1章 元勇者、教師になる 01

 耳元で何かが鳴っていた。


 とても不快な音だった。


 人間を覚醒せざるを得ない状態に追い込む、耳障りな、音。


 しかしずいぶんと久しぶりに聞いたような懐かしさもある。


 この音を毎日聞いていたのは、一体いつのことだったか――


 そこまでおぼろに考え、俺はベッドの中で目を覚ました。


 見上げるのは見覚えのない天井……いや、見覚えはあった。


 ただこの天井を見上げるのは、やはりずいぶんと久しぶりな気がする。


 俺は身を起こし、部屋の中を見回した。


 小さなテーブルにノート型のPC、壁にテレビがかかっており、安物の衣装ケースが部屋の端にある。


 ああ、確かに俺の部屋だ。


 いや、「俺の部屋」というほど馴染んでもいないか。この部屋を借りたのは確か……そう、今から一週間前だったはずだし。


 ベッドの上を見ると、目覚ましのアラームを鳴らし続けるスマホがある。


 手に取ってアラームを切る。まだ操作は覚えているようだ。


「はあ、まさか戻ってくるとはなあ」


 立ち上がりながら声を出してみる。


 声が若い。それはそうだ、俺は確か社会人一年生になるところだったんだ。


「長い夢だった……なんてことはないよな」


 寝巻替わりのジャージがキツい。


 上だけ脱いでみると、バキバキに割れた腹筋が目に映った。腕や肩の筋肉もまるで鋼のよう。というか、実際に鋼並みの強度にもできる。


「力を得たまま元の世界に戻った……って感じか」


 魔法陣をイメージすると手のひらに小さな炎が生じた。魔法もそのまま使えるらしい。


 ふとテーブルの上に置いてある封筒に気付く。『直感』スキルが反応したので中身の書類を広げて見る。


「明蘭学園……私立の一貫校……新任者来校日……あっ、まさか今日か!?」


 俺はスマホの日付表示を確認し、書類の日時とつき合わせ、記憶が正しいことを確認する。


 衣装ケースを開くとそこには真新しいスーツがかかっていた。ネクタイの結び方は……完全に忘れてるな。


 ああ、スマホで調べればいいのか。こっちは便利な世界だな。




 スーツ姿になった俺は、荷物をまとめて鞄に入れるとアパートを出た。


 住宅街の1キロほど向こうに小高い丘があり、その中腹あたりに学校らしき建物が見える。記憶ではそこが俺が赴任する学校、私立明蘭学園だ。


 教育学部を出て、地元の公立学校の採用試験を受けて惨敗した俺が、先輩の伝手つてを頼ってなんとか採用されたのがその学校だった。


 しかし俺はなぜ教員を目指したのだったか。他にやりたいことがない、だから教師でもなるか。なんかそんな感じだった気がする。


 まあ勇者だって無理矢理やらされたけど上手くできたんだし何とかなるだろ。あの地獄の特訓だけは勘弁だけどな。


 そんなことを考えているうちに坂道を登り始めていた。


 舗装された坂道、ブレザー姿の少女たちが歩いて、あるいは自転車で上っていく。


 学園の生徒たちだ。今は春休みのはずだが、きっと多くの生徒が部活にいそしんでいるのだろう。


 見慣れないはずの俺に挨拶をしてくれる子もいる。なんとも平和な光景だ。俺は戻ってきたんだと実感する。


 しかし歩いていくうちに妙な違和感を覚える。


 魔力感知……問題なし。


 悪意感知……問題なし。


 トラップ感知……問題なし。


 感知スキル群を使っても判明しなかったその違和感は、学園の校門に着いた時に明らかになった。


 学校の敷地内を歩く生徒が女子しかいないのだ。俺は慌ててスマホを取りだして調べてみた。


「明蘭学園は小中高の一貫教育校であり県内唯一の……女子校!?」


 超重要な情報だ。なぜそれが記憶にないんだ。面接対策で学校のことは調べたはずだろ? もしかして調べ漏れたままこの学校に?


