挽歌詠唱

赤井五郎

流龍・魔術

 魔術は人を正しく導いてくれる美しい存在だ。

 僕は魔術が好きだった。それを使える魔術師に憧れを抱いていた。

 自分にはその才能がないとしても。いや、だからこそ優れた魔術師を尊敬し、その存在を崇高なものだと思っていた。

 

 魔術師は自分の寿命をアーキとして少しずつ消費して精霊の力を使わせてもらう。つまり魔術とは代償を伴う行為だ。

 魔術には呪文の詠唱が必要で、妹の流雪リウシェに言わせれば『初歩的なやつは短い呪文を覚えるだけだから、誰にでもできるもの』らしい。

 実際、彼女にしてみれば簡単なのだろう。

 妹には魔術の才能がある。身内の贔屓ひいき目と思われてもしょうがないが、かなりのものだと思う。

 村の中には普通の学校と別に、引退した魔術師がやっている魔術学校というのがあり、流雪リウシェは通常より数年早く、五歳の時からそこに通っていた。皆のためにこの力を役立てたいと、幼いのに最初から立派なことを言っていた。まあ、それは兄である僕の影響かもしれない。

 僕は魔術の歴史を調べるのが好きで、そういった本を集めては読みふけり妹に伝授していた。歴史に名を残した魔術師達がいかに立派な存在かということも、ことある毎に口にした。魔術に関する知識だけなら妹に負けない自信はある。

 もちろん、魔術を使う事への憧れもあった。こっそりと何度か呪文を唱えたことがあったが、いずれも失敗していた。だから才能がないことは自分ではわかっていたし、今までの歴史を知っているからこそ、僕のように『選ばれなかった人達』が魔術師になれないことも十分に理解していた。

 しかし、父は望みを持っていたようだ。妹がこれだけ魔術を使えるのだから、兄の僕にもそれなりの才能があるのではないかと期待していたのだろう。試しに試験だけでも受けてみたらどうかと言い出した。あの魔術学校の先生は古い知り合いだから、頼んでみるよと。

 うまく魔術が使えれば、食いっぱぐれることはない。兄弟、姉妹で魔術が得意、という例はいくつもあり、子供の将来を思えば、そう言いたくなるのはわかる。

 自分では駄目だと分かっていたが、先生に僕の顔を覚えてもらいたかった。魔術学校と言うぐらいだから、その手の本もたくさんあるだろう。本は高価なもので、子供が集めるのには限界があった。

 というわけで、僕は村の年老いた魔術師の前で自分の魔術を試すことになった。

 一アーキの呪文で火の玉を出す、初歩的なやつだ。

 文言は完璧に覚えていた。他にも色々と知識だけはある。才能がないと言われていた子供が、ある時を境に魔術に目覚めた例があることも知っている。呪文の唱え方や唱える時の心持ちの変化がきっかけになるらしい。これはまだ誰もはっきりと説明ができていない事象だけど、それが僕の身に起こらないと誰が言えよう。

 最初にこの試験で何度まで詠唱を繰り返すか、先生との間で取り決めをしておく。失敗しても実際にアーキを消費することになるので、才能の有無を見極めるにしても、限度を決めておくのだ。

 父は予め僕と決めていた十五アーキと言った。僕がこっそり練習したときにはそれぐらいでなんとかなった。妥当なところだと先生も頷いた。一日が二十アーキだから、僕の寿命が約一日だけ短くなる。だから、試験は受ける方も見る側も本気だ。

 僕は詠唱を始めた。

「一つ。一つの命を火の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします」

 気分は高ぶっていた。大切なのは誇りだ。人々の尊敬を集めて止まない偉大な魔術師達のことを思い浮かべ、その道に続く者として己の正義を信じ、背を伸ばし姿勢を整えて発音を明瞭に唱えた。何か起こるかもしれない。

「我に力を分け与え給え」

 足元が赤く光る。精霊との取引が成立する。『精霊は詠唱を逃さない』と諺にもあるように、魔力の無い人間でも呪文を唱えればアーキは精霊に捧げられる。ここから僕のアーキは呪文を繰り返す度に少しずつ奪われる。

 最初の呪文が終わる。何も起こらない。父も先生もそこは予想していただろう。誰にも何も教わらずに一回で詠唱が成功するのはよほどの才の持ち主だ。妹がそうだった。

 十回目。何も起こらない。こうなると、もうほぼ結論は出ている。僕の方を見ていた父が少し俯いたのがわかった。それでも僕は滑舌よく呪文を唱える。

 十三回目で、ようやく小さな火の玉が現れ、一瞬で消えた。今までの練習と変わらない、弱々しい火だった。誇りは関係ないのか。僕のため息と共に試験は終わった。

 先生がうなずく。

「よくやりました」

 父が不安そうに訊ねる。

「どうでしょう。この子は魔術師になれるでしょうか?」

 先生は首を振った。

「お前さんは流雪リウシェと同じぐらいを期待をしている。それは酷というものだ。才のないことは普通だ。それを惜しむのではなく、才のある者の存在を祝福すべきだ」

 その言葉に僕は少し傷ついたけど、結果は分かっていたのだと自分に言い聞かせた。せめてこの好機を逃すまいと、魔術に興味があるので学校の本を読ませて欲しいと先生に懇願した。

 魔術が使えなくても研究している人達は多い。彼等が呪文を解析し、より効率の良い呪文へと進化させ、魔術は発展させていった。

 僕は魔術の研究をしたかった。主に治癒魔術だ。この分野はあまり手がつけられていない。基礎はあるのだが、消費するアーキが多過ぎて、擦り傷を治すためでも魔術師の寿命を大きく削るので、実用的ではないとされていた。でも、昔は火を熾すのだってそれなりに大きな代償が必要とされた。魔術研究者がより効果の高い言葉の組み合わせを開発した結果、初心者でも使えるいまの呪文があるのだ。僕はそんな研究がしたかった。

 といったことを熱っぽく語ったら先生は「いつでも本を見に来なさい」と言ってくれた。

 

 

 空が無愛想な色になり、家の窓に吹き付ける風が冷たくなる。道端の草木は乾いた土に隠れ、川の流れる音も細く寂しく聞こえる。

 冬が訪れると村外れのトオ湖が氷に覆われる。そこに小さな穴を空けてヒイットという銀魚を捕るのが村の釣り好きの楽しみだった。食料集めにもなるので家庭でも喜ばれる。この時期は子供の遊びとしても人気があった。

 少し離れた隣の家を妹と訪れた。

 扉の前で僕等はじゃんけんをする。妹が勝って小さなノッカーを鳴らした。

 家の中から犬の鳴き声がする。出てきたのはレレクおばさんだ。

「カッシュいる? 湖に行く約束をしていたんだけど」

 カッシュは僕と同じ歳の女の子で、レレクおばさんはカッシュのお母さんだ。

 カッシュの所には少し歳の離れたヴルトという兄がいて、昔は僕等もカッシュと一緒によく遊んでもらった。ヴルトが働き始めて、カッシュも少し大きくなってからは一緒に遊ぶ機会もなくなってしまった。

