(仮)世界の中心にいないボク
くさまくら
第1話 春休みのこと 黒い靄を祓う先輩のこと
ある日、それまで見ていた景色に違う意味を見いだしてしまうようになった。そんなことをしても苦しいだけなのに。
◇
万和(ばんな)2年、日本の首都圏並びに地方都市において空間に「黒い靄」の出現報告がSNS上で散見されるようになった。発端となった投稿は、当時の大学生の趣味のアカウントであったため合成映像と受け止められた。しかし、その学生の投稿に対するコメントに「これ、見たことある」というコメントが続いたことで事態は変わっていった。黒い靄は、学校・病院・会社など人が多く留まる場所に出現する傾向があり、必ず毎回見える人間と全く見えない人間、ある時見えるようになりまた見えなくなる人間が居ることがわかった。空間に出現する靄は時に、一瞬で霧散することもあれば数日間空間を漂うこともあり、色もセロファンのようなものから油のヘドロのようなものまでまちまちであった。靄が人々に認識されるにつれに人体への影響や発生原因の解明を希望した。しかし、靄を捕まえることすら難しい状況が続いた。
万和3年、地方都市郊外の中学校の文化祭にて、ヘドロの黒い靄が爆発的に拡がり今まで全く見えていなかった人間が触れることができるほどであった。ヘドロとなったもやは文化祭に参加していた生徒やその保護者など来校者たちの呼吸器から人体へ入り意識を失うものが続出した。文化祭は中止となったが幸いにして死者はなかった。この事件を扱った新聞では、調理機器のガス漏れかと報じていたが、文化祭の参加者や近隣住民は黒い靄に不気味な手を見たと証言する者や大きな蛇を見たという者が相次だ。
その事件を機に、教育機関を始め自治体や国が黒い靄についての調査並びに対策にのりだした。万和3年の民間の調査会社の報告によれば、靄を見たことがあると回答した割合は25人に1人程度で、靄が見える状態が継続して続くと答えた割合いは靄を見たことがある人間の1割以下であるが、継続的な把握が必要であろう。
◇◇◇
「……つまり何にもわかってないってこと!?」
マオはスマートフォンの検索エンジンの検索結果に対して、頭を抱えた。マオは自分の部屋の白い壁の前を漂う触れられない黒い靄をチラッと眺めた。靄がマオの視線に反応したのか、そうではないのか不明だかふわふわとこちらに近寄ってくる様に思われて、マオはスマホを抱えて布団に潜り込んだ。
「うう……、どうしよう」
マオは、靄が日に日に濃く重たい色になっていくことが恐かった。白い紙に墨汁を飛ばしてしまったかのような圧迫感が日増しに大きくなっていた。そして友達も父も母もマオの怖がる靄を認識できなかった。マオは静かに価値観を侵害されている気がしてならかった。
「マオさん」と部屋の外から声がした。
「マオさん、起きていますか?ご飯、召し上がりますか?それとも一緒にモーニングに行きますか?気分が変わって良いですよ」
「あ、今行きますっ!」
両親がそれぞれ単身赴任をすることになって、今月から祖父母と暮らすことになったのだ。祖母は、俺に気を遣ってくれているらしい。
リビングでは、祖母が白米と卵焼きと菜花のごま和えと味噌汁を用意してくれていた。
「モーニングも行きますか?」
「ううん、それは今度にしよ?こんなに美味しそうな朝ごはんあるんだもん。十分だよ。ありがと」
「そうですか。たんとお上がりなさい」
いただきます、とマオ手を合わせた。
祖母はマオの食事の様子を見てほっとして安堵の息をつくと、新聞を読んでいた祖父に煎茶でいいかと尋ねていた。
「あとで珈琲行こか」
「そうね。行きましょうか」
喫茶店でモーニングはこの辺りでは朝の日課らしい。朝御飯、モーニング、昼御飯、アフタヌーンティー、夕食……一日に何食食べるんだ、と初日に思った。祖母は、食べた分は動くんですよ、あと食事の量を調節すれば太りません、と胸を張っていた。喫茶店は社交場であり企業の応接室のようなものモーニングとはつまるところ商談の延長にあるもの、とはこの家で育った母の言だ。
「マオさんは、行きませんの?」
祖父が新聞を畳んで、こちらへ話を振ってきた。
