ながら感動する。けれど、


「でもこれって親御さんの――」


「いいんですよ。どうせ仕事でしょうし」


「でも……」


 本当にもらってもいいのか、逡巡する。


「全然気にしなくて平気ですよ! せんせーの友達とでも来てください」


 ……しばらく睦目は悩んで、


「わかった。じゃあ観に行くよ」


 なにより杏奈のその笑顔を壊したくなかった。


「はい! 感想、楽しみにしてますね!」

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