黒電話の番人

維櫻京奈

番人の朝は早い。

 私の朝は早い。なにせじじいにもなると眠りが浅いのだ。まだ四時過ぎだというのに、目が醒めてしまった。目醒めの瞬間は不思議なものだ。それまで見ていた夢は、不定形ながらも何かしらの意味を持った報せを案じさせてくれる。

 眠気眼を擦りながら、眼鏡を手に取る。目が見えにくくなってからというもの、遠くのもの。そう、決して目では見えないものが見えるようになった。神通力というには遥か及ばないが、ときどき自分でも説明できないものが視えるときがあるのだ。まぁ、だからといって全能感なんかがあるわけではないし、特段、何か愉快なことに使おうにも、制御ができるものでもない。

 もうこれは、こういうものなのだ。と受け入れることにしている。

 家内は朝が苦手らしい。『起きているよりも、座っている方がいい。座っているより寝転がっている方がいい』どこかの国の偉い人の格言だと家内が言っていたが、私にとっては家内本人のメイゲンである。この通りにしてやるのが親切心というものだろう。

 飯を食べようにも米がまだ炊けていない。炊飯器の「でじたるもにた」には

「5:00 ヨヤク」と記載されている。玄関を見ると、郵便受けに新聞が挟まっている。朝早くからご苦労様。じじいの暇つぶしにはちょうどいい。諸外国との戦争の歴史は終わったというのに、新聞にはあまり良いことは書かれていなかった。嘆かわしいばかりだ。

 時間つぶしをしている間にも米が炊ける。

 炊かれた米を茶碗によそい、茶を啜って朝を済ます。肉や魚が食べたいとは、もう何年も前に思わなくなった。老いとは恐ろしい。

 午前は畑の世話をし、にわとりに餌をやる。爽快というよりも、耳を塞ぎたくなるほど大きな声で鳴くやつもいるから困る。

 新鮮な卵を産んでいるものもいる。いくつか頂戴し、持参したカゴに放り込む。

 十分ほど自転車を走らせる。この四畳もないビニール小屋が私の朝の居場所だ。

 小さな市で、仕上がった野菜と鶏卵を売って日銭を稼ぐ。

 ほとんど客は来ない。商品の鶏卵を丁寧に磨くのが日課だ。

 午後も過ぎれば、そわそわと心が浮き足立つ。

 早々に市を閉めて、自転車にまたがる。今日の売り上げは三二○○円だ。上々なり。

 家内が昼食の支度をしてくれている。ありがたいことだ。

 家内とは、話題に事欠かない。なにせ、孫がかわいい。孫の話ばかりをする。それで老夫婦の仲が円満となるなら、それに越したことはない。

 昼を食べれば、きっと一番楽しい時間がやってくる。茶飯をかき込んで、胃袋を満たす。

 添えつけてあった根菜と葉菜も余すことなくいただく。昔は肉や魚を多く食ったが、今はこれだけで事足りてしまう。随分と低燃費な身体になったもんだと感心する。なんてことを朝飯を食べたときにも感じたような気がするが、もう年なのだ。仕方がない。

 縁側に藤で編まれた椅子を持ってきて、ゆっくりともたれる。陽の光が当たって、風も心地いいこのまま猫のように一寝入りしたくなるが、棚に置かれた黒電話に目がいく。その黒さは、何者をも寄せ付けない力強さを秘めているが、真ん中のダイアルが可愛らしくなんとも不思議な物体だと改めて思う。

 昼を過ぎてから、ここで電話番をするのが私の役目、いや使命なのだ。きっとかかってくるはずだ。

 長々と待ったが、その日、電話は来なかった。

 