「うーん……学校の下見に行きたいから、今度誘って」
「そうですか。近所をついでに見て回るとええですよ。暗くなる前にはお帰んなさい」
「はあい」
「私たちは喫茶店のあと買い出しにも行きますからね。お昼ごはんはどうしますか?おにぎり握ろうか」
「うーん。じゃあ、お願いします」
「梅干しと鮭でいい?」
「うん。ありがと」
祖母が冷蔵庫から鮭を取り出すとグリルに火をかけた。ご飯を炊飯器から大皿へ盛り付けて粗熱をとる。
祖母の台所仕事をぼんやり眺めていると祖父が財布から千円札を1枚取り出した。
「ええか?困ったら、連絡するんやぞ。タクシーを使うてでも、ちゃんと帰って来なかんよ。お金がなかったら家で支払いをするいうときなさい」
普段はのんびりとして無口な祖父は昔、教職に就いていたそうで時々すごく大真面目な顔でたくさん喋る。そういう時は言うことをきいてあげて、と母が言っていた。
「わかった」
「暑くなったら休憩しなさい。その時に使うとええ」
祖父は千円札をダイニングの机に置くと、お守りやと笑った。
「……ありがと」
祖母がそろそろ桜が咲き始めているでしょう。学校へ行く途中で見えるかもしれませんよ、と声をかけてくれた。「もらっときなさい」と机にだしたままの千円札を指で示した。
「使わなくてもそれはそれでええから、そんときは貯金しとき」
◇
祖母のお握りは塩がちゃんと効いていて、食べると元気が出た。
よし!と祖父のくれた千円とスマートフォンを持って玄関を開けた。その時、けたたましい音ともに目の前を黒い塊が横切った。
「え……何!?」
横切って行ったものを追って行くと、門扉に大きな鳥が止まっていた。
「烏……?え、この家にすんでるの?」
マオは思わず、祖父の自慢の庭を見た。庭のことはわからないが整っているな、と思っていた。ささやかな家庭菜園もあり時折、小鳥が来るのだと餌場や巣箱まで作っていた。
「え……烏は小鳥食べたりしない?」
チラリと鳥をみると、首を傾けてこちらを見ていた。時折反対の方向へ首を曲げたり首を伸ばしたりするので相づちを打っているようにも見え愛嬌が感じられた。一向に門扉から飛び立たないところもふてぶてしさがあって小憎らしくも可愛いかもしれなかった。
「えーと……、烏、庭にいてもいいけど、荒らしたりしないでね、じいちゃんもばあちゃんも哀しむから。あと、小鳥も食べないでほしいな。……それから、退いてくれませんか」
マオは可愛く見えてきた鳥に話しかけると、鳥はひとつ頷くような仕草を見せたあと「アア」と啼いて羽を拡げて門扉から飛び立って向かいの家の垣根の根本に降り立った。
ずんぐりとした身体と黒い身体が垣根の木の葉の緑によくはえていて、絵のようだった。
マオはこれも母のいうところ頃の田舎あるあるかな、と思いながら祖父母の家の鍵をかけた。
◇◇◇
来週から通う高校は祖父母の家から大通りまで出れば、3回曲がれば着く。道順は覚えやすいが、道程は東京駅から上野駅まで歩く以上の距離があった。住宅が立ち並ぶ中に時折、整ったやや大きな家があると思ったら喫茶店だった。どこの喫茶店の駐車場はどこも満車だった。
マオは飲み物を買おうと思ったが、コンビニは大通りの角あっただけだった。スマホで地図を確認してもこの先にコンビニはなかった。
祖父母が暗くなる前に帰って来るようにと言ったのは街灯が少ないからかと、電線やビルで切り取られていない青空を見た。家すらないということは目印もないのだ、日が暮れたら迷うかもしれない。スマホの充電が出来そうな施設もなかった。
周囲は見渡す限り田畑が続いていき、神社のこんもりとした木々が点々としていた。ひとまず目的の高校をと先を急いだ。
「確かに、3回曲がれば着くけどっ!」
マオの口から思わず独り言が出た。自分の声の大きさに驚いて、残りは唇を尖らせてつぶやいた。
「まさか、道自体がぐねっと曲がっるなんて聞いてないよ」
マオの歩く歩道の横を、枝を積んだ軽トラックがのんびりと追い越した。軽トラの行く先を目で追えば、ひらがなの”つ”のように元の位置へ道が続いて行くことがわかった。
