10月のルポルタージュ

@citizenright

10月のルポルタージュ

ごく最近の話です。

小田急線沿いにあるくたびれた林、その内にひっそりとある墓地のさらに奥へと目をやると、薄い紅色で彩られたなかに、ぼんやりと緑に光る門扉を持つ一軒の家が構えています。とはいえ緑に光っているのは夕暮れ時のみで、眠い目をこすりながら通り過ぎるときには黒光りしてどっしりとそこに在ります。

木曜日は大学が頭からあるためにいつもその存在感に気付くものですが、その日は不断と様子が違ったようです。まるで伝聞したかのように云っていることにはワケがありまして、というのもその違和感なるものが私に起ったのは十数歩過ぎてからのことだったのです。時間にして数十秒、進行方向とは逆に足を出せば解消できる程度の違和感ですが、その正体に触れるより先に、私には確かめなければいけないことがあるようです。


今年で二十三歳を迎える私には、中学校の時から唯一親しく続いている友人がいます。中学卒業までは友山亮斗という名であったために、距離の詰めるのが下手な私は「友くん」と呼んでいましたが、高校入学の年の夏休みに会った時には、松原亮斗と姓が変わっていたことで、新しい呼び名をどうしようか気を遣ったものです。とはいえかつての子どもじみた私でもなかった上に、また姓の変が起こりうる可能性も少なからず考慮できたために、それ以降は「亮斗」と呼ぶようになったのです。

亮斗は一足先に二十三の歳を迎えており、さらに私より一年早く、とある地方の役所に勤めております-正しくは私だけが一年遅れているワケですが-。

私はというと、大学にてできた数少ない友人といえるかも怪しい彼らの卒業を見送り、今度は一人ぽっちの一年を過ごしている最中であるということです。一つ留意しておくべきは、「今度は」はほぼその字体を意味せず、もはやおおむね昨年の風景と変わらないのがその実態であるというだけで。

大学は違えど、亮斗と私はそれぞれ文学科と呼ばれる学科に属していました。私も四年間-五年目も残すは半期となっていますが-をひたすらに遊び倒したというワケでもなく、かといって大きな目標の下にペンとノートが常時目の前にあったというワケでもないのです。ただただぼんやりとしていたというのが言い訳になるのであればそんなところでしょうか。そんな調子で過ごしている所為によって、私の大学卒業はもはや通過点ではなく、先の見通せない終点になりつつあるようです。危機感とも呼ばれるべきものが私を少しでも脅かしてくれれば、多少なり私の終点は先に置くことができるのでしょうが、むなしいばかりでそいつは私を脅かすに至らないのです。いや、かつては「そいつ」に震えたこともあったはずですが、棺桶に入るまでずうっと喧嘩を繰り返している夫婦なんてものがないように、どこかで折り合いがつくものです。夫婦の場合は男が頭を下げ、国と国の間ではその大義のもとにどちらかが屈するわけです。ここで私と「そいつ」のどちらが屈したのかなんてのは語る必要もありません。


さて、ここらで違和感の正体にも触れておく必要があるはずですが、頭を空っぽに筆を進めているだけで、どうにもまとめ方が分かりません。

書き始めたのは10月の終わり頃でしたが、存在すら忘れて、忘れるようにして気がつけば年も越してしまいそうです。

あの頃の違和感がなんだったのか、どうせ忘れてしまう程度のものです。いつもはある自転車が無かったとか、夏には元気だった向日葵が暗くなっていたとか、そんなものかもしれません。あるいは、「いつも」になにか違和感があったのかもしれません。「いつもと違う」のであれば、それはきっと先の視覚的ななにかでしょうが、空っぽの大学5年目にして、その「いつも」それ自体が何か自分の中に違和感を与えたのかもしれません。

ようやく今年は卒業できそうです。この虚しい終点を少しでも引き伸ばしてくれるのは、危機感でも焦燥感でもなく、この違和感の正体を突き止めることであると、今年の自分にお別れをします。

また、来年の自分に期待をして。

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