新しい暮らし
トモエの心配とは裏腹に、鬼道家での生活は、とても穏やかに始まった。
冬夜とあの行為をしてからというもの、トモエの体調はずいぶんよくなった。
桜狐家にいた頃は、朝起きることすら億劫だった。一日が始まれば、また苦痛と戦わなければならなかったからだ。
けれどこの家へ来てから、トモエは朝がずいぶん楽になった。
柔らかなベッドの上で、爽やかな朝の光をまぶたの裏に感じて起きる。
体は痛くもないし、気だるい感じもしない。
窓にかかったレースのカーテンと朝の日差しが、トモエの心を穏やかにしていた。
起きてしばらくすると、美夜子が入ってきて、朝の支度を手伝ってくれる。
といっても、トモエは部屋の外には出ないし、基本はベッドで眠っているから、簡単な着替えと朝食をとるのみだ。
風呂も手洗い場もすべて隣接する扉から行けるようになっていた。
外に出ればもっと大きな風呂場もあるらしく、落ち着いたらそこで入浴するようにしましょうと言われたが、トモエには小さな風呂場でも十分すぎるほどだった。
食事も風呂も着替えも、何もかもが体力を奪う。
けれどここでは全て美夜子がそれを手伝ってくれるので、トモエは本当に楽だったし、そのおかげか、ここ数日で今までの体調不良が嘘だったかのように、元気になったのだった。
(桜狐家でずっと具合が悪かったのは、環境の悪さもあったのかもしれない……)
桜狐家では、最低限自分の世話は自分でしていたし、体調がマシな日には家の手伝いもしていた。
トモエが病弱だからといって食事内容に気を遣われることはなく、いつも美慧たちの食べ残しを女中たちと同じように食べていた。
飢えることはなかったが、調子が悪くて食べ物を口にできる日も少なく、結果体調が悪化するの繰り返しだった。
何より、美慧たちや女中たちの悪意が、一番苦しかった。
穀潰し、役立たずと罵られ、いつも悪口を聞こえるように言われる。そういう精神的なものが、トモエを一番苦しめていのかもしれない。
美夜子はいつもニコニコしていて、トモエに悪意を向けたりしなかった。
もしかすると何か思うところはあるのかもしれないが、聞こえるように悪口を言われたり、悪意を向けられないことはトモエの心を穏やかにした。
*
「シーツを取り替えますから、少しそちらで待っていてくださいね」
この家に来て三日目。
朝食を食べた後、トモエが窓のそばの椅子でぼんやりしていると、美夜子がそう言ってベッドの周りの掃除を始めた。
最初の頃、トモエは美夜子が一人で部屋にやってきて掃除やら何やらをこなしていくものだから、手伝おうとしていた。けれどそれに飛び上がるほど驚かれてしまい、令嬢はそんなことをしないのだと、初めて気がついた。
だからこうして見ているだけにとどまっているが、どうにもそわそわして落ち着かなかった。
美夜子は気を遣って、まだ他の使用人をこの部屋にいれていない。
けれど部屋の外には、使用人たちが忙しなくしている気配が感じられた。
(私のためにそこまでさせてしまって、申し訳ない……でも手伝うのもおかしいし)
ボロが出てはいけないと、トモエは手伝いたくなるのを必死にこらえて、窓の外に視線をそらした。
季節はそろそろ本格的な夏を迎えようとしている。
絵に描いたような入道雲が、水色の空に広がっていた。
(ここは本当に、空気がいい……)
緑が豊かで、みずみずしい香りがするのだ。
桜狐家の庭も丁寧に整えられていたが、これほどまで空気は澄んでいなかった。
窓から見える景色はとても穏やかで、外に出て散歩をしてみたいと、トモエは数年ぶりに思った。
毎日取り替えられるシーツも、浴衣も、食事も、全てが心地よかった。まるで、病人を受け入れるのをずっと知っていたかのような、そんな部屋だ。
外から視線を戻すと、小さな体で一生懸命シーツを取り替えている美夜子が目に入った。
その様子を居心地悪く見つめているうちに、トモエはふと、美夜子の体に異変が起こっていることに気づく。
(……やっぱりそうだわ)
美夜子の頭には、ふわふわした黒い耳が生えていた。
それが先ほどから、出たり、引っ込んだりしているのだ。
「よーし! 終わりましたよ、奥様!」
ふぅー、と額の汗を拭って、美夜子がこちらにやってきた。
自分の頭に耳が出ていることに気づいていないのかもしれない。
よくみれば、腰のあたりからも何かしっぽのようなものが出ている。
あまりにもふわふわしているものだから、トモエはごくりとつばを飲んでしまった。
(これって……本当のしっぽ、なのかしら?)
それともトモエが白昼夢でも見ているのか?
確かめてみたい。
そう思った時には、すでにトモエの手は動いてしまっていた。
「ふにゃーっ!?」
「あっ」
もふりとした感触が、手のひらをかすめた。
美夜子は飛び上がってお尻をおさえている。
「ご、ごめんなさい! あまりに綺麗なしっぽだから、つい手が伸びてしまって……」
トモエは慌てて謝罪した。
「お、奥様! え!? 私、まさかずっと耳としっぽが!?」
やはり自分では気づいていなかったのだろう。
(やっぱり美夜子さんは、魔性の類なんだ)
美夜子は、自分が魔性の類であることを、一生懸命隠しているようだった。そしてそれは、この部屋に他の使用人たちを入れないようにしていたことと、関係があるのかもしれない。
「あの、勝手に触ってしまって本当にごめんなさい。どうしても気になってしまって」
「ああ……」
もう一度謝ると、美夜子は力なく項垂れてしまった。
「もう、終わりなんでしょうか……」
「え?」
「みゃーこが一番、変化がうまくて、賢いからと、せっかく奥様のお世話係という大役に選ばれたのに……」
なぜか泣きそうな顔になっている美夜子。
耳もしおしおになってしまっている。
トモエは驚いて、椅子から立ち上がった。
「えっと、あの……! お、終わりって、なんの話ですか? 私、ごめんなさい、本当に悪意はなくて……」
(どうしよう……魔性であることに触れてほしくなかったのかな)
能力者が魔性を使役することはたまにある話だ。
特に陰陽師の家系であれば、魔性と契約を結んで、自らの式神とすることなど珍しくもない。
冬夜にその能力があるのかはわからないが、こうして美夜子がここで働いている以上は、何らかの契約を交わしているのだろう。
トモエがオロオロしていると、美夜子は涙目でトモエを見上げた。
「だって……魔性など、人にとって恐ろしくありませんか? 勿怪の類が世話係など、奥様にとっては不快なことではありませんか?」
そう言われ、トモエは戸惑ってしまった。
「え……その、私は別に、なんとも思いませんけど……」
何も考えず、トモエはそう言っていた。
「……こんなかわいいお耳、人にはないですよ、怖くなんてありません。羨ましいくらい」
そう言ってぎこちなく微笑むと、美夜子はぽかんとしてしまった。
(あっ……しまった、まさかこれも、おかしな言動だった……?)
そう思ったが、トモエは訂正しなかった。
いくら変だと思われたって、その人物そのものの生を否定したくなどない。
「……奥様は名家の御令嬢と、ご主人様に伺っておりました……だから、こういうものは恐ろしくて、怯えられてしまうかも、と。他の花嫁候補様は皆、それで逃げていかれましたし、ひどいことを言う人もいました……」
美夜子はぽつりと呟いた。
「でも、奥様は、この姿でも、平気なんですね……?」
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