夕暮百物語 第3話 近づいちゃ駄目
植木屋で働く上田は職業柄、色々な家の庭に足を運ぶ。剪定などが主な仕事で、怪我はつきものだ。何度か足を滑らせて木から落ちたり、屋根から滑り落ちたりもした。幸いにも命の危険を感じたことはなかった。ただ作業には関係ないことで命を脅かされた体験があったと話してくれた。
それはある夏の日、地元の名士が所有する、庭にある木の剪定を頼まれた。親方は家主と顔見知りだったようで、仲良く談笑をしていた。それを横目に作業の準備をした。上田は少し広いスペースを見つけ、器具を置いた。すぐ側が剪定を頼まれた木だ。少し離れた所に石造の井戸があることに上田は気づいた。何となく様子を見に行こうとすると、優しい声で「ああ。あの井戸には近づいちゃ駄目だよ」と家主に声をかけられた。親方もそれを聞いて「おうおう!そこはいいから早く準備しろよー」と和やかに上田に話した。
何故、近寄ってはいけないのか。多少は気にはなったが、家主に言われたのなら仕方ない。彼は黙々と準備をした。作業を開始し、予定は順調だった。出来事は休憩中の時に起きた。太陽は真上に上がり、彼のつむじを見下ろし、暑さはピークだった。持参した弁当を平らげ、一服していると、親方が家主の所へ進捗を伝えに行った。スマホなどもない時代だ。タバコも吸い終わり、暇な時間を1人で持て余していた。ふと先程の井戸のことが頭によぎった。
「近寄るなと言われたけど、何があるんだよ。まさか人でも出てくるんじゃないだろうな」
オカルト好きで、少し前にも井戸から女が這い出る、そんなホラー映画が話題になったばかりだった。飲み屋の姉ちゃん向けに話しの種が出来る。そう邪な考えを浮かべながら、上田は立ち上がった。タバコを口に咥えつつ、井戸へ向かう。距離が近づくと井戸は思ったより小さくボロボロだった。所々、小さく欠け、石造の蓋も一部壊れ、地面に破片が落ちていた。隙間から中が見える。だが光が届かず、底は見えない。風が下から上へ吹き、タバコの煙が舞い上がった。その瞬間、耳元から「おーい!今から引っ張るぞー!」と聞き覚えある声が聞こえた。
「親方か??」そう思い、後ろを振り向く。しかし、誰もいない。すると井戸からペタペタと音が聞こえてきた。まるで手の平と足の裏をペタリと付け、壁を登り這い上がるような音だ。一つや二つじゃない。井戸の隙間から再度、強い風が吹き、タバコの灰が落ちて火が消えた。
その瞬間、蓋がされている井戸の隙間から、おびただしい数の真っ白な腕が飛び出てきた。何かを探し、捕まえようとするようバタバタと手を動かしている。思わず身体をのけぞる。白い腕の一つが上田の口元へ近づいた。そして口からタバコを半分だけもぎ取り、井戸へ戻っていった。そして「はぁ...また失敗か」と溜息混じりの声が井戸から聞こえた。
上田は恐怖で叫んだ。すると親方と家主が走って戻ってきた。「井戸に近づいちゃ駄目だって言ったのにねぇ..」と家主は呆れながら上田に呟いた。親方は彼が落としたタバコを見つめながら「タバコ半分で運が良かったなお前」とこれまた呆れ顔で答えた。座り込む上田を横目に2人は相談を始めた。家主は「隙間を埋めなきゃなぁ...どうやってやるんだろ...」と渋い顔をしながら話し、遠くから井戸を見つめていた。結局、今日は仕事にならないと帰宅を促されたそうだ。
帰りの車の中で、親方は運転しながら上田に「もう二度と近づくなよぉ、前にいた三浦みたいになるぞー」と話しかけた。三浦。もう随分前のことだが、上田と入れ替わりで辞めていったはずの先輩の名前だった。井戸で聞こえた声を思い出した。「三浦さんに似ていたな....」それ以上、親方に話を聞く事は出来なかった。三浦は井戸に引きづり込まれたのだろうか。
それから何度かあの庭で剪定をした。
当然、井戸には近づかないようにしていた。
遠目から見ても井戸はどんどん崩れているのが分かった。作業中に時折、井戸からおびただしい白い腕が現れ、近くに止まっている小鳥やカラスを、羽毛が跳ね上がり舞うほどの強さで引きづり込んでいたのが見えた。井戸が完全に崩れたら、何が這い出てくるのだろう。上田に好奇心と恐怖が入り混じった感情が芽生えた。「あと少しでそれを見ることが出来そうです」時が過ぎ、現在、親方になり弟子を取った上田はそう笑って話した。
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