 翌日も同じような一日を過ごす。繰り返しとは恐ろしいが、人生とは繰り返しの連続なのだ。

 昼を食べて電話番を買って出る。

「じいさま、また待ってるのかい?」

 なんて、家内は茶化してくるが放っておいてくれと一蹴した。

 それからいくらか待った。ジリリリと呼び出し音が鳴った。

「じーちゃん! おやつ、かいにいこ!」

「よし、きた! じいちゃん、直ぐ行くからな!」

 これが生きがいである。財布を持って、自転車の鍵を握りしめる。

 家内が声をあげて大笑いした。この笑顔が可愛いと思えるのだから、不思議なものである。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 急いで、自転車を漕いだ。

 

 孫の家までは十分ほどで到着した。

 家の前ではにっこりとした孫と愚息の嫁が申し訳なさそうに待っていた。

「お義父さん。ご迷惑をおかけします」

 手を振って、どうということもないことを伝える。

「じーちゃん! はあく行こ!」

 舌足らずな孫が急かす。

「よしよし。行くぞー!」

 孫を後ろに乗せる。

 向かうのは、近くにあるスーパーマーケットだ。

 恥ずかしいことに、畑の世話より、鶏の世話より、家内との食事より、一週間に一回あるかどうかわからない孫と一緒にお菓子を買いに行くことが私の一番の生きがいなのだ。

 スーパーに着くなり、おぼつかない足でお菓子コーナーへ一直線の孫。なんとも逞しい。さすが私の孫だ。

 カゴを持って後を追う。両手にお菓子の袋をすでに掴んでいる。

 あまり入れてくれるな。頼んで見るが聞いちゃくれない。あれだ。これだ。と欲しいものをぽんぽん入れる。なんとか説得していくらかは棚に返した。他の客に嫌な目で見られたが、背に腹は変えられない。

 今日は午前中が雨で市での客足が悪かったのもあるが、数時間前に稼いだ日銭はきれいに使い切った。使い切ったどころか、マイナスへ振り切れた。なかなかジジイの使いっぷりがいいじゃないか孫よ。

 孫を送って、満足して家へ帰る。

「ありがと! じーちゃん!」

 別れ際、元気な声を聞かせてくれる。両手いっぱいにお菓子を持った孫の笑顔が堪らない。

 これが私の生き甲斐。

 

 あれから、いくらか時が経った。

 だが、じじいになると時間感覚がおかしくなるらしい。

 まだ、私の中で孫は幼いままだ。私の時間はあのときで止まってしまったのかもしれないとも錯覚する。

「じいさま、また待ってるのかい」

 家内が呆れたように聞いてくる。聞いているというよりも、完全にしょうもない馬鹿野郎だと思われているだろう。

 一向に電話は鳴らない。

 ジリリリとけたたましい音は、どれだけ待っても聞こえてこない。

 孫が五歳になるころから、私の体を労ってか、呼び出されることが少なくなった。

 一週間に一回が、二週間に一回になり、二週間に一回が一ヶ月に一回になり、孫の元気な声を聞くことも、少しずつ、少しずつ減っていった。

「もう、こないかもね。何せもう小学二年生だ」

 家内の優しい声がすっと耳に溶け込んでいた。まさか、この歳になって諭されるとは思ってもいなかった。

「そうさな。同い年の子供と遊ぶ方が楽しかろうな」

 少しずつ、忘れていく。どうせ、この先もそんなに長くない。

 あとどれだけ生きれるのか、そんなことが頭を過ぎる夜が何度かある。きっと今日の夜もそれで頭を悩ませることになるだろう。

 などと思っているら、チャイムがなった。人が訪ねてくることは珍しい。滅多にないわけではないが、勧誘か何かか? 頑固ジジイの顔で望んでやろうと、心に決めて玄関の戸を開ける。

「じいちゃん!」

 耳に飛び込んできたのは、大きな声。大好きな孫の元気な声。聞き間違えるわけがない。

「一人で来たのけ?」

 目の前にいる小さな孫と、ピカピカの自転車が軒に留まっていた。

「そりゃねー!」

 なんとまぁ、こいつは楽しみが増えたね。

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