「真っ直ぐな道にしとけよぉ」
マオの嘆きを烏がカァと嗤った。
マオが再び歩き始めたあと、烏の身体は崩れ靄のように霧散した。
◇
「ここだな?てーじこーこー?」
確かに門扉には、”県立堤治高等学校”とある。マオが来週から通う高校だ。
高校の敷地は広く、ここの卒業生だった母の話によれば校舎と体育館と運動場のほかに、弓道場や武道館にプールとテニスコートや部活動棟が独立して存在している程度には広いらしい。あと校庭に狸と狐が棲んでるらしい。そして周囲に何もない。田んぼからいきなり背の高い白槙の垣根が生えたと感じる程度には見通しがきいていた。ポプラの並木とバス停と校門の前の自販機以外は田んぼと畑だった。校門の中に大きなサクラの木が並んでいた。
ソメイヨシノの奥に枝下桜もあるようだ。
「……てーじで、いいんだよな」
マオはもともと4月から通う予定だった東京の高校に通う前にこの地方へ引っ越しをすることになったため、この高校についてよく知らなかった。この町にも母の生家があって、祖父母に会いに来る以上の思い入れがなった。編入試験は受けたものの、高校の名前も今一ピンと来ない、マオにとってはまるで自分のことでないように感じていた。
「つつみはり」
「え?」
「堤を治めると書いて、つつみはり、って読むんだよ。母校になるんだから読めた方がいいぞ」
校門から生徒が一人出てきた。濃紺の学ランの下から灰色のフードが見えていてマフラーみたいだ。鼻の頭の絆創膏がそばかすと跳ねた癖毛と合間って、わんぱくな印象を与えてた。
「ま、愛称は”てーじ”だから間違ってはないけど」
その生徒はマオの横を素通りすると、自動販売機に硬貨を入れた。ぴこんと音を鳴らし「残念ハズレ」と言った。ガコんと出てきた缶を生徒は取り出した。
「しるこかよ」
「汁粉?」
「そ。100円の何が出るかな、ってやつ」
生徒は自販機を指差した。
「なんか買う?」
「え……っと」
マオは、自販機をじっと見た。視界に入り込む黒いもやが邪魔だった。
1歩2歩と、自販機に近寄った。確かに3段目の右端に、なにがでるかな、と手書きされていた。商品が黒く塗りつぶされたボタンに引き寄せられるように、スマホを取り出した。電子マネー決済は使えなかった。手に入らないものはより魅力的に見えて、スマホのケースに入れた祖父にもらった千円札を自販機に入れた。
ガコン……と商品が出てきたあと、気の抜けたファンファーレが鳴り「あたりだよ、あたりだよ」と自販機が機械音声を流した。そうしてもう一度、ガコンと商品を落としたのだった。
「炭酸と、……おでん?」
マオが取り出し口から順に品を取り出すと、生徒が堪えきれないと笑いだした。
「大当たりやん」
あははと、生徒は一頻り笑ったあと「ごめんな、なんか人より笑いのツボがズレとるらしいねんけど、止まらへんねん」と言った。
自販機を示して「お釣、忘れんときね」とマオに伝えた。
「あ、ほんとだ」
「な、俺はイツシロ、ここの2年生。……新入生やんな?」
イツシロと名乗った生徒は、マオに尋ねた。
「はい。ナカサトです。ナカサトマオ、1年です。よろしくお願いいたします」
イツシロ先輩、とマオがイツシロに礼をするとイツシロはこちらこそよろしくと礼を返した。
イツシロがお汁粉缶の蓋を開けて、口をつけた。
「甘」
「あまいんですか」
「しるこやからからなぁ……。あと、熱い」
「しるこだから?」
「せやな」
イツシロがまた声を立てて笑った。マオもふ、と肩の力が抜けたように笑った。マオは自分も飲み物をと、先ほどの辺りの炭酸を開けた。
プシューと、空気の抜ける音とともに、液体がせりあがってこぼれていった。
「え、あっ!」
マオが慌てて体から炭酸のペットボトルを離すが、泡は止めどなくマオの手を伝ってアスファルトに吸い込まれた。
「あーあ……」
「もったいなかったな」
使うか?とイツシロがマオに差し出したのはウェットティッシュだった。
「え、……ありがとうございます」
助かります、とマオは準備の良いイツシロに若干の動揺を覚えながらもありがたく1枚シートをもらった。
パチリ、と炭酸が抜けるにしては大きな音がした。
