市井育ちの聖女 2
物心ついたときから、セレアには不思議な力があった。
母がセレアのその力に気づいたのは、家の中に入り込んだ、煤を固めたような小さな魔物を、幼いセレアが浄化したときだったという。
魔物を狩ることは、騎士にも魔術師にも可能だが、魔物を「浄化」することは聖女にしかできない。そして、魔物が生まれる瘴気溜まりは、その「浄化」によってでないと消し去ることができないと言われていた。
どうやらその「聖女」に、セレアが該当するらしい。
聖女とは浄化の力を持って生まれた女性を指し、十万人に一人、もしくはそれ以下の確率でしか誕生しない稀有な存在だ。
平民の中で発見されれば、ほぼ確実に貴族に取り込まれる。家族や本人が嫌がろうとも、貴族は平民の都合など慮ってくれないからだ。アングラード国には、犯罪を抑止するためにきちんとした法が制定されているが、相手が貴族であればそんなものあってないようなものだった。身分社会において、貴族は何事に関しても優遇されているのだ。そして、「聖女は守るべき」という国の方針を逆手に取り、聖女の身の安全のためだと言いながら権力で抑えつけられれば、平民は碌な抵抗もできない。
セレアを貴族に取られることを恐れた母は、セレアに、もう二度と浄化の力を使うなと言って諭した。
幼いながらに、どうやらこの力を使うと母が悲しむらしいと理解したセレアは、母の言いつけを守って、以来ずっとその力を使わなかった。――十歳の、あの日までは。
あの日は、春だけど冬のように寒くて、空がどんよりと重たい色をしていたのを覚えている。
セレアが八歳の時に母が流行り病で他界して、セレアは隣のマリーおばさんと一つ年上のその息子バジルに助けられながら一人で暮らしていた。
近所の人の中には、まだ小さいのだから孤児院に入った方がいいだろうと言う人もいた。けれど、幸いにして母が貯めていた貯金も少しあったし、マリーおばさんがパン屋の掃除などのちょっとした仕事をさせてくれてお小遣い程度だがお金もくれたし、残り物のパンをくれたり、スープを分けてくれたりしていたから、幼くても充分一人で生きていくことができた。
(孤児院みたいな人の多いところで暮らして、うっかりこの力のことを知られたら大変だし)
母の言いつけを守って力は使わずに来たけれど、何かの拍子に使ってしまうかもしれない。だから人の多い施設には入らない方がいいはずだ。それに、母と暮らした家を出るのも嫌だった。
「おばさーん、お掃除しにきたよー」
パン屋が閉店する時間になって、セレアはいつものようにマリーおばさんのパン屋へ向かった。
セレアは一日二回、開店前の掃除と、それから閉店後の掃除を手伝っている。
「セレア、ちょうどよかった。あんたのところにバジルが行っていないかい?」
クローズの看板がかかったパン屋に入ると、奥から心配そうな顔をしたマリーおばさんが顔を出した。
「バジル? ううん、来てないよ。どうかしたの?」
「二時間前にお使いを頼んだんだけどね、あの子ったらまだ帰ってないんだよ。どこをほっつき歩いてるんだろうねえ」
外はもう日が落ちて暗くなりかけている。
セレアはうーんと考えて、ポンと手を打った。
「南の広場かもしれないから、わたしが見てくるよ!」
セレアは、バジルが南の広場の近くにある花屋の一人娘に最近入れ込んでいることを知っていた。ファラと言う名のその女の子はセレアより二つ年上の十二歳で、ちょっと大人びた雰囲気の可愛らしい子だった。ファラに声をかける勇気がないバジルは、よく、広場の階段に座って花屋を眺めているのだ。
「そうかい? でも、外はもう暗いよ?」
「このくらいなら大丈夫! 今日は満月だから明るいし、この時間ならまだ、お店の灯りもあちこちついてるから! おばさんはまだ片づけがあるでしょ?」
マリーおばさんは少し悩んだようだったが、片付けが忙しいのか、申し訳なさそうな顔で頷いた。
「じゃあお願いしようかね」
「うん!」
いってきますと手を振ってセレアは駆けだした。
マリーおばさんにはああ言ったが、薄暗い中を一人で広場まで行くのはちょっと怖かったからだ。
(もう、バジルってば仕方がないんだから!)
見つけたら怒ってやると息巻いて、セレアは宵の薄闇から逃げるようにわき目もふらずに走っていく。
南の広場についたころにはすっかり息が上がっていて、セレアは息を整えるために階段に座ると、きょろきょろと周囲を見渡した。
日が暮れたと言っても遅い時間ではないので、広場にはまだ大勢の人がいる。
(バジルはどこかしら? 大体いつもあのあたりに座っているんだけど……いないわね)
もしかして入れ違いになっただろうか?
