第8章:積極的平和主義

 大型の6発ジェット機がその機体の一部とすら思える大きな物体を投下した。それは主翼を展張しながら半回転し、重心の大部分を占める円筒形の武骨な胴体を下面に大空を滑り降りて行く。帝国海軍の大型陸上攻撃機がシリアの空に放り出したそれは測位衛星に導かれながら夜闇に明るい大都市を目指した。今更何を狙っているのか、高射機関砲が撃ち上げられている。爆撃手は照準用の液晶画面を見ながら投下後、弾着までの時間を読み上げる。大型陸攻は長大な可変翼を高速巡航用の後退位置に切り替え、巨大なエンジンから青い炎を噴き出しながら暗夜を切り裂く。大型機とは思えない急旋回を見せ、三菱製大型航空エンジンがシリアの空を爆音で蹴り飛ばす。


「弾着10秒……5、4、3、今!」


 爆撃手が読み上げた時間より2秒早く起爆した。小さな太陽とも思える火の玉が都市を破壊する一瞬の光景は熱映像装置の液晶画面の白飛びで想像が付いた。シリア首都ダマスカスに実施された夜間爆撃はSNSで拡散され即座に世界を巡り、核攻撃説、陰謀論、シリア政権崩壊論を巻き起こした。多くのビルが爆轟で破壊せれ、爆心地付近はかつて生命体だった者達で占められている。真上で炸裂された者達はそんな贅沢な死に方すら選べなかった様だ。


「早いな」


「お見事。綺麗な花火だ」


 帰路に就きながら爆弾の起爆を確認した彼らは空中給油機との会合点を目指した。シリア軍機やロシア軍機の邀撃を警戒しながら高空を飛行するが、そんなものに遭遇する事は無かった。ロシア軍には大使館経由で事前通告が行われており、シリア領内のロシア軍防空レーダーは誤爆名目での攻撃を避ける為、電波照射を停止して予備陣地に陣地転換を行っていた。彼らが声高に宣伝する新型のS-400高射ミサイルも指をくわえてそっぽ向いていた次第だ。同盟国を守るという体裁より対日緊張関係の温度調整を優先した結果、ダマスカスでは軍民問わない死傷者を出す事態となった。戦勝国である日本は重慶爆撃の思い出を取り返したのだ。まるで仕事が無い後方銃座の機銃手は人為的朝焼けをスマートフォンで撮影し帰還後に家族へメッセージアプリで送信した。


「主権国家に対する人道上極めて下劣な不意撃ちであり、日本はその代償を支払う事になる」


 難を逃れたシリア大統領は視察に赴いていた特殊作戦旅団の駐屯地で後にそう語った。特殊作戦旅団と言っても親戚である甥の率いる軍閥の中の精鋭部隊なのだが、ともあれ大日本帝国を名指しで批判する異例の事態となった。シリア派遣をシリア事変と呼称し設置された大本営は帝国海軍の大戦果を声高に宣伝している。これまで炎暑の地で這い回る陸軍など存在しなかったかの様に。





 翌朝、捜索第12連隊第1中隊の将兵はパーク地区で準備を終えて前進開始時刻を待っていた。戦闘服に弾帯サスペンダー、鉄帽で小銃を携行する身軽な装備で巡察勤務に備えている。今回の勤務で使用するWAPCから剥いだ防水シートを団子状に畳んでパークの駐車位置後方に置き、左側の上面ハッチを潰して搭載されたラックにバラキューを積載してゴムバンドで縛着する程度の準備は数分で完了し喫煙時間を満喫しているのだ。


「良かったですね、海軍に誤爆されなくて」


「さすがにこことダマスカスは海軍でも間違えないだろう」


 川上は煙草を咥えながら他の下士官連中の雑談に耳を傾けている。いつ見ても代り映えしない青空には一筋の飛行機雲が見えるが、対空警報が発令されていないから日本軍機か旅客機の類なのだろう。以前はいちいち恐怖して空を見上げたものだが、飛行第4戦隊と高射砲兵が防空を確立して以来、空に怯える事は無くなった。


「海軍が落とした爆弾、本当に核じゃないんですかね」


「焼夷弾の親戚らしいな。米軍が発表してたぞ」


 燃料気化爆弾の一種である特種焼夷弾であるが、これは海軍が大型陸上攻撃機専用に開発した物で公に使用されたのは初の事例であった。これは冷戦時代に戦略的抑止力を担っていた海軍航空隊が、非対称戦争でも気兼ねなく使用できる超重量級の大威力滑空爆弾として導入した兵器だ。政治中枢を破壊するとともに、シリア民衆を畏怖させ反体制運動を促進し内戦終結を早める為の都市爆撃は海軍軍令部が発案した計画であり、当然陸軍の末端にそんな細部が伝えられる事は無い。将兵らはスマートフォンで検索し、インターネットから答えや噂話を仕入れてあれこれと雑談の場で広めるのである。