 一昨年、ヴルトが二年の兵役に行き、その直後、カッシュのお父さんが森で熊にやられてしまった。

 レレクおばさんはほっそりとしたきれいな人で、笑うととても素敵だったけれど、最近ではいつも疲れた顔をしている。

「ありがとう流龍リウリュ、いつも誘ってくれて」

 それは父に言われたせいもあるけど、僕もカッシュの事が心配だった。

 カッシュが釣り竿を手に笑顔で出てきた。

「行こうか」

 僕等は雪の積もった道の上を走ったり、雪玉をぶつけ合ったりしながらトオ湖へ向かった。カッシュの飼っている犬のウィウィも楽しそうに一緒に跳ね回っていた。

 来年の夏には妹が都の魔術学校へ行くことが決まっていて、これが妹と一緒に過ごす最後の冬になる。そのことに少しだけ寂しさを感じていたけれど、まだ実感はわかなかった。

 僕は父がレレクおばさんと結婚すれば良いのにと思っていた。僕の母さんは僕が五歳の頃に流行病はやりやまいで死んでしまった。あの時は村で多くの人がやられて、父が言うには僕も熱が出て危なかったらしいけどなんとか切り抜けたらしい。苦しかったことと、久しぶりに立ち上がったらふらふらしたこと、気がついたら母さんがいなくなっていたことをぼんやり覚えている。あと、父が家の食事のテーブルに一人で座って低い声で歌っている姿を思い出す。後で聞いたところでは、故人がいなくなった家の中で一度だけ歌を口ずさんで別れを告げる古い風習があるらしい。いまでは廃れてしまっているが、僕が覚えているのはそれなのだろう。改めて聞いたことはないし、どんな歌だったかもほとんど忘れているけど、とても寂しげだったという印象が残っている。母さんのことを思い出そうとすると、そのこともついてくる。

 湖の上には二組ほど釣りをしている人がいた。今年はあまり氷が厚くないため、釣りができる場所も限られている。そのうえ、いつもより魚が少ないらしく、例年に比べて湖に来る人自体少なかった。妹にとっては最後の釣りの想い出になるかもしれないのに。

 トオ湖の中央から少し西側に小さな島があった。剥き出しの岩と草叢、数本の低い灌木以外何もない島で、釣りのついでに氷の上を歩いて島に上陸して遊ぶのが楽しみだったけど、今年は氷が薄いから近づくなと言われていた。

 島に近い方がたくさん魚が釣れると子供達の間で言われていた。本当かどうかはわからないけど僕等は先客から少し離れた島寄りの場所に陣取った。

 噂通りによく釣れた。僕とカッシュが六匹。妹も五匹。小さなバケットは魚で一杯になった。これを持ち帰って父に見せることが楽しみだった。

 気がつくと他に釣りをしている人達はいなくなっていた。日が暮れそうになっており、一層冷たくなった風が吹いている。

「そろそろ帰らなきゃ」

 カッシュの言葉に僕達は片付けを始める。竿をバラして布で巻く。妹の竿はカッシュが巻いてくれた。その間、少しだけカッシュのバケットが無防備になった。

 風と羽音が降ってきた。妹が小さく悲鳴を上げる。

 ここで釣りをするときに気をつけなければならないのは真っ白なアビアの襲撃だ。それほど大きな鳥ではないが、目の前で羽を広げられると怖ろしかった。

 鋭い爪を持つ脚でカッシュの魚を掴んで低く逃げていく。犬がすかさずそれを追いかけた。島の近くへまっしぐらに向かう。

 カッシュが「ウィウィ止まって」と鋭く叫ぶ。しかし、興奮しているのか、ウィウィは追い続けた。

「そっちは危ないよ!」

 カッシュは深く追いかけず、十歩ほど進んだだけだった。僕はその先で跳ねるウィウィを見ていた。

 犬は軽い。人よりも。

 カッシュが転んだのがわかった。あるいはその直前に足元の氷が割れていたかもしれない。転んだから割れたのか、割れたから転んだのか、この後僕は何度も考える事になる。次の瞬間、静かな水しぶきが上がり、カッシュの体が見えなくなった。

 氷の割れ目に囲まれた暗い水が見える。

 彼女を救わなければ。

 しかし、どうやって?

 僕は咄嗟に動けなかった。

 手が水面から出てきた。カッシュの頭も。

 彼女は氷の縁に捕まって出ようとしている。しかし、体を乗せようとした氷は無常にも割れるだけだ。それが何度か繰り返される。

「助けなきゃ」

 妹が走り出す。僕はそれを止めることもできなかった。

 カッシュと足元を見ながら妹が立ち止まる。何か詠唱しているのが聞こえた。彼女の足元が一瞬青く光った。そして小さな白い欠片が舞う。氷を出す魔術だ。少しは氷が厚くなったかもしれない。

 でも、カッシュの所まで離れすぎている。

 彼女の動きが小さくなっている。

 ウィウィがその側で吠える。

 妹が一歩進んでまた呪文を唱える。

 一歩進んでまた唱える。

 ようやく考えがわかった。氷が割れないように足元を補強しながらカッシュの所まで行くつもりなのだ。実際に数歩で届きそうな距離だ。咄嗟にそんなことができるなんて本当に優秀だ。

 だが、それでいけるのか。

 そこから五歩。

「カッシュ、こっち」

 しかし、もうカッシュは顔を上げていない。顔が水に浸かっている。妹は氷の上に腹ばいになって手をのばした。まだ全然届いていない。

 さらに五回目の詠唱。

 ウィウィが妹の横に来て吠える。

 それが合図であるかのように氷が割れて妹が水に沈んだ。

 ようやく僕は走り出す。どうするべきか。

 妹にたどり着く前に足元の氷が割れ、僕も水に沈んだ。痺れるような痛みが体中を刺す。息が吸えない。

 そうか、そりゃそうなるか。僕の方が重いし、足元を補強もできていないのだから。

 もがく。冷たさが体の芯に届かないうちに何とかしなければ。

 泳ぐ。妹の肩を引き寄せる。

「掴まれ」

 流雪リウシェが両腕で僕の左腕に抱きつく。

 僕は動かないカッシュに手を伸ばす。まるで届かない。横を過ぎる。二人は助けられない。妹だけだ。それも確実ではない。

 妹が僕の首に手を回す。何も喋らない。泳ぐ。思った以上に進まない。長くは保たないことがわかる。氷を叩き割りながら進む。薄くなっていて、すぐに割れるけど、大変なことには変わりない。氷が顔にぶつかる。骨に響く痛さだ。

 僕は湖の島を目指した。そこにたどり着けさえすれば歩いて水から出られる。距離としては大したことはない。十歩で行けるぐらい近い。しかし、あと何度氷を割らなければならないか。水の冷たさが一気に押し寄せてくる。体が動かなくなっているのが分かる。屈しそうになる。

 脚が、岩に触れた。妹を背負って立ち上がろうと思ったけど力が入らず中途半端に起き上がったまま前に倒れる。手の平が氷にぶつかり、突き出ていた尖った岩でこすれる。半透明な氷の上に血が広がる。衝撃は分かったけど痛みはなかった。

 妹を背負い、這うようにして岩場を進み、枯れた草の上に寝転んだ。腕も岩で切り傷だらけだ。妹は目を閉じている。動かない。暖めなければ。

 妹ならば火を熾せたのに。

 いや、僕だって回数をこなせば小さな火が出せる。

 何とか上体を起こす。本当はちゃんと立ち上がって背筋を伸ばして詠唱するのが一番成功しやすいはずだけど、それは無理だ。座ったまま手で印を組む。

「一つ。一つの命を火の精霊フラに」

 三や五のアーキにしなかったのは、それだけ難易度が上がり、過去に成功した試しがないからだ。もちろん、百回ぐらい試せば成功するかもしれないけど、そんな時間はない。

「畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え」

 枯れ草の地が赤く光る。これで成功しても失敗しても僕のアーキが一つ失われる。

「一つの命のお力をハラとしていまここに顕現させ給え」

 何も起こらない。当然だ。一度で成功した事などない僕は十アーキ以上精霊に捧げなければならないのだ。

 気力を振り絞って繰り返す。もしかすると、これほどの窮地で唱える呪文ならば、真の力に目覚めていつもより少ない回数で大きな炎が出るのではないかなんてことを少し思った。

