【#21】J・D・サリンジャー(野崎孝訳)『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)

■青春小説の金字塔的作品

 J・D・サリンジャーは1919年、ニューヨーク州マンハッタンで生まれた。貿易で名をあげたユダヤ人の父と、結婚を機にユダヤ教に改宗した母の間に生まれた彼は、コロンビア大学で文学を学びながら創作活動を開始。早々から文才が開花し、彼の書いた短編作品が一躍文壇を席巻するも、42年第2次世界大戦に従軍。復員後は戦地での凄惨な体験がトラウマとなりスランプに陥るも、徐々に調子を取り戻し執筆活動を再開する。


『ライ麦畑でつかまえて』は執筆再開後の1951年に発表された自身初の長編小説だ。欺瞞に満ちた社会に対する怒りを、素行不良で高校を退学になった少年ホールデン・コールフィールドが滔々と語るという内容で、今なお世界中で幅広い読者を虜にしている。


 これは2019年時点のデータだが、全世界での発行部数が6500万部を超え、現在も世界中で毎年25万部ずつ売れ続けているという(『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』より)。まさに青春小説を代表する一作と言っても過言ではない。


 一方で、反体制的なホールデンの行動・言動が教育上好ましくないと問題視する声も多かったようで、実際にカリフォルニア州の教育委員会が本作を禁書扱いにしている。負の影響はこれだけにとどまらない。80年に発生したジョン・レノン射殺事件もそうだ。事件の実行犯であるマーク・チャップマンは、事に及ぶ直前、そして射殺後も現場に留まり本作を没頭するように読んでいたという。


 牧歌的なイメージを連想させるタイトルからは程遠い過激な内容(主張)は、良くも悪くも多くの読者に示唆を与えたのである。


■多くの人間に共通する普遍的な経験

 ホールデンは社会や大人たちを「インチキ」と切って捨てる。両親にはじまり、学校の教師。クラスの中心人物。たまたま街ですれ違った見知らぬビジネスマン。社会に順応した人物であればあるほど、ホールデンにとって忌むべき対象となるのだ。反骨精神の原動力。それは思春期ゆえの過剰な自意識に他ならない。


 そしてそれは、多かれ少なかれ誰もが持っていた感情ではないだろうか。ホールデンの行為を「中二病」「若気の至り」と揶揄するのは簡単だが、その指摘はブーメランのごとく自分のもとに帰ってくるはずだ。


 とはいえ、ホールデンは社会に対して何か事を起こそうと画策していたわけではない。大人たちを「インチキ」と評論し、社会の欺瞞をグチグチと指摘するだけだ。あくまでも内省的な構えを貫くホールデンの姿を追うたびに、一人の人物が頭をよぎる。『人間失格』(太宰治)の主人公大庭葉蔵である。


 葉蔵もまた肥大化する自意識ゆえに社会に順応できなかった一人である。葉蔵は自分を偽り道化を演じることで社会に適合しようとしたが、結局精神的に追い込まれ、破綻してしまう。一方のホールデンは大衆に歩み寄ろうとする姿勢すら見せなかったが、社会に対する違和感を内省的に吐露するさま、そしてその結果訪れる結末は葉蔵とオーバーラップする。


『ライ麦畑でつかまえて』と『人間失格』。作者も国籍も発表された時期も全く異なる2作だが、いずれも幅広い読者の心を掴んで離さないのは、多くの人間に共通する普遍的な経験――肥大化する自意識と挫折体験が等身大に描かれているからだろう。その意味でも、ホールデンも、葉蔵も、マイノリティーではないのかもしれない。

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