「で、なんでまた1中隊が巡察なんですかね」


 世の中にはインターネットに記載されていない謎も多いし、血気盛んな兵卒は何かと自部隊への愛着を他部隊への疑念で舗装するものだ。クネイトラ基地周辺の巡察は各部隊が交代で行っており勤務割に変更は無いが、暴発事案以降なにかと1中隊に雑用の様な業務が回される事が多く休養日は目に見えて減少している。他中隊は気を遣ってか単に接し辛いのか他所他所しく感じるし、他部隊の兵卒が食堂で公然と捜索第12連隊の兵士に罵詈雑言を飛ばす事態も散見されている。それもまた日常となるのだが、面白くないのは事実であった。そしてこの日は、1小隊が担当する巡察勤務に珍しい来客が居る。


「気にするなよ、そんな事。俺らは俺らの仕事をすれば良いんだから。バカな奴にいちいち構うなよ。仕事で見返そうぜ、男なら」


 電子偵察小隊の伍長、浅井はそう言って後輩の兵卒をあしらった。彼がもっと誠実に軍務に励み、有能な先輩と認識されていれば他の兵士達も納得できたのであろうが。得意気かつ斜に構えた物言いが気にならない者が居れば浅井と仲良くする事が出来る筈だ。難を逃れた電子偵察小隊の兵卒が遠巻きににやけながら煙草を咥える事に気付き、川上は彼らへの愛情を込めて睨み付けた。そういう仕草が良識的な後輩からは好かれ、良識無い後輩からは舐められる要因なのだ。浅井は何が気になったのか人を小馬鹿にした様な挙手をしてWAPCの兵員室へと向かった……一挙手一投足が他者を苛立たせる才能に満ちた彼は、これまで数多の汚名を返上する機会を効率的に無駄にして来た実績と共にシリア派遣を迎え、今に至る。振り向けば不快な逸話の摩天楼が金メッキされており、これはもう先輩上司の暴力的制裁すら面倒と判断され無敵の立場を確立しているのだ。皮肉を抜きに彼を評価するとすれば世渡り上手だろうか。


「浅井伍長、ああいう解ってます感を出してくるのマジでセンス無いっすよね」


「ほんと。あいつが自分の仕事しろよな」


 階級序列が全ての軍隊組織に於いても階級章で全てが成立する訳では無く、真に尊敬される軍人は尊敬されるべくして尊敬を得るものだし、失うべくして尊敬を失うものだ。それでも階級章は民間企業には無い魔力を持っており、仕事が出来ない者や人格に難が有る者でも最低限の人権は保たれるし序列下位の者には挨拶を強要出来るとか、その程度の立場は保障されるのである。そして不思議な事にこの手合いに限って生命の脱落防止は万端で、要するになかなか死なない。


「お前ら兵卒が生意気言うなよ」


「すみません」


 川上は一応の指導をしたが、浅井の為に後輩に暴力を振るうつもりも無い。兵卒達も従順に謝罪するが、そこに真意が無いのは明らかであるし咎めるつもりも無い川上は喫煙所を後にし自らが乗車するWAPCへと向かった。こうした警戒や巡察には本来LAVを用いていたが、武装親衛隊の報復を警戒して巡察の規模が拡大されたのでこの8輪装甲車の出番という次第だ。海軍による空爆の事前通告が無かったので最大の敵意はドイツ人が抱いているという認識である。


「ドイツ人に会ったらよろしく言っとけよ」


「うるせえよこの野郎」


 2中隊の斎藤が飛ばす軽口に根岸は後輩へそうそう見せない満面の笑みで答えた。現状、武装親衛隊の残存兵力やその動向については上級部隊から大本営までまるで掌握出来ていない。彼の組織の秘匿性の高さ故だろう、その情報保全意識が先代の中隊長に有れば城田はまったく異なる部隊で勤務していた筈だ。黒羽は図嚢を片手にパーク地区へと現れ、各車の車長を呼び集め細部の準備状況を確認する。住吉や根岸といった信頼される将校下士官を車長に充てているから、3輌のWAPCで編制されたこの巡察部隊は贅沢な人選である。