「どした?」
「あ、いえ……」
イツシロが具合でも悪いのか、と声を掛けた。
マオが大丈夫と伝えようとしたとき、パキ…という音を拾った。背筋に冷水が滴るような、ぞわぞわとした不快感を覚えた。顔が顰む。
「どっか痛むんけ?」
大丈夫です、とイツシロに伝えようと目を見ようとした。イツシロの背後に、靄が澱のように凝って形をなそうとしているのが見えた。
あれは、よくないものだ。
靄が視界の隅に入る時とは比べ物にならない。胸の奥から不快感が込み上げて、尾骶骨が痺れるような感覚がした。足は根を生やしたように動かず、声は音を結ばなかった。
「おい、ほんとに……」
イツシロがマオの具合を見ようとして、マオの目が捕らえている靄を認識した。
イツシロが振り向くと、靄は澱となって、さらにヘドロのように渦巻きながら、粘着性を高め徐々に形をつくっていった。嘴、固い脚、翼。鳥の形をとったそれから抜け落ちた羽は、べちゃりと音をたてて絵の具が意図せず落ちたときのようにモヤをばらまいた。
水に墨を垂らしたように、モヤが広がった。
イツシロの舌打ちの音がやけに響いて聞こえた。
イツシロは指で空を切ると、ギッと烏を睨み付けた。
「去れ」
イツシロの言葉がマオの耳にひどく重く響いた。イツシロの声であたりに漂っていた靄は弾けるように晴れていった。校門の桜の花弁が清涼な風ともに舞散った。烏は人を嘲るような声を立てて飛び立っていった。
マオは辺りの痛いほどの肌寒さに反して、イツシロの頬に汗が伝っていくのを見ていた。
春の日差しを感じられるように空気が4月のものに戻っていき、マオの身体の強張りもほどけていった。遠くから響くケーンという音が響いた。
「す、げぇ……」
イツシロと同じことができれば、自分が悩んでいる視界にうつる靄を晴らすことができるのではないか。それはマオにはとても輝かしいことに思えてならなかった。
イツシロは全力疾走をしたときのように上がってしまった呼吸を、宥めていてマオの視線も呟きにも気がついた様子はなかった。
「先輩!今のどうやってやるんですかっ?!」
「は?何ね?」
「烏を追い払ったり、モヤモヤを綺麗にしたりするやつ!何て言ったんですか?俺にもできますか!やってみたいです」
「ちょ、ちょお待ちね」
イツシロは掴みかかんばかりに迫るマオに掌を示して落ち着くようにと伝えた。
「あー、……ナカサトは祓いやりたいの?もともと見える人?」
「半年ぐらい前から、靄が見えるようになって困っていたんです。調べたら、まだわかんないことの方が多いってネットに書いてありました!」
「ああ、ネット。……ネットけえ」
イツシロは蟀谷を押さえると、考え込む素振りを見せた。
「じゃ、ナカサトは視える人でもなければ祓える人でも元々識っている人でもない」
「はい」
「けど、今視えるようになって困っていて、さっき俺の祓いを見て、やってみたい……と」
「そうです!」
先輩かっこよかったです、とマオはここぞとばかりにイツシロを褒め称えた。
「あー、そういうのええさけ……」
イツシロは肩を落とし、力無く「俺の蒔いた種けえ……」とぼやいた。
「ああ、もう!わかったき。ナカサト!」
「はいっ」
「おめ、剣道したことある?柔道とか、弓道でもええ。ほれかやりたい部活は決まっとるん?」
「ないです」
マオは中学時代サッカー部だったが、特に強い選手でもなかった。高校に入ってから続けたいほど情熱もない。
「ほいたら入学したら、……せやな、弓道部へ体験入部しい。ほんで、そこの部長……眼鏡かけとるきすぐわかるわ、有志部と兼部希望です言うとき!」
いいなっ!とイツシロは叫ぶようにマオに指示を出した。
「はあ、それはいいですけれど……」
何故、とマオが問うてもイツシロは詳しい話は入学してから、の一点張りで頑として口を割らなかった。それでも何か聞き出せないかとマオが粘ると、イツシロは入学してからもああいう靄にかんする困り事があったら連絡するようにと連絡先を交換してその日は別れたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます