間章 

オフショット1 舞台裏〜瀬ノ杏奈〜

 五月初旬。


 杏奈が睦目の生徒になる前。


 杏奈はドラマの撮影で神奈川を抜け出し、山梨へ訪れていた。


 というのも彼氏(あくまで役だが)と一緒にデートするシチュエーションの元、バックに富士山を湛えての撮影であった。


「ねぇ富士山ってやっぱり大きいね」


「当たり前だろ。もしかして、見たことないとか?」


「そんな訳ないじゃん。ただやっぱ、大きいなって思っただけ」


「どうする? お腹すいたりしてない?」


「へい」――き、と口に出そうとしたそのタイミングでキュルルーとの可愛らしい音が聞こえた。


 見ると彼氏役の人が顔を真っ赤にさせている。


 もちろんこれは事故だ。台本には無い。


 けれどカメラは撮影をとめない。


 監督も何も言わない。じっと、レンズの向こう側にいるスタッフが杏奈を見つめている。


 ……杏奈は唇を動かした。


「ぷっ、あははははっ! もうーあんたの方こそお腹すいてんじゃん!」


「え、えっと……ごめん」


「いいよいいよ全然」杏奈はすぐ隣にある彼氏役の人の手を握った。「じゃあさ、あそこにあるラベンダーソフトクリーム、食べに行こうよ」


 その台詞から察して、彼氏役の人は、


「って、昼食前にそれ食べたら逆にごはん食べれなくなるぞ?」


 と、呆れと愛おしさを込めた微笑みをこぼした。

「大丈夫だって! 甘いものは別腹っていうじゃん」


  本来なら「平気」と応えたあと彼氏役の人が「それじゃああそこにある、ラベンダーソフトクリーム食べよっか」と返す予定だった。


 けれどタイミングがタイミングだった――スタッフが中断をしなかった――ので咄嗟にアドリブを入れたのだ。台詞としては逆だけれど、結果的に軌道修正出来たので問題はなかった。


「はいカット! お疲れ様。杏奈ちゃんわかってるね〜。アドリブ、最高だったよっ」


 繋いでいた手をさっと離す。


「はい。ありがとうございます」


 親指を立てグッドのサインをしている監督に向かってお辞儀をする。


「んじゃ〜ご飯にしましょうかね。厚原さんもお腹すいたんだし」


 厚原さんとは、今回の彼氏役の人の名前だ。


 別で撮影している映画でも共演している。


 スタッフたちが一度解散し、杏奈もロケ車へ行こうと歩みを進めていると、


「さっき。ありがとうね」


 足音をピッタリ揃えて、厚原さんが隣に並ぶ。


「いえいえ。むしろタイミングよかったですよ。

 おかげで面白いシーン撮れましたし」


 あくまで自分たちは役者。物語を画面の向こう側にいる人達に届けるのが役目。


 しっかりそのキャラクターの気持ちを視聴者に届けられれば及第点。


 だから、あのシーンでのミスは、二人の関係や距離感を表現するのにぴったりだった。


「お礼としてなにか奢らせてよ」


「お礼、ですか。じゃあス――」


 次の言葉の続きを言おうとした直前で、踏みとどまる。危ない。スルメと応えるところだった。


「ス?」

「ス――寿司、をお願いできますか?」

「寿司かー。安いのでもいいなら」

「えーそこは年上の威厳を見せてくださいよ〜」


 冗談交じりの発言に。


「なら杏奈さんが奢ってよ。そっちの方が稼いでるでしょ?」


 と、これまた冗談交じりに返答する。


「ちょっとぼく監督に用あるからまた午後よろしく」


「はい。よろしくお願いします」


 そして厚原さんは水が弾けるような爽やかな笑みを浮かべ、走り去っていった。


 

  * * * *



「はぁー疲れたーーーっ!!」


 撮影を終え、家に帰っきてきた杏奈は部屋へ入るなりベッドに倒れ込んだ。


 ふかふかのベッドからお日様の匂いがする。


 お母さんが干してくれたのかもしれない。


 お日様の香りに抱かれながら、撮影からずっと開いていなかったスマホを開いた。


 帰りのロケ車は眠くて爆睡していた。


「やっば」


 LINEの通知が一○○件も溜まっている。

 すぐさま開いて返信作業に移る。

 件数のうち、八割が杏奈の通う高校の仲良しグループLINE。残りは幼馴染おさななじみが一割。公式LINEが一割だ。


 杏奈は鼻歌を口ずさみながら、LINEを返信していく。


「ふふっ」


 グループLINEの友達の変な会話に思わず破顔する。


「杏奈ーお風呂沸かしたから入ってきなさーい」


 下の階から母親の声がした。


「はーい」


 杏奈も下の階へ届くように大きな声で返した。


 〈お風呂行ってくるね〉


 とだけ送り杏奈は部屋を出る。


 髪を洗い、身体を流して、湯船に浸かった。


「はぁー癒される〜〜」


 お風呂は好きだ。学校と仕事で疲れた心身をもろとも優しく包み込んでくれる。


 熱ければ熱いほどなお良い。


 今の温度は四三度。


 少し疲労を感じた時の温度だ。


「ふ、ふふ〜ん〜〜♫」


 そしてまた、ご機嫌に鼻歌を口ずさんだ。


「あの人はいま、何してるんだろ」


 ふいに杏奈の頭によぎる、ある記憶。


 最初で最後の出会い。


「もし役者とかになってたらまた共演したいな〜」


 そんな杏奈の呟きが静かに、浴槽の中で響いた。

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