「川上、弾込めさせとけ。MGは半装填」


「了解」


 黒羽のWAPCに斥候軍曹として乗り込む川上は班員に弾込めを、機関銃手にはSOP通りの半装填を指示した。遊底覆を空け槓桿を引かずに弾帯を載せる。遊底覆を叩いて閉め、槓桿さえ引けば薬室に弾薬が押し込まれる状態にして半装填を終えると機関銃手は最低限聞こえる程度の慣れた声量で報告した。


「半装填良し」


「了解。そういえば今日のレーション何だったよ?」


「どて煮っす」


 ふざけんなよ、と悪態を吐きながら川上はWAPCの兵員室奥に置かれた小さな段ボール箱を睨んで事実を受け入れる。几帳面に詰め込まれ整然と並んだレーションは確かにどて煮だ。飲みの席でのつまみにはなるが、このところレーションがどて煮と筑前煮の繰り返しになっている。帰国が近い部隊には余り物を、という方針なのかこれも事案の禊なのか。勘繰りたくなる心理は誰にも等しく作用しているが、レーションが出ている以上は巡察が早く終わっても食堂での喫食は許されない。内地なら効くあらゆる融通が、ここシリアでは節制の名の下に厳格な規律で統制されている。だからこそ、手癖の悪い将兵は現地で食料を調達するのだが。巡察自体は午前午後の定刻で決められた経路を巡回するだけなので、合間を見れば食堂には行けるのだが食堂で喫食させて欲しいという要望はどこへやら。


「まぁ、敵が出ない限りは当たりの勤務だから良いがな」


「判らないですよ、今回は伝説の浅井伍長も同行ですから」


 電子偵察小隊は各種勤務に積極的に人員を差し出す協力的な小隊であったが、どこの勤務にも不要との事で浅井伍長は勤務から外される事が多かった。それでは不公平、との事で他小隊の巡察に同行させることがしばしば有り今回もその類である。伝説の、と呼称される程度には武勇伝の多い伍長だ。川上は多種多様な罵詈雑言を飲み込んだ。前進開始時間が迫り、各車の乗員が乗車し各々の位置に着く。


「操縦手運転始め」


「運転始め!」


 聴き慣れたWAPCのエンジンが落ち着いた低い音でその順調な回転を伝える。内地では偵察用の無人航空機が試験飛行を行っているという。試験をシリアでやってくれれば巡察に行かなくても良いのにな、という思いを胸の中でしまい込みながら彼は戦闘服の襟を立てた。前進する間は普段通りに車上へ跨乗し、周囲に警戒兼退屈しのぎの目を向ける。ロール状のバラキューはフライパンの様になる車体上面に腰を置くのに好都合だ。舗装路を走る分には砂塵も許容範囲内である、というより軍隊生活が長いと何事にも諦めが付く様になっていた。鼻をかむ度にどす黒い鼻水と鼻くその混合物が出る生活、洗濯が追い付かず臭気を纏う生活、嫌いな先輩からの面倒な絡み……思っている以上に慣れないまま惰性で過ごしている事に気付いた川上の視線を引いたのは薄汚れてあちこち変形したセダンであった。


「前方停止車輛」


「武器を指向して来たら撃て、この辺に突撃一番は居ない。機関銃完全装填」


 現地の協同する武装勢力はその多くが訓練と再編制の為にキャンプに居る筈だ。もっともシリア人が生真面目ならこの内戦はここまで長引いていないのだが、ともあれ協力的な勢力なら武器を向けて来る事も無いだろう。武器を指向して来れば撃って良いと言うのは合理的な割り切りでもある。前進経路上、一応は路肩に避けて停止しているそのセダンは後部座席に荷物を満載しており、故障しているのか立小便なのか男がひとりボンネット脇に棒立ちしていた。よく見ればボンネット上には自動小銃が置いてあり、男も賢明らしくそれに手を付けてはおらず、ただ川上が乗るWAPCを眺めている様子だ。みるみる距離が詰まるが、男に動きは無い。


「完全装填良し」


 槓桿を引いて薬室に89式普通弾を押し込み安全子を解除した機関銃手は見知らぬ現地人とそれに抱いた恐怖心へ機関銃を指向しているが、先方はまるで意に介さない様子で微動だにせず直立している。歓迎する気は無いが敵対する意思も無いのだろう。わずかに露出した目元から判断するに初老にも思えたが、若い兵卒からすればシリアの民間人は得てして老け顔に見える。洋服を見慣れた日本人からすればボロ布を纏った小汚い浮浪者にも見えたが、車のボンネットに置かれたStG44には民族的な文化なのか彼の趣味なのか、カラフルで軍用銃には相応しくない華美な装飾が施されている。