 何度目か分からないが、多分十回以上の詠唱の果てに両手の間に小さな火球が現れた。

 僕は慌てて足元の草に火を放った。

 しかし、濡れた草は燃えにくく、小さな火はあっさりと四方に散ってしまった。

 肝心なところで失敗してしまった。

 僕はもう一度詠唱を始める。足元が光る。

 焦りと絶望。そんな状態では余計に魔術が失敗しやすくなる。

 寒い。

 眠い。

 僕に魔術師としての才があれば。

 また小さな炎が現れる。それを今度は濡れていない枯れ草に向ける。しかし、両手から離れた瞬間に火は消えてしまった。これが才能だ。

 精霊を罵る。それでも詠唱を続ける。状態を起こしているのが辛い。

 衝撃。いつの間にか枯れ草と砂利の上に横たわっていた。

 また精霊を罵る。もう僕のアーキが残されていないから成功しないのだろうか。だったら、為す術はない。何と引き換えでもいい。妹を助けたい。

 僕は呪文を繰り返す。罵りながら。

 何度繰り返せば良いのか。

 いつの間にか、僕は意識を失っていた。

 

 

 目が覚めると自分の部屋のベッドだった。

 頭が痛い。腕が痛い。足の先が痛い。

 窓は明るい。昼間なのだろう。透明な窓板は高価なので、僕の部屋は白い半透明のものを嵌めてある。

 動こうとして背中も腰も痛いことがわかった。

 突然何があったのかを思い出す。

 妹はどうなった。

 ベッドから無理矢理起き上がって立とうとしたらそのまま床に力なく崩れ落ちた。

 右手を古びた床板に伸ばして体を支えようとする。

 腕の部分は擦り傷と切り傷でたくさんの筋となっていて、手のひらも大きく削れたように傷になっている。

 そして、右手の薬指がなくなっていることに気がついた。

 

 

 助かったのはウィウィのおかげだった。森からの帰りで近くを通りかかった猟師がウィウィのただならぬ鳴き声を聞き、湖へ様子を見に来たのだ。

 猟師は湖の北の岸にあったボートを氷の上を滑らせて運び、カッシュを引き上げ、僕達を島から運んだ。

 カッシュは助からなかった。

 僕と妹は助かった。

 父親は喜んだ。僕はカッシュを助けられなかったことを悔いた。レレクおばさんに会うことができなかった。

 そして、妹は変わってしまった。

 魔術が使えなくなってしまったのだ。

 

 

 授業が終わり、生徒達が帰っていったらしい。僕等は裏口から教室に通された。先生が残っている。

 今日は妹の様子を見てもらうことになっており、父は僕と妹を連れて魔術学校に来ていた。

「一つ。一つの命を火の精霊フラに」

 印を組んだ流雪リウシェが先生の前で呪文を唱える。感情を押し殺した鋭い表情は今までと同じに見える。

 以前ならアーキ一つの詠唱であってもそこそこ大きな火球を出せていた。もちろん、一回の詠唱でだ。

 火が出ないので、妹は詠唱を繰り返す。

 魔術学校の先生は皺だらけの顔に穏やかな表情を浮かべその様子を見ていた。

 父の方が不安を隠せないでいた。

 来年の夏には都の魔術学校へ入学も決まっていて、楽しみにしていたのだ。魔術学校を卒業すれば将来も良い職につくことが約束されていた。

 いま、それが揺らいでしまっている。

 妹が呪文を詠唱する。

 十五回目。

 小さな火が妹の両手の間に生まれた。まるで僕が作り出したように頼りないものだった。

 妹が先生を見た。その表情は期待に応えられず申し訳ない、といった感じだったが、先生は笑みを浮かべて言った。

「なるほど。しばらくは魔術から離れるのも良いかもしれませんね」



 魔術を実現させるためには、まず呪文を覚えるところから始めなければならない。

 魔術は精霊の力を顕現させるための懇願であり、唱える側が真剣でなければ聞き入れてはもらえない。呪文を覚えることは当たり前だ、という考えがある。

 今までは正直疑問に思っていた。

 僕がいくら呪文を正確に覚えて、真摯な心持ちで、おまけに背筋も伸ばして詠唱したって駄目だった。魔術が顕現するかはどう唱えるかなんて関係なく、本人の魔術師としての素質、才能にのみ依存するのではないかと。

 でも、ちがったのだ。

 妹には魔術の才があった。少ないアーキで大きな奇蹟を顕現することができた。

 でも、あの事故でその力が消えてしまった。

 才能だけではないのだと、僕は改めて思い知らされた。

 魔術師の先生は、大きな衝撃を受けてしまったために、平静な心で魔術を使うことができなくなっている、というようなことを父に言った。

 妹は黙って俯いていた。

 その時の表情で、そうじゃないのだと僕は察した。

 長い間妹を見てきたし、あの時、氷の上でカッシュを救おうと必死に詠唱を繰り返していた姿を見ていたから、何となくわかる。

 きっと疑問を持ってしまったんだ。

 本当に必要な時に役に立たなかった魔術に、果たして意味があるのかと。

 妹は僕と同じ普通の学校に通い始めた。

 

 

 そう言えば、あの事故の時、僕と妹は湖の島で倒れているのを猟師に発見された。

 その時、周りの草の一部が燃えており、その炎のおかげで体温の低下が防げたのだろうと言われた。

 妹が気力を振り絞って魔術で火を付けたのだと皆は妹を褒めそやした。

 流雪リウシェはそんな記憶がないと言っていたが、僕が大の魔術好きでありながら、魔術学校には進めなかったことを皆は知っていた。だからそれ以外にありえないと思ったのだろう。

 

 妹は少しずつ外へ出て他の女の子と遊ぶようになり、明るさも戻ってきた。

 僕は魔術学校の先生のところへ行き、古い本を借りて家で読み耽るようになった。時折、妹が魔術を使う気になっているかを先生に聞かれたけど、僕は分からないと答えた。身近にいる僕が魔術のことを調べるのは妹への良い刺激になるかもしれないとも言われた。確かに、流雪リウシェの力がこのままなくなってしまうのはもったいない。

 優れた魔術師は多くの人々の生活を支える貴重な存在で、先生も妹のことを気にかけているのだった。

 もう、僕は妹と遊ぶこともなくなった。時々、二人で森へ薪や山菜を採りに行くよう言われたときは以前のように一緒に出かけた。森に行く途中であの湖の側を通ることがある。静かな湖面に浮かぶ島。湖岸で釣りをする人。僕等はその様子を見て、何も言わずに通り過ぎるのだった。

 

 

 一年が過ぎても妹が魔術を使えるようにはならなかった。魔術学校への復帰を強く望んでいたはずの父も、その話題を口にすることはなくなった。

 僕は学校を卒業して村の製材所で働くようになった。

 自分でお金を稼ぎ、大半を父に渡しても自分で使えるお金は子供の頃と大きく違う。

 魔術学校にある本だけでは飽き足らず、僕は近隣の村や、少し大きな町に出かけて魔術関連の本を買い集めるようになった。

 

 

 久々に魔術学校の先生の元を訪れることにした。

 ある疑問に答えてもらうためだ。

 普通学校から帰ってきた妹に行き先を聞かれたので魔術学校だというと一緒に行くと言った。

「前の学校を避けているのかと思ったよ」

「そうだけど、先生には心配かけたし、ちゃんとお礼も言っていないし謝ってもいないから」

 と気乗りしない様子で答えた。

 僕は本を借りるために何度も通っているが、魔術学校までの道は妹にとっては久しぶりだろう。少し離れたカッシュの家の前を通る。

 庭には誰もいない。衣服が干されている。

 僕等は無口になる。

 

 

 生徒が帰った後の教室で、先生は大きな石版に明日の授業のためと思われる呪文を書いていた。

 妹が先に口を開いた。

「先生、お久しぶりです」

 僕はともかく、妹の来訪に先生は心底驚いたようで、とても喜んでいた。

 変わりないか、学校には慣れたかという先生の質問に答える妹。そのやりとりを僕は黙って聞いていた。

 魔術の話は出なかった。

 一通りの挨拶が終わったところで、僕は質問があるのですと切り出した。

「寿限無詠唱は何故広く知られていないのでしょうか」

 僕が手に入れたのはエイフォンという昔の偉大な魔術師が書いた本だった。そこには呪文詠唱時に用いることが可能な『寿限無』という長さについての説明があった。己の持つ全ての時間を表す言葉。つまり、魔術師の寿命と引き換えに、より大きな影響を与える魔術が使える。