だが、パン屋から広場までは、セレアが走って来た道が一番の近道で、バジルもいつもあの道を通っている。バジルがパン屋に戻るのならばすれ違ったはずだ。
「もう、バジルってばどこに行ったのよ!」
薄暗いからちょっと怖くて、セレアはここにはいないバジルに八つ当たりするようにぷうっと頬を膨らませた。
――そのときだった。
突如、向かって右の方から「うわあっ」と大きな叫び声が上がった。
びくっとしたセレアは、声が下あたりを見て息を呑む。
(あれ……魔物?)
それも、幼いころに見た小さな煤の塊のような魔物と違って、子犬くらいの大きさがある。粘度のある泥水のような形態のそれは、うごうごと這いずるように広場の方へ向かってきていた。
「魔物だ!」
「騎士団に連絡しろ‼」
「急げ! 向こうの方で子供が襲われてたぞ‼」
(え⁉)
子供が襲われていたという一人の言葉に、セレアは青ざめた。
(もしかして、バジル⁉)
もちろん王都にはバジル以外にもたくさんの子供がいる。しかしどうしてだろう。セレアは襲われていた子供と言うのがバジルのことのように思えてならなかった。
セレアは階段から立ち上がると、人が逃げていく方向は逆に向った走り出した。
「お嬢ちゃん、そっちは瘴気溜まりが発生していて危ないよ‼」
すれ違った大人の声も無視して、全速力で走る。
(瘴気溜まり……魔物が発生源よね!)
セレアは生まれてから一度も瘴気溜まりを見たことがない。
そもそも王都には滅多に発生することのないものだ。
セレアは広場から狭い路地へ入り込むと、「襲われている子供」を探して、路地を縦横無尽に走り抜ける。
「いた‼ バジル‼」
嫌な予感は的中した。
黒いインクをこぼしたような小さな水たまりの向こう側に、バジルと、それから花屋のファラの姿があった。ファラの足には先ほど広場で見たのと同じ粘土のある泥水のような魔物が絡みついていて、バジルはそれを素手でつかんで必死に引きはがそうとしていた。
ファラの足もバジルの手も、魔物の毒素なのかどす黒く染まっている。
「バジル‼」
「セレア! お前は来るな‼ 大人を呼んできてくれ‼」
ファラの顔は恐怖に引きつり、歯の根も会わない状態だった。
バジルの顔も青ざめていて、苦痛に耐えているような表情を浮かべながらセレアに向かって怒鳴る。
セレアは一瞬ひるみ、けれどもきゅっと唇をかむと、首を横に振った。
(呼びに行っていたら……騎士団が来るのを待っていたら、きっと間に合わない)
それに、魔物はともかく、瘴気溜まりを浄化できるのは聖女だけだ。
現在のアングラード国に、セレアのほかに聖女が何人いるのかはわからないが、非常に少ないと言うのは母から聞いて知っている。
もし、王都に聖女がいなかったら?
この瘴気溜まりを放置していたら、ここからどんどん魔物が溢れて、王都中を襲うかもしれない。そうなればバジルもマリーおばさんも魔物に襲われて命を落としてしまうかもしれないのだ。この場でファラの足にまとわりついている魔物が騎士に討伐されたとしても、根源を断たなければ意味がない。
(ごめん、お母さん……)
セレアは、バジルをこのままにはしておけなかった。
バジルは大切な幼馴染で、そしてセレアの兄のような存在なのだ。
母がいなくなった今、セレアの「家族」と呼べるのは、隣のバジルとマリーおばさんだけなのである。
「バジル、うまくいくかわからないけど、わたし、やってみる!」
「何言ってるんだ? お前が魔物をどうにかできるわけないだろう! 危ないから早く大人を――」
「大丈夫」
セレアは両手を突き出して、幼いころ小さな魔物を浄化したときのことを思い出した。
大きく息を吸って、そろりそろりと魔物と、それから瘴気溜まりに近づいていく。
「セレア、来るな‼」
バジルが怒鳴るも、セレアは首を横に振った。
そーっとそーっと、震える足を叱咤して進み、大きく息を吸い込むと「えい!」と勢いをつけて瘴気溜まりに両手をつく。
バジルが息を呑んだ、直後のことだった。
瘴気溜まりと、それからファラの足にまとわりついていた魔物が、一瞬にして霧散する。
バジルと、それからファラは茫然と、一瞬前まで存在していた瘴気溜まりと魔物がいた場所を見つめていた。
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