 ……アホか俺。




「……と、以上が我が校の大まかな教育の在り方になります。先生方のいた学校とはだいぶ違いますでしょう?」


 俺を含めて3人の新規採用教員は、まずは校長室に案内された。


 そこで明蘭学園についてのあれこれを聞いたのだが、説明してくれた校長先生がどう見ても30代の女性、それも女優と見間違えるレベルの美女だったので、正直内容がほとんど耳に入ってこなかった。


 なにしろ長らく女性に縁が全くなかったのだ。ヤバいレベルで女性耐性スキルがなくなってるのを実感する。


「はい、私が通っていた学校とはまったく違う気がします。特に初等部から高等部までの間で交流があるというのがすごく羨ましいです。自分は小中が小規模校だったので」


 そう校長に答えたのは、俺の隣に座っていた同じ新任者である女性――名前は確か白根 陽登利ひとりさん――だ。


 栗色の髪を肩のあたりまで下ろしている、目鼻立ちのはっきりした明るい感じの美人である。


「そうですね。全校の児童生徒を合わせると1500人近いですから最初は驚くかもしれません。学年や学部間の交流は上の生徒にも下の生徒にもどちらにも効果的な活動ですね。若い先生は特に関わる機会が多いと思いますよ」


 校長がにっこり微笑む。う~ん、ウェーブのかかったセミロングの髪が揺れたりして、やっぱり女優にしか見えないな。


 俺が呆けていると、今度は対面に座っていた同じく新任のイケメン青年――確か松波 真時しんじ君――が小さく手を挙げた。


「自分は小高い丘の上に校舎があるというのが素晴らしいと思いました。自分が通っていた学校は街中にあって校庭も狭くて、部活のサッカーをやるのにも離れたところに移動していたので」


「やはり12年間通うことになる学校ですから、思い出の場所としてふさわしい立地を、との考えがあると聞いていますね。それに高い場所にあるというのは色々と都合がいいこともありますし。児童生徒は登校の時は少し大変でしょうけどね」


 ふふっ、と校長が笑うと、俺を含めた新任の3人も笑う。


 あれ、よく見たら俺を除けば美男美女しかいないじゃないかこの部屋。おかしいな、日本って『あの世界』ほど美形はいなかったイメージなんだけど。


 それはともかく他の2人が感想を述べたので、俺もなにか言わないとこの場が終わらない流れになってないか?


 しまった、校長先生の話なにも覚えてないぞ。


「あ、ええと、自分もその……とても平和そうでいいと思いました。ずっとこう、環境の悪いところにいたもので」


 なに言ってんだろう俺。同期予定の白根さんはきょとんとしてるし、松波君は口の端で笑ってるし。


 救いは校長が妙に優しい感じの目をしたことだ。


「ええ、相羽先生のおっしゃる通りとても平和な学校だと思いますよ。皆真面目な生徒たちばかりですし。先生方にはそのを支えていただきたいと思っていますので、よろしくお願いしますね」




 その日は、各部署(学校では校務分掌と言うらしい)の部長の先生のお話を聞き、自分が受け持つ教科の打ち合わせ会(教科会と言うらしい)をし、最後に自分が配属される高等部2学年の打ち合わせ会(学年会と言うらしい)に出席した。


 一気に色々聞かされて脳がパンク気味になったが、まあ社会人としてはこれくらいが当たり前ではあるのだろう。


 あの世界での経験も生かせるはずではあるんだが、戻って初日がこれだから仕方ないと思うことにする。


 ちなみに同期の白根さんは中等部、松波君は初等部に配属されたようだ。


 しかしここ明藍学園の校舎は規模の大きさ、敷地の広さもさることながら、きれいで、なおかつ設備が整っているのに驚いた。


 自分がはるか昔に通っていた地方の公立校とはまるで違う世界に来たようである。


 こういうところで学べれば、俺ももう少しは……なんてことはありえないな。だって文明の低い『あの世界』に放り込まれてからの方がはるかに成長したし。


 などと考えつつ、教科書や資料集で重くなった鞄を抱えながら、俺はアパートへ帰るのであった。

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