市井育ちの聖女 3

(あのときわたしが、ファラにきちんと口止めしておけばよかったのよね。もしくはあのあと王都から逃げていれば……)


 昔を思い出していたセレアは、天井に向かってはーっと息を吐き出した。

 騎士を連れて大人たちが駆けつけてきたのは、それから十分後のことだった。


 セレアはこの力は内緒にしておかなければならないと母に言われていたので、バジルに今見たことは秘密にしていてほしいと頼んで、その場から逃げるように離れた。

 ファラもバジルも、魔物に触れて黒くなった皮膚を治療するだろうから少し時間がかかるだろうが、騎士が来たからきちんと処置はしてくれるはずだ。


 セレアは一足先にパン屋に戻ると、マリーおばさんにバジルが魔物に襲われた女の子を助けようとしていたこと、そして騎士が駆けつけてきたから治療後に帰ってくるだろうことを伝えた。


 マリーおばさんは魔物と聞いて狼狽えたが、セレアがバジルは無事であると繰り返すと少し落ち着いてきて、セレアと一緒にバジルの帰りを待った。

 バジルはセレアが頼んだ通り、セレアの力については秘密にしておいてくれた。


 しかし、セレアは失念していたのだ。

 瘴気溜まりや魔物が跡形もなく消えていたことについて、騎士がそのままにしておくはずがなかったのである。


 そして次の日、バジルのもとに昨日のことを訊ねに騎士がやって来た。バジルはそこでも「知らない」と黙っていてくれたが、同様に騎士が確認に言ったファラは違った。ファラはあっさり、セレアが助けてくれたのだと喋ってしまったのだ。


 そこからは怒涛の展開だった。

 セレアのもとに騎士たちが押しかけてきて、浄化の力があるのかと問いただした。

 セレアは「何も知らない」と言い続けたが、もちろんそれで誤魔化されてくれるはずもない。


 そうこうしているうちに、セレアの父だと名乗るゴーチェがやって来て、抵抗も虚しくデュフール男爵家へ連行された。そして、今に至るというわけだ。


(まあ、あのときバジルを助けたことは、後悔なんてしてないけどね)


 バジルを見捨てていたほうがずっと後悔しただろう。だからあの時のことは悔やんでいない。ただ、ファラに厳重に口止めしなかったことだけは悔やまれる。あのときセレアは十歳で、そこまで頭が回りきらなかったのだから仕方がないと言えば仕方がないが、もしこんな状況になるとわかっていたら、口止めするなり、その日のうちに荷物をまとめて王都から逃亡するなりできたのに。


 ……まあ、逃亡したところで、行く当てはなかっただろうが。


(でもいつまでもこんなところにいられないわ! それこそあのデブにどこに嫁がされるかわかったもんじゃないし)


 聖女という存在を最大限利用する気でいるゴーチェは、セレアを嫁がせる場所は選びに選ぶだろう。自分にとって一番都合のいいところを吟味しているはずだ。

 しかし、貴族女性の花の盛りは短いらしい。

 結婚適齢期がだいたい十六歳から十八歳。二十歳を過ぎれば、貴族女性は嫁ぎ遅れと言われる。


 嫁ぎ遅れになると価値が下がるので、ゴーチェは結婚適齢期である十八歳までにセレアをどこかに嫁がせる気でいるはずだ。つまりあと一年の間にセレアはどこかに売り飛ばされる――もとい、嫁がされると思われた。


 そうなる前に、なんとしても逃げ出したい。

 この家から。そして、貴族社会から。


 セレアは市井での貧乏ながらも自由な暮らしが気に入っていた。

 窮屈で腹立たしくて、利用されるだけの貴族社会で生きていくのはまっぴらだ。

 何とかして逃げられないものかと考えていると、部屋の外からゴーチェの呼ぶ声がした。

 ゴーチェはアマンダよりはましだが、セレアが嫌いな人間には変わりない。

 イライラしながら物置部屋から出ると、でっぷりした体に、流行おくれのフリフリした服で覆った出荷前の豚――いや、ゴーチェがいた。


「ああ、セレア、そこにいたのか」

(そこも何も、あんたの妻がわたしの部屋を取り上げてここに押し込めたことをあんたも知ってるでしょうが!)


 このデブは、脳みそも豚レベルなのだろうか。――いや、豚と比べたら豚が可愛そうだ。豚さんごめんなさい。


 苛立ちを何とか胃の中に押し込めて、セレアは顔に笑みを張り付ける。少しでも不機嫌な顔をすれば、ゴーチェが唾を飛ばして喚き散らすからだ。

 誰のおかげで豊かな生活が送れているのだとか、幸せだと思っているのだとか、そんなことを散々と。


 反論していいならば、ここでの生活は全然豊かではないし、幸せでもない。

 むしろこのデブのせいで不幸のどん底に落とされたというのに、今の生活がセレアにとって幸せだと思っているゴーチェの頭は欠陥だらけだろう。


(ま、逆らったら最後にはものが飛んでくるから言わないけどね)


 いつかこのデブを階段の上から蹴落としてやりたいものだ。

 丸太のようにゴロンゴロンと階段を転げ落ちるゴーチェを想像して少しだけ溜飲を下げると、セレアはさっさとこいつとの会話を切り上げるべく自分から訊ねた。


「どうしたんですか?」

「いやなに、五日後にカロン侯爵家でパーティーがあるからな、準備をしておくようにと伝えておこうと思ってね」

(カロン侯爵家でのパーティー?)


 滅多にパーティーなんかに連れて行かないくせに、いったいどういう風の吹き回しだろうかとセレアは考えて、もしかしてもしかしなくても、ゴーチェはセレアを売り飛ばす先を見つけたのだろうかと言う結論に至った。


 さあっと血の気が引いたが、もちろん嫌とは言えない。

 セレアは「このくそデブ‼」と叫びたくなるのをぐっと我慢して、「わかりました」と小さく頷いた。


 ――まさか、そのパーティーがセレアの今後の人生を大きく左右することになるとは思わずに。







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