 究極とも思えるやり方だけど、それはまったく知られていなかった。

 妹に聞いても初耳だと言われた。

 こうなると、そもそも出鱈目であるという可能性がある。でも、確かめようがない。平凡な才能の魔術師では一度の詠唱で成功するかわからない。そして、失敗しても唱えた分のアーキは奪われる。つまり、成功しようが失敗しようが自分ではその結果を見届けられないのだ。

 しかし、エイフォンほどの人物が自分の本にそんな嘘を書く意味が分からない。

 もうこれは先生に聞くしかないと思ったのだ。

 僕は肩から提げた古いフートゥンの口を開いて、エイフォンの本を採りだした。先生の机に載せる。

 年老いた魔術師は表紙を一瞥して「おお、懐かしいな」と言った。「まあ、わしの家のどこかにあるはずだが」と続ける。やはりそうだった。

 学校に並んでいるのは先生が選んだものであり、そこまで専門的なものは置いていないのだ。

 僕は「この本の名前を言えば貸してくれましたか?」と訊ねる。

「いや、持っていないと嘘をついただろうな」

「何故です?」

「そりゃあ、寿限無詠唱は魔術師の間では禁忌の詠唱だからだよ」

「こんなにすごそうなのに?」

「だからだよ」

 先生は立ち上がって机の上のポットから珈琲を注いだ。

「冷めたな。今日は夜に古い友達と会う予定があるんだ。昔、都で一緒に働いていた頃のね……まあ、もう少し時間はある。珈琲を新しく淹れるよ。君達も飲むかい?」

 まだ話を聞いてくれると言うことだ。僕はうなずいた。家では珈琲を飲まない妹も頷いた。



 小さな焜炉に火を付けるのに、先生は普通の燐寸マッチを使った。

「呪文で点けるのかと思いました」

 僕の言葉に先生は笑う。

「そんなことで寿命を縮めてどうする。魔術師は魔術でなければできないこと以外にアーキを消費しないよ」

 鞄に珈琲の粉やし器をしまうと先生は大きな石板の前に、まるで授業のように立ったまま話し出した。

「つまりだ。寿限無詠唱なんてものが広く知られてみろ、魔術を使う時にそれを期待されるだろ。今にも氾濫しそうな川の土手に石を積む。日照りの畑に水を撒く。地震で倒れた建物の下から人を救い出す。いずれもそれなりにアーキを使う。それでもすぐに片がつかないことも多い。そんな時に人々が寿限無詠唱を知っていたら、それを期待するだろう。彼一人が犠牲になってくれれば、皆が助かるのにと」

 ああ、それはそうだ。

「基本的に命を削る仕事だからな。それ故に犠牲という役割を魔術師に求める敷居はかなり低い。もちろん、寿命を多く削る呪文を唱えることもある。でも、それは魔術師自身の判断だ。己の危険を顧みずに人を助ける。それは魔術師じゃなくても同じだ。そういう時はある。君ならわかるだろ」

 僕は頷いた。

「おかげで納得できました。貴重なお話をありがとうございます」

「いや、いいんだ。君が魔術について研究をしているのなら色んなことを知るのを止めるつもりはない。ただ、その辺の事情は汲み取ってもらえるとありがたい。実のところこれは国王も承知なんだ。魔術師への負担を軽くするために魔術に関する情報の一部を隠すというのはね。だが、古い本を詳しく調べればたどり着くことはできてしまう。君のように」

「なるほど。もちろん、僕も魔術師に対しては敬意しかありません。彼等の活躍を邪魔するようなことはしませんよ」

「そうしてもらえればありがたい」

 そして僕は本題に入る。

「先生、魔術師という存在がこの大陸に広まったのはいつからかご存じでしょうか」

 もちろん、魔術学校の先生にする質問ではない。先生は笑みを浮かべた。

「エイダ女王の頃だから、いまから三百年ぐらい前だな。それ以前に村には操術師や祈祷師と呼ばれる存在が集落に一人はいた。彼等はおそらくそれぞれの家に伝わる魔術の使い方を知っていたのだろうと言われているね。その秘法をエイダ女王が無理矢理聞き出した……金や情や脅しや、それこそあらゆる手段でね。そして、誰もが呪文を唱えれば、魔術は使えるのだということを明らかにした」

「でも、実際には誰もが魔術師になれる、というわけではないですよね。僕みたいに」

「まあ、向き不向きはあるようだが、一般的に親が優れた魔術師であれば、子がそうである可能性は大きい。お前さんのところも、母親がそうだったよ。若い頃に一時いっとき魔術師をしていた」

 初めて聞く話だった。

 母の記憶は僕にはぼんやりとしか残っていない。妹はまったく覚えていないだろう。

「エイダ女王は魔術を多くの人が使えるようにしたんですね。それが今日こんにちのような世界を思い描いてのことだとしたら、英断でしたね」

「ああ、そうだ。おかげで人々の暮らしは色々と楽になった。特に井戸を作る技術はもう魔術なしでは考えられない」

「先生、魔術師が呪文を唱える時に呪文で費やすアーキの量ってどうやって決めるんですか? 例えば井戸を掘るときに十アーキなのか五十アーキなのかは何を根拠に数字を選ぶのでしょう」

 これは以前から気になっていたことの一つだ。

「そうだな……君は自分が魔術を唱える時、一アーキの呪文を何度も唱えた。その結果出てくる火の大きさはある程度予想できただろ? そんな感じだ。石を子供の時から投げていれば、どれくらいの力を出せばどの程度飛ぶか分かる。卵を割るのもそうだ。軽くテーブルにぶつけてひびをいれる。力一杯叩きつければ割れてしまう。魔術だって大まかなところは呪文を唱える前にわかる。もちろん、最初から鋭い感覚を持っている者もいる。それも才能の一つだ。ただ、何度も呪文を唱える魔術師として生きていくのであればその見積もりが正確であるに越したことはない。そういった精度を上げていくのも魔術学校で学ぶ事の一つだ」

 その辺りを妹に訊いても理屈は分からないけど何となく分かるのと言われた。他人に説明がしにくい感覚なのだろう。

「もう一つ教えてください。魔術師は一生でどれくらいのアーキを使えるのか、どうやって知り得るのでしょう。呪文が自分の寿命を縮めていることをわかっているでしょうけど、今までの積み重ねがどれぐらいなのか覚えておくのは大変ですよね。もう、これ以上使っちゃだめだ、という明確な線を引くのは難しくないですか? ついつい使いすぎて、ある日、突然死を迎えるなんてことになりかねない」

 先生は「それはわかるさ」と少しだけ笑いながら答えた。

「お前さんの身近には魔術師がいなかったんだな」

「いえ、先生がいますよ」

「まあ、魔術師を引退してからの儂しか知らんからな」

「それはそうです」

「わしが幾つかわかるか?」

 それは問題ない。村には年寄りがたくさんいる。製材所のクウア爺さんは確か七十だと言っていたから、それより少し若いぐらいだろう。

「六十五ぐらい?」

 先生は「はずれだな」と首を振った。

「お前の親父さんは幾つだ?」

「父さんは確か今年で四十九です」

「そうか。儂も昔はあいつと遊んだもんだよ。儂は三つ歳上だ」

 僕はそこで初めて知った。アーキを消費して魔術を使うことの意味を。

 思えば今まで読んだ本にもそのようなことを匂わせる記述はあった。しかし、誰もあえてはっきりとは書かないし、僕の周りの人も口にしないのだ。

 彼等が人よりも早く歳をとっていることを。

 彼に対しての感謝と尊敬の念が改めて湧き上がる。

 新しく知った事実に満足して今日一番聞きたかったことを止めようかと思った。

 でも、これだけは聞いておかなければならない。僕のためだけじゃない。きっと先生も興味があるに違いない。

「先生、操術師達の歴史を調べたことはありますか?」

「いや、ざっくりとしか知らないな」

「古い話になるので、それについて書かれた本となると寿限無詠唱よりも希少なんです。僕も一冊しか見つけられませんでした。あまり知られていないバロルという歴史家が記した『中原諸国の成り立ち』という本にかつてどの村にもいた存在として操術師達の話が少し載っています。そこにも確かに彼等が短命であると書いてありました」

「まあ、子細は違えど原理としては同じ事をやっていたわけだからな」

「そうなんですよ。でも、それ以外にも気になるお話があります。当時中原を平定していたエト王国の若い王妃が病気になったときのことです。突然始まった腹痛に苦しむ王妃のために王様は国中の医者を招きましたが、その病を治せる医者はいませんでした。王妃の症状からおそらく盲腸だろうと医師達は判断してました。今だって症状が軽ければ薬で治せることはあるものの、とても危険な疾病です。それに王妃はかなり痛がっており、薬は効かないようでした。困った王は操術師達に頼るため近辺の村へ伝令を派遣したのです。元々この辺りには野盗が蔓延っていたのを、エト王が国軍を使って一掃して平和が訪れたそうで、多くの人々が王に対して感謝の気持ちを抱いていましたが、彼等とて、医者が匙を投げたほどの病人を治癒できるとは思っていなかったようで、名乗りを上げる者はいませんでした。そんな中でバラフという村の操術師ツェククが、恩人である国王の望みであれば何とかしようと、孫娘を伴って城に来たそうです」

 僕は先生の様子を覗いながら話をしていた。椅子に座り、穏やかな表情で、やや俯いている。

「この話はご存じでしたか?」

「どうだったかな。昔に聞いたことがあるような気がするが」

 その声音でなんとなくわかる。

 先生は知っているのだろう。

 それでも僕は話を続ける。

「詳細は明らかにされていませんが、ツェククが娘と王妃の部屋に籠もって祈りを捧げたそうです。そしてすぐに出てくると娘が王に何もかもうまくいったと告げました。驚いた王が部屋に行くと、王妃は痛みが消えたと安堵の笑みを浮かべていたそうです。慌ててツェククに礼を言おうと戻ってきたところ、姿が見当たらない。従者に訊ねると既に城を出たという。慌てて後を追って、孫娘に手を引かれて城の門を出ようとしていたツェククを呼び止めました。

 そこで、王は跪いて礼を言ったそうです。一国の王が門兵や庭師、従者が見ている前で膝をついたというので、この話は人々に驚きを与えたようです。

 王妃の病気は本当に治っていました。王はバラフの村に改めて多額の礼を支払い、ツェククの名は国中に知られるようになりました。人々は『隻眼のツェクク』として彼を敬い、操術師の力が改めて人々に認識された出来事となったと本には書かれています。これ以降操術師は長く尊敬の対象となり、特にバラフ村の操術師は神格化され、後にエト王国がナザスザン国に併合されてからも重用されたそうです。そして、エイダ女王による大規模な操術師招聘しょうへいの際もバラフは免除されている。そこまで特別扱いされました」

「人の病を治す魔術は本当に貴重だからな。盲腸だとしたら、儂の知る限り、十万アーキは使うことになるし、一度で成功するかもわからない。それだけの魔術を使う才がツェククにはあったということなのだろう」

 十万アーキとは、つまり五千日だ。

「確かに、彼は何度か村人の病気を治療しています。晩年には孫娘が罹った病の治療もしています。で、歳をとって失明して引退したあとはその孫娘に看取られて亡くなっている。七十過ぎまで生きていたと言うから、かなり長命ですよね。大規模な魔術治療を行った人とは思えないほどです。跡継ぎは彼の息子、そして孫娘と、バラフ村の偉大なる操術師は代々受け継がれていきます。村にはわざわざ一族のための墓があり、ツェクク以前の者も皆同じ墓石の下で眠っています。ちなみに村にある墓はそれだけです。それ以外の人達は適当に森に埋められてお終いだそうです。だから、彼等だけが特別なのです」

 妹は黙って聞いている。挨拶をしたら適当に帰ってもいいと言ってあったが、夕暮れの部屋と同化したように大人しく座って僕と先生を見ている。

「その墓にはこう刻まれているそうです。『己の光を人々に分け与え続けた誇り高き者達』と。これ、ツェククやその子供もそうなんですけど、どうもこの一族は死ぬ前には目が見えなくなっているらしい。そんな記述がありました。そこで僕は思ったんですよ。彼等はアーキを使っていなかったんじゃないかって」

 部屋には夕日が差し込んでいる。透明な橙の光に照らされた床板を見ながら先生がため息をゆっくりと吐き出す。それで僕は自分の考えが合っていることを確信した。

「儂の口からは何も言えない」

「僕は単に知りたかったのです。親が優秀な魔術師だと、子もそうなることが多い。これは操術師の家系が色んな村で続いていたことからもそうだと思われます。ただ、必ずではない。操術師も優秀な術師を見つければ養子にして跡継ぎとしてすることもある。母親が優秀だった僕は魔術の才がなかった。そんなこともあると思っていました。でも、先生。僕は知っているんです」

「何を知ってるの?」

 妹が初めて口を挟んだ。少し僕は驚いた。この話は何度か僕達の間で話されていたが、その度に辛くなった。妹も同じだろうから。

「カッシュが湖に落ちて、僕等が助かったとき、周りの木や草が燃えていた。必死になった妹が魔術を使ったのだろうと皆が言った。けど気を失った流雪リウシェは魔術を使えるような状態じゃなかった。そうだろう?」

 妹がうなずいた。

「無意識の詠唱なんて熟練の魔術師じゃないと無理だと思う」

 先生が「まあ、わしもそんな例は聞いたことがないな」と言う。

 僕が言おうとしていることを、もう知っているのだと確信する。

「ツェククが来るときにはしっかりと歩いていた。しかし、帰りには娘が手を引いていた。疲労はあったかもしれない。王はツェククの顔を見て跪いた。一国の王にそこまでさせた何かがあったのではないか。それから隻眼と呼ばれるようになった。王妃を治す前は両目があったのではないかと僕は考えました。

 妹を島に引き上げた時、このままでは二人とも凍えてしまうと思って僕は必死に火球を作るための呪文を唱えました。でも、火が弱すぎてうまくいかなかった。万全な状態であっても火力は小さかったし、身体が震えていて言葉も明瞭じゃない詠唱だから、何回唱えたって無理だと思っていた。でも死が目の前に迫っているときに諦めることはできない。やけになった僕はアーキじゃ満足できないのなら指でも目でもくれてやるから火をつけてくれと頼んだのです。そして気を失いました」

 僕はいつもしている汚れた鹿革の手袋を外し、右手を先生の顔の前で広げた。

「薬指がなくなりました。切り口もきれいに肉で埋まっているし、痛みもなかった。この指が火になったのだと僕は考えています。呪文詠唱で精霊に受け入れられるのはアーキだけじゃない。身体の一部を差し出すことによって精霊の力を借りる。そういうやり方があるのだと僕は思います」

 先生は床を見ているだけだった。

 妹が僕の右手に触れてきた。そして掠れた声で言った。

「ありがとう」

 先生が立ち上がった。

「魔術は人々の役に立つ。暮らしを支えるべき技術だ。それがエイダ女王の目指したものだったという。だから、できるだけ魔術を馴染みやすいものにしたかった……それでも魔術には代償が必要となる。アーキを少しずつ消費するというのは人々が受け入れやすいものだったのだろう。代償の影響がすぐにはわからないからな。しかし、身体の一部を差し出すのは駄目だ。火を点ける代わりに指を失うなんて奇蹟は人々には受け入れがたい」

「だけど、ツェクク達の魔術はそうだった」

「まあ、おそらくそうだとは思う。しかし、そもそも肉体を削って術を使う、というのは誰にでもできるものではない。ここがアーキを使うやり方と大きく違う点だ。それゆえ秘密にしやすかったというのもある。わたしも過去に試みたが、無理だった」

「失敗したら指や目が失われるような方法を試したというのですか?」

アーキと違って失敗した場合は代償を支払わなくてもいい、というのが大きな特徴だ。それに、指で試す必要はない。髪の毛一本でも小さな魔術なら引き起こせると聞いている。まあ、実際には成功例を見たことがないから分からないのだが」

 僕は自分の胸の鼓動が早くなったのを感じた。

「先生。呪文はアーキの部分を髪の毛に変えれば良いのですか?」

「そのはずだ。それ以外の呪文を君は知らないだろう? もし君があの島で成功させたのなら、その方法でいけるということじゃないか」

 あの時はそんなに正しい唱え方ではなかったと思うが、いま使われている呪文のやり方を真似るというのは間違っていなさそうだし、失敗したところで失う心配がないというのなら問題ない。まあ、どのみち髪の毛一本だ。僕は大きく息を吸った。指が一本足りないが一応、手で印を組む。妹の視線を感じる。

「頭髪一筋。頭髪一筋の力を火の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え」

 詠唱をしている時からはあった。

「火の精霊フラともしびありがたし、火の精霊のご加護ありがたし、火の精霊の怒りなおありがたし。我の感謝を聞き入れ給え。願いは祈り。祈りは言葉。毛髪一筋のお力をハラとしていまここに顕現させ給え」

 小さな火花が散って指先ほどの火球が現れた。驚きながらそれを珈琲のカップに移動させる。小さな炎は飲みしの珈琲に触れると呆気なく消えた。どの毛髪がなくなったのかはわからない。

「……できるのか。初めて見たよ。右側の髪が一本薄く光って消えたよ」

 先生が呟く。わたしも見たと妹がうなずいた。

 先生はしばらくカップを見てから印を組んで僕と同じ呪文を唱えた。

 何も起こらなかった。

「やはり誰でも、というわけではないようだな」

 先生は何度か呪文を唱えた。いずれも失敗だった。

アーキを使ったやり方とは根本的に違うのだろう」

 僕は頷いた。

「そもそも、僕は一度しか詠唱していません。アーキを使う場合は十回以上詠唱が必要だったのに」

「身体の一部を差し出す魔術が失敗しても失う、というものであれば、誰も使おうとは思わないだろうからな」

 僕は立ち上がった。知りたいことの答えを得ることができて満足していた。

「先生、ありがとうございました。今日お伺いした甲斐がありました」

 妹と一緒に辞去の挨拶をする。

 先生は別れ際に言った。

「君は自身が魔術を使えるとわかって、どうするんだ?」

 僕は笑って薬指のない右手を見せた。

「魔術の研究は続けます。好きなので。でも、僕の魔術は正直使えませんよね。髪の毛ぐらいならいいけど、ちょっと実用的な力を出そうと思えばそれなりの部位を失うことになるので、危険すぎます」

「それはそうだ……だが、自分が力を持っていると知っている者は、それを無いものとして生きることは難しいぞ。そのことに気をつけてくれ」



 帰り道、家が見えてきたときに妹が「魔術が使えて嬉しい?」と言った。

「うん。憧れてはいた。けど、もういいかな。魔術の歴史を知る者としては、このやり方は表に出ない方が良いと思うんだ。先生がそれを望んでいるし」

「そうかもね」

「魔術は端から見ている方が楽しいよ」

 妹は轍の残る道を見ながら少し声を落として「そうかもね」と同じ言葉を繰り返した。

 

 

 その年もトオ湖の氷は薄いと言われていた。

 島に近い方では釣りをするなと通達があった。これは大人も子供もだ。カッシュの事故以来村人は特に気をつけるようにしていた。

 レレクおばさんがトオ湖の辺りをうろついているそうだ。

 魚を釣りに来た人達が氷の上に陣取って辛抱強く糸を垂らす。そこへおばさんがやってきて岸にじっと立って島を見ているのだという。

 遠巻きに見ている人が殆どだが、誰かが挨拶で声をかけるとちゃんと返事をするそうだ。

 父が夕食の時にそんなことを話してくれた。

 とても心配しているのがわかった。

「どうして岸に立っているのかしら」

 妹が呟いた。

 氷が張っているのだから、上を歩ける。皆はそうして魚を釣っている。

「さあな。だが、気落ちしている彼女の為に、何かできることはないだろうか」

 父はそう言って頬杖をついていた。

 レレクおばさんが氷の上に足を出さない理由はわからないけど、僕だってもう必要もないのに冬の湖の上を歩いたりしないだろう。

 割れるのが怖いのだ。

 

 

 その頃から、妹の部屋の前を通ると木が焦げる匂いが幽かにするようになった。僕等はあの事故からしばらくして部屋を分けるようになった。これは僕が十二になったらと前から約束していたことだった。

 夜、耳を澄ますと妹の詠唱が聞こえた。

 彼女は魔術を再び使おうとしている。

 何がきっかけになったのかはわからない。でも、魔術を使う才能があるのなら、それを無駄にすることはない。

 

 

 妹と薪を取りに森へ行くことになった。もうしばらくすると雪が降るかもしれない。今年は氷が薄いとは言え、ずっとこのままとは限らない。雪が積もってしまっては薪を取ってくるのも難しくなる。冬の寂しい道を、小さな荷車を引いて僕等は森へ向かった。

「午後から天気が崩れるかも」

 妹の言葉に僕は頷く。妹に魔術を再開したのかと訊こうと思ったけど止めた。

 トオ湖の側を通るとき、いつものように僕達は無口になる。できれば湖の方を見ないようにするのが暗黙の了解というやつになっていた。

 しかし、その時は違った。

「あれ見て」

 妹が僕の腕を引っ張る。

 湖の方を指している。

 湖面は凍っていて、釣りをしている人影がぽつぽつとある。

 妹が指しているのは岸に一人で佇んでいる女性だった。

「レレクおばさんだよね」

 僕はうなずいた。

 父の話を思い出していた。

 だけど、いまここで彼女に掛ける言葉を僕は思いつくことができない。

 僕等はそのまま森へ向かい、薪を集めた。

 冬の森が寂しく感じるのは鳥のさえずりや木々の葉が少ないせいだろう。細い枝を踏みしだく音や、落ちている木切れを手斧で叩き割る音が乾いた木々の間にやけに響く。

 小さな荷車が一杯になると麻紐で崩れないように結わう。僕は腰で引棒を押しながら森の中を進んだ。昔は荷車に薪を積み過ぎると進めなくなって妹に押してもらいながら帰ったものだ。

 森から村へ向かう道に出たところで、なんと父が待っていた。隣町まで荷を運んで、今日は遅くなると言う話だったから僕と妹は驚いたし、例え早く帰ることがあったとしても、こんなところで会えるなんて思いも寄らなかった。

「いや、向こうで荷を受け取るはずの相手を待つことになっていたんだが、思いがけず早く帰ってきたんだ。天気が崩れそうだから予定を早めたらしい。で、ここを通りかかったときにお前達が薪集めをやるはずだと思い出してちょっとだけ待とうと思ったんだ。会えて良かった」

 父の大きな荷馬車に薪と荷車を乗せて、僕は荷台に、妹は御者台で父の隣に座った。

 妹は終始笑顔を浮かべていた。父も上機嫌で町で聞いた話をしている。もしここで会えなくても、どうせ同じ家に帰る。だけど、こんなちょっとしたことがとても特別なことに思えた。

 トオ湖の側を過ぎる頃には地平近くの厚い雲に日が隠れてしまい、かなり暗くなっていた。

 僕はさっきレレクおばさんを見たことを話そうと思って止めた。家に帰ったらにしよう。

 妹が「誰かいる」と言った。

 湖面を指さしている。

 僕は目を凝らした。暗い。夕暮れの湖は少し怖い。

 父が馬車を止めた。

 遠く湖上で小さな灯が揺れているのが見える。

 誰かが油灯を持って氷の上を歩いている。湖の西側、島の方へと向かっている。

「レレクおばさんじゃない?」

 妹が言う前に僕には分かっていた。油灯に照らされ幽かに浮かびかがった姿は間違いなく彼女だった。

「あれ以上進むと危ないな」

 父が馬車を降りて氷の上を足早に進んで行く。妹が後を追う。僕は二人を追うか、荷を見張るか少し迷った。

「レレク、その先は氷が薄くなっている。危険だ」

 父の叫び声にレレクおばさんが何か言い返したが、ここまでは聞こえない。

「そんなのは出鱈目だ」

 父の声ははっきり聞こえる。またおばさんが何か言っている。泣いているようだ。

 僕は気になって荷台から降りた。僕も説得に加わった方が良いかもしれない。でも、カッシュを助けることができなかった僕が行ったところで状況を悪化させるだけということも十分に考えられる。

「やってみなきゃわからないでしょ」

 その怒気を孕んだ叫び声は、いつも穏やかな笑みを浮かべていたレレクおばさんが発したものとは思えなかった。

「もうわたしには何もないんだから」

「水と土から人は生まれない。生き返るなんてよくある悪質な嘘だ。な、帰ろう。今年も氷が薄い。それ以上進むと危険だ」

 魔術の歴史と共に、ありもしない蘇生術や不死を騙る手法も発達していた。最後に触れた水と土、あるいは亡くなったときに着ていた服。それらを元に魂を呼び戻す。本当に古くからある詐欺の手口だ。騙そうとする輩は絶体にいなくならない。騙される人も残念ながら常に現れる。

「駄目よ。もうお金も払ってあるの。絶体にうまくいくって言ってたもの。もしもあの子が帰ってこなければお金を返すって。わたしの目の前で死んだ鼠が生き返ったの。だから本当なのよ」

 残念ながらそれもよくある手口だ。鼠の死体を動かすのに蘇生術は要らない。単に物を動かす魔術を使うだけだ。お金を払ってしまったと言うからには、もうその相手と連絡が取れなくなっていても不思議ではない。

 レレクおばさんは島へ向かっている。彼女が持っている油灯が揺れている。

 氷は島まで続いているようだ。だからといって安全とは限らない。父がその後をゆっくりと追う。

「父さん、それ以上は危ないから」

 父の少し後ろにいた妹が初めて声を発した。

 そうだ。あの時と似ている。飼い犬の後を追ったカッシュ。犬よりも重いから、ウィウィの手前で氷が割れてしまったんだ。

「分かっている」

 父の落ち着いた声。振り向いて僕を見た。

「東の桟橋近くにボートが伏せてある。それを持ってきてくれ。念のために」

 そうか。僕と妹を助けてくれた人がまさにそれを使った。予め用意しておけば対処できるかもしれない。

 もっと早くそれを思いつかなかった自分の不明を恥じつつ僕は岸へ向かった。

 氷の上を早足で歩く。湖を横断するように。走っても大丈夫かもしれないが、もしも割れたらと思うと怖かった。

 ふと、右手の岸に人が見えた。ちょうど夕方にレレクおばさんが立っていた辺りだ。

 もしかして通りかかった人が父の声に気がついて様子を見ているのだろうか。

 多分男の人だ。痩せて、少し前屈みなのはかなり歳をとっているということか。細かいところまでは見えないけど、多分知った顔ではない。

 よそ見をしながら曇天の夕暮れ時に凍った湖の上を早足に進むのはお勧めしない。転びそうになるからだ。慌てて僕は踏ん張って立ち止まった。足元の氷が割れなかったことに安堵する。

 今のを見られなかっただろうかと詰まらないことを気にしつつ岸の男に目をやる。

 その時、彼の足元が青く光るのが見えた。詠唱だ。暗闇でその光はとても美しく思えた。

 光は円を描くように男の前、湖の氷の上に広がっていく。詠唱時の光の強さは、一般に魔術の規模に比例する。こんな大規模な術を見るのは初めてだ。一体どんなことが起こるのか。僕等が歩きやすいように明るくしてくれるのか、などと考えた。

 光の輪が氷の上を滑るように迫って、僕に届きそうなところで掠れて消えた。

 次の瞬間、足元の氷が小さな音を立て始める。

 足元だけじゃない。前からも、右も左も後ろも、湖の上で氷が呻いているかのように、細かく硬い物を摺り合わせるような音が鳴り響いている。

 足が少し沈むような感触で、ようやくそれが氷の割れる音だと気付く。

 魔術? この湖の全体に?

 そんな馬鹿なと思った瞬間に、僕の足の下の氷が崩れ、体が冷たい水の中に沈んだ。

 もがく。驚きと冷たさで息ができなくなる。周りには氷の欠片ばかりだ。大きくても僕の頭ぐらい。這い上がることもできない。

 僕はほぼ湖の真ん中にいた。ボートのある桟橋までこの氷の浮かんだ中を泳ぐのは無理だ。半分も行かないうちに力尽きるだろう。

 父と妹はどうした。

 島は薄暗い空を背景に辛うじて見えた。

 でも、湖上に人影はない。見渡す限り、割れた氷が浮かんでいるようだ。氷を溶かよりは細かく割る方がアーキの消費は少ないのかもしれない。僕はもがきつつそんなことを思った。力は急速に失われていく。三人は僕より島に近いところにいた。父なら二人を、少なくとも妹を救えるのではないか。いや、彼等のいた場所はまだ島からかなり離れていたような気もする。できるだろうか。

 島の近くで湖面が青く光った。水面に浮かぶ氷の細かい影が浮かび上がる。ざらざらとした陰影の中に父と妹の肩が見えた。

 妹が魔術を使っているのだとようやく気がつく。一人で練習をしていた妹が、あの時と同じように魔術を使った。

 父とおばさんを助けてくれ。

 光はなかなか消えない。強い光だ。大きな魔術ということか。

 この美しい光景が僕の見る最後の光景でも構わないと覚悟する。

 不意に暗闇が戻る。

 どうなったのか見ることはできない。そろそろ身体の感覚が怪しくなってきた。

 周りでぶつかり合っていた氷が静かになる。そしてまた音が響き始める。先ほどの割れるときとは違う、奇妙な音が。

 まさかと思いつつ顔の側の氷に手を伸ばす。

 その塊は沈まない。しっかりと僕の手を支えていた。

 再び凍っているのだ。僕の周りの水面が。

 僕は慌てて手を伸ばし、ごつごつとした氷に指や手を引っかけて何とか冷たい水から這い上がった。

 氷の上に座り込んで、しばらく動けなかった。指を動かす。腕を動かす。島の方を見る。

 人の姿がある。僕と同じように座っているようだ。妹だろうか。いや、その傍らで横たわっているのが妹か。父はどこだ。気になって立ち上がる。

 島へ向かって歩き出す。転びそうになりながらできるだけ急いで。

 身体の感覚が戻ってくる。足取りも確かになりつつある。

 それにしても、酷いことをする。

 僕は岸の男を見た。

 まだそこにいる。

 手で湖面を触っている。凍っていることを確かめているのか。

 やつの狙いはなんだ。

 僕達が氷の上にいることを知っていた。

 そして、氷を溶かす魔術を使った。

 僕等は溺れかけた。だけど妹が魔術で湖面を凍らせたおかげで助かった。

 ああ、そうか。

 奴の目的は果たせなかったのか。

 岸にいる男の足元がまた光り出す。

 僕は絶望的な気持ちになる。

 暗闇に描かれる青白い円。湖面を広がる。やはり美しい。さっきのように。でも、恐ろしさを伴う光景だ。

 足元の氷が音を立て始める。

 普通は立て続けに大きな魔術を使えない。あの男にはそれができるのだ。

 いま、妹はおそらく虚脱状態なのだろう。

 慣れない者が大きな魔術を行うと脱力感に襲われる。気を失うこともある。湖全体を凍らせるほどだから、よっぽどだ。

 そこで僕は気がついた。

 妹が自身とおばさんと父を助けるだけであれば、周辺を凍らせるだけで良かっただろう。

 でも、湖全体を凍らせた。

 それはきっと僕がどこにいるのか分からなかったからだ。

 妹は僕を助けるために無理をして大きな魔術を使った。

 それなのに……

 突然そのことに思い至る。

 使ということに。

 優れた魔術師とは必要な時に的確な判断で術を使い、狙ったとおりの効果を出せる者のことだ。

 やるべき事を考える。二つだ。

 あちこちで氷が割れ始める。もう迷っている時間はない。

 何が必要か、すぐに思い浮かぶ。

 僕は呪文を唱える。

 足元が白く光り始めた。

 