「あれで意外と地主とかそういう金持ちだろうな、アメリカ製のスマホ持ってたぞ」


「マジっすか? パクります?」


 敵対的な仕草を見せればそれにかこつけて持ち物を押収しても良いのだが、今回は特にそうした指示は出なかった。巡察中にわざわざ現地住民の嫌悪感を買う事も無いだろうが、以前他中隊が買い物帰りの民間人から果物と清涼飲料水を押収した時には英雄として持て囃されていたが、1中隊にはどう言う訳か英雄が少なかった。以前はどの中隊も均等に素行の良くない将兵は居たのだが、今はどこかに行ってしまったのか最近見掛けない。


「敵の死体から金を盗ると死ぬジンクス、生きてる民間人相手でも発揮されるんですかね?」


「金は良いけど女はダメらしいぞ」


 理由を訊けば他中隊の伍長が現地人の女性を好き放題した後に尿道から膿が止まらなくなり浴場の使用を禁止されたのだと言う。川上は笑ったが、内心では童貞より強姦魔の方が序列が上になる男性社会での焦りを胸に秘めていた。ともあれ、WAPCは件のセダンを横目に一切減速せず無事に通り過ぎる事が出来た。もしあの男が何かしらの武装勢力の人間ならと心配はしたが、複数人ならまだしも単独である事が警戒心を緩めたのかも知れない。機関銃手もほどほど良いかと勝手に判断したところで銃口を背けている。砂塵の中でもマネキンの様に微動だにせず棒立ちを貫いていたが、現地人はただ首だけ動かしてこちらを目で追っている様に思えた。


「ドイツ人、まだこの辺に居るんですか?」


「さっきのオッサンに訊けば良かったな」


 戦勝国であり大東亜共栄圏という一大勢力圏をこの時代まで維持してきた大日本帝国だ、恨みを買う機会は今までも多かっただろう。本来ならシリア政府軍による報復攻撃が懸念されるが、彼等は専ら内戦に明け暮れている。シリア政府軍最強と謳われる第4機甲師団ですら特に動きを見せておらず、むしろ陸軍参謀本部はロシア軍の動向を注視している状況だ。シリア政府の要請でこの国に居る彼等は帝国陸軍より少数の部隊を展開させているが、少数の軍部隊を支援するには遥かに多くの輸送機を割いて本国とピストン輸送を繰り返している。むしろ帝国陸軍にその輸送力を発揮して欲しいと川上は日々ボヤいているが、流石に空中輸送力の分母が異なる。日本が支援する反政府勢力が港湾を完全に占領すれば豊富な海上輸送力を活用できるのだが、彼らにそんな気配は無かったし帝国陸軍も彼等を主として弾避けにしか使っていない。川上はふと半長靴の靴紐をきつく締め過ぎた事に気付いたが、どうせ巡察は指定の経路を一巡したらクネイトラ基地に戻るだけだと割り切って視線を遠方の稜線に向けた。


「海軍、介入するなら陸戦隊出して港湾確保してこっちまで補給品持って来いよな」


「本当ですよね、地中海まで来てるんならもう少し仕事すりゃ良いのに」


 黒羽の半ば理不尽なぼやきも共感できる点は有った。海軍は目下地中海に艦隊を派遣しており仮想敵国海軍、特に最近はドイツ海軍との睨み合いを続けている。ミサイル駆逐艦“エステルヴェーゲン”の艦載ヘリコプターがエンジン故障で地中海に不時着水した際に、帝国海軍が救助という名目でドイツ海軍の救助を妨害し搭乗員を拘束し機体を回収した事が大ドイツとの外交問題になっていた。国際連盟の様な国際秩序機構が存在しない中で、こうした問題は当事国の関係性により解決される事が常である。それが陸軍に何か貢献するかと言われれば違うし、日本にとって何か利益が有るかと言うとそんな事も無い。捕虜になった搭乗員は形式的な尋問と嫌がらせでの数日間の拘束を経てドイツに送還されるらしいが、捕虜がスパイ容疑で親衛隊隷下の各諜報部門のお世話になるお国柄だ。日本で受けるより過酷な聴取が待っているだろう。川上はそんな事に興味は無いし、世界は理不尽が息を潜めない。ラックのバラキューに腰を据えて遠方を睨む川上を黒羽が呼んで注目させる。