 

 岸の男が脚を引き摺りながら去って行く。反撃を喰らって驚いただろうか。

 氷もまた固まった。辛うじて立っていられる程度で、あちこちに穴が空いている。

 僕は島の方へと向かう。凍らせることができなかった穴の数が増えてくるので、気をつけて歩かなければならなかった。

 やはり氷上の影は二つしかない。横たわっているのと、その傍らで座り込んでいるもの。どちらも女性だ。近づくと座り込んでいる影が僕を見た。レレクおばさんだ。だとすれば氷の上にうつ伏せで寝ているのは妹なのだろう。身体を起こしていられないほど消耗しているようだ。

 この辺りは元々氷が薄かったためか、広く水面が見えている箇所がかなりある。

 大きな氷の穴の真ん中を、レレクおばさんがぼんやりと見ている。僕もその視線の先を見る。うつ伏せで浮いているのはおそらく父だろう。

 僕は氷の縁を静かに足で叩く。次は少し強く。その次はさらに強く。

 いけそうだ。一瞬迷ったが飛び込んだ。

 暗い水の中で体中が動きを止めようとする。ああ、こんなに泳ぎにくいのか。

 父の身体を掴んで足で水を蹴り、何とか縁まで運ぶる。

 まず自分が這い上がる。次いで父の身体を引き上げようとする。

 レレクおばさんが手伝ってくれた。

 その顔にはおよそ表情というものがなかった。



 結局、父は助からなかった。

 父の居ない家はとても広く感じる。僕と妹は二人で暮らすことになった。

 レレクおばさんは笑わなくなっただけでなく、話すことを止めてしまった。

 おばさんの家には医者がしばらく通っていたけど、ひと月ほどして兵役に行っていた長男のヴルトが無事に帰ってきてからは二人で外を歩く姿を見るようになった。

 妹は普通学校にも魔術学校にも行かず、家に閉じこもるようになってしまった。ヴルトがお礼を言いに来たときも顔を出さずに自分の部屋のドア越しに会話をしていた。

 僕も仕事を続けるのは無理だった。父の残してくれたある程度の蓄えはあったけど、このまま食い潰していくだけでは先が見えない。

 あるとき僕は妹に「都に行こうと思っているので一緒に来ないか」と言った。

「行ってどうなるの?」妹は訊いてきた。

 ここでは僕ができる仕事がない。都であれば、何か金を稼ぐ手段があるのではないかと思う。人が多いということは仕事の種類も多い。それが理由の一つだった。

 妹はしばらく考えてから、一緒に行くと答えた。そこなら新しい生活ができると思うと、しっかりとした口調で言った。

 それは良かったと僕は答える。

 もう一つ、妹には明かせない理由があった。

 あの時、岸にいたのはこの村では見たことのない魔術師だった。

 湖全体の氷を壊すほどの術が使える者。しかも、二度続けてだ。経験を積んだ魔術師は高度な術をより少ないアーキの消費で行える。だから、妹のように昏倒するほどの消耗はない。

 そして、その少し前に僕は魔術学校の先生から聞いていた。

 昔、一緒に働いていた友人がこの村に来ていると。

 先生の仕事といえばもちろん魔術師だ。

 僕は先生に訊ねた。

 先生の友達は滞在中に足を怪我しませんでしたか。

 その通りだが、何故知っているのかと驚かれた。

 事情を話すと、先生にも思い当たる節があったのか、おそらくその友人が湖に現れた魔術師だと言った。

 魔術師は己が身を削りながら人々のために魔術を使う。しかし、常に感謝されるとは限らない。心ない言葉を掛けられることもある。魔術師の中には厭世的になり、人としての道を外れる者も少なからずいる。魔術の歴史にもいくらでも例があった。

 先生の友達はそちら側へ行ってしまったのだろう。組織なのか個人なのかはわからないけれど、人を騙すために魔術を使っている。相手から財産を巻き上げた後で魔術を使って始末をする。今回も僕等が全員溺れていたら、不幸な事故としか思われなかっただろう。

「都に行ったら改めて魔術学校に行きたいの。入学試験で優秀な成績なら学費は不要で、生活費も出る。わたしならきっと大丈夫だから」

 僕は残った右目で妹を見てうなずいた。

流雪リウシェなら優秀な魔術師になるよ」

 あの時、岸にいた魔術師に術を止めさせるために攻撃をしなければと思った。逃がさないよう左足の靱帯を切ろうと考えた時、心に浮かんだのは左目だった。それを使って呪文を唱えた。完全に切断はできなかったようだが、脚を引き摺るぐらいにはできた。

 そして、湖の氷をもう一度凍らせようとしたときに思い浮かんだ対価は左の腕だった。それと引き換えに呪文を唱えた。迷っている時間はなかった。おかげで僕と妹とレレクおばさんが助かった。

 隻腕の生活に不自由なことは多いが、次第に慣れた。日常で頻繁に行う動作の中で、燐寸マッチで火を点けるのは特に片手では難しかったが、急いでいるときは髪の毛数本と引き換えに魔術で対処できた。

 妹は都で暮らすのなら下町の小さな集合宿にしようなどと楽しそうに話している。久々に明るい口調が聞けた。

 あの時、湖全体を凍らせた妹は七万アーキの呪文を唱えた。きっと、それぐらい必要だと分かったのだろう。

 約十年分のアーキだ。才能はあるが経験の少ない妹の魔術で、魔術は成功したが、妹の人生からはいきなり十年が引き抜かれた。

 いま妹は身体だけ成人した女性のそれになり、心は以前のままだ。

 都には僕達を知っている者もいない。

「魔術学校を卒業すれば、きっと良い仕事に就けるから。そしたらお手伝いさんを雇えるぐらいになるかもね」

 楽しそうな妹の話を止めるつもりはなかった。

 魔術は人の為になる。ささやかな奇蹟の積み重ねは人々の生活を豊かにした。

 そんな魔術が僕は好きだった。

 だけど、魔術はそれだけではなかった。

 僕は先生からあの魔術師の名前を聞き出していた。

 レレクおばさんを騙し、父を殺して、僕や妹をこんな姿にした奴の名前を。

 都で生活をして、あの時の魔術師を見つけ出す。

 あの時は靱帯を切るだけで大変な代償を必要とした。僕はもっとこの魔術を効率よく扱えるようになる必要がある。

「そうと決まれば、試験の申し込みをしなきゃ。手続きの窓口は村の役場にないから、明日マートンまで連れて行って」

 やる気を出した妹は声を弾ませている。マートンは比較的大きな集落だ。

「ああ、そうだな。近いうちに都にも行って住むところを決めよう」

 この憎しみを妹には悟らせないようにしようと決めていた。彼女には誇り高き魔術師を目指してもらうのだ。

「もうどうしたらいいのか分からなかったけど、一気に色んな事が解決して目の前が開けた感じ」

 あの時、湖の真ん中で相手の足に怪我を負わせるため必死に、今までにないほど真剣に呪文を唱えた。

 そこには誇らしさなど微塵もなかった。

 ただ、詠唱しながら、父が家の中で歌っていた寂しげな旋律のことを考えていた。

「ありがとう流龍リウリュ

 目を輝かせている妹の目を、僕はまともに見ることができなかった。

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