「右前方の監視哨確認出来るか?」


「確認、この方向稜線手前」


 地声が聞こえる様に装甲帽の耳当てを浮かせながら黒羽は頷き、流石に擬装させないとまずいよな、と口にした。砂漠は森林と比べて擬装が困難で、数日前に他部隊が構築した監視哨の擬装には改善の余地が大いに有った。走行する車上からでも目に付くのだから敵にまともな斥候が居たら一目で発見されるだろう。監視哨の中に居るのは勤務割によると高射砲兵の筈だが、退屈しているのか単に着意が無いのか何かの作業をしている様には見えなかった。


「次に監視付く時にあのままだったらせめてバラキューぐらいは張ってくれ」


「了解しました」


 WAPCを見慣れているからか、監視哨の兵士達は特に驚きもせず挙手敬礼をして来た。黒羽はこの兵士達より監視哨が無事に発見されず破壊もされずに次の監視勤務まで残っている事を祈りながら手短に答礼した。さも車長ハッチの様に分隊長ハッチから上半身を覗かせる黒羽の後方で川上は退屈な時間を退屈に揺られながら過ごす。車内の後輩兵卒は熟睡している様子で特に咎める事も無いが、曲りなりにも戦地でよく巡察中に眠れるなという率直な感想を抱いた。どこそこを攻撃する、防御すると言わない限りは戦闘にならないと看破しているのだろうが。


「川上軍曹はお優しいからですよ、兵卒どもが爆睡こいてても自ら警戒を行うなんて」


 だったらお前が兵卒を指導しろよボケ、とは言わずに川上はその温情と怠惰で浅井を許してやった。他小隊の兵卒なんか指導しても仕方ないし、汗ばんだ褐色の官品シャツが身体に張り付いたり肺に押し入ろうとする砂塵の不快感の方が圧倒的に強い。浅井は階級も川上より下の伍長だし、体臭が酷い訳では無いので黙っていれば不快では無いのだが、彼の膨れた自己主張を投影したかの様なたらこ唇は安定した動作を止めない。しかし同じ勤務に根岸の様な恐怖政治を無意識に行える軍曹が居ればこうはならないので、川上の性格が兵卒の気を緩めている事は事実だろう。


「自分の目で見たいからな」


「分かります、自分もそう思いますよ。やっぱ若い奴らに任せるのは不安っすもんね」


 もういいから黙って反対側を警戒していてくれ、とは言わずに愛想笑いで頷いて自分の警戒方向に目を向ける。川上にとっては些末な問題で、次の監視人員が誰だか思い出し擬装資材をどう用いて改善するかの方が重要な問題であった。車輛対策も考えると、無反動砲用の射撃陣地も欲しいから、その為の資材と土工具を積んで来る必要も有るだろう。捜索連隊にも歩兵連隊の様に対戦車中隊が居れば良いのだが、無い物ねだりが無意味な事はよく理解している。巡察中に時折離合する民間車に小銃を向けるだけの平和的な時間を過ごしながら脳内の半分を好き勝手な欲に満ちた妄想を行って過ごした。


「停止用意、止まれ」


「どうしました?」


 休憩、と黒羽は笑って見せた。実際には各車との定時連絡と時間調整なのだが、軍隊とは何かと段取り休憩をしたがる組織だ。平べったいWAPCの周囲で一応全周を警戒しながら堂々と煙草を吸い水を飲む。警戒の為に各人間隔を取る体裁で嫌いな先輩とも物理的に距離を置けるから末端兵卒にとっても平和な時間だ。官品の戦闘手袋を外し、素手で煙草を挟みながら人気の無い稜線を目で追う。ここで敵が出て来て激しい戦闘が始まれば戦争映画らしいアクションになるが、そもそも敵と接触する可能性が低い地域を選んで段取り休憩をしている。丁度吸い終わったところで前進再行の時間が迫り、川上はWAPCに戻った。


「装具点検、異常無いな?」


「無し」


 黒羽は必要な連絡を済ませ、全員の乗車を確認し再び装甲帽を着用した。川上が大柄な後部ハッチから乗り込み、兵員室の座席に足を掛けて車内から特等席に行こうとすると呼ばれる声がした。見れば気弱そうで細身な藤井一等兵である。


「川上軍曹、すみません。警戒交代します」


「おう、よろしく」


 藤井の申し出に川上は謝意を示し車内で座っている権利を手に入れた。風が吹いて気持ちが良いという点では車上の方が快適だが、下の人間が交代すると言っているのならそれも良かろう。浅井は何か車上で藤井に何かしら嫌味を言っている様だが、面倒臭いので助けを求められるまでは放っておく事にした。眠る訳には行かないので、川上は目を閉じて休憩する事を決め込む。背中に伝わる振動が心地よく感じた。

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