関連短編:時系列順

【キャラクター背景】マドモアゼル・アニエス【アニエス編】

「ねえ、カトリーヌ様、またアニーが来てないよ」


 子どもの一人から報告を受け、修道女カトリーヌはため息を吐いた。


「探してくるわ」


 修道院で一番若い修道女であるカトリーヌは、半ば雑用係のようなものである。地域の子どもたちに字を教えるとか。


 修道院とは本来、修道者の共同体だが、神への祈りは何も座って祈るだけではなく、貧しい人々の救済もまた、祈りであるとの考えのもと、カトリーヌの所属する修道院は、一般信者の共同体の運営や、子どもたちへの手習いも行なっている。


 アニーというのは、近くに住むお針子が産んだ娘で、なかなかの問題児である。日曜のミサも来ないことが多いし、文字の覚えは早いのに、勉強には真面目に取り組まない。心あたりのある場所に、カトリーヌは足を運んだ。


 修道院の庭は綺麗に手入れされている。身の周りを整えることも、神へ仕える道の一つだからだ。庭の一角に踏み入れると、ハミングが聞こえてきた。


「やっぱりここね、アニー」


 アニーと呼ばれた少女は、じろりと修道女を眺め、


「マドモアゼルとお呼び」


 と低い声でつぶやいた。


「はいはいマドモアゼル。もうお昼よ。これであなたの欠席は十回目」

「よく数えてるわね、カトリーヌ」

「先生とお呼び」


 ふん、と少女は鼻を鳴らした。


「行ったら行ったで、この服にケチつけるんでしょうに。歓迎されてない集まりに、わざわざ行く義理はないわ」

「アニー……」

「だからその呼び方は嫌いよ」

「アニエス、ケチつけられるとわかっているなら、どうしてそんな服着るのよ」


 アニエスが着ているのは、大胆に胸元の空いた真っ赤なドレスである。もちろん修道院に文字を習いにくるような子どもが、本物のドレスを着れるはずはなく、母親の下着か何かを、自分で染めて作ったようだ。その創造性を別のものに活かしてくれれば、とカトリーヌは嘆く。


「そんな服って何よ。似合ってるでしょ?」


 そう言って微笑むアニエスの言葉に偽りはなかった。露出の多さといい、色といい、修道院にふさわしい服装ではなかったが、幼い少女とは思えない大人びた表情や、気だるげで悩ましげな物腰には、ふさわしいとさえ言えるだろう。その美貌を目当てに遠くから馳せ参じ、あえなく振られた地主がいるとかいないとか。いたいけな子どもであるにもかかわらず、すでに彼女は色香で人を惑わせる術を知っていた。


 貞潔、清貧、従順を誓った修道女とは対局にある少女だが、カトリーヌは彼女のことを嫌いになれなかったし、手習いを休めばこうして探しにきてしまう。ここまで彼女の術中だとしたら、恐ろしいことだが。


「ねえマドモアゼル・アニエス。今更あんたに教えなんて説かないわ。でも何か叶えたいことはある? 欲しいものは? あんたの力になれることがあったら、手を貸すわよ。それも修道の一つでしょうから」


 アニエスは、しばらく修道女を見つめていた。


「叶えたいことは山とあるし、欲しいものも星の数ほどあるわ。手を貸す必要なんてない。一人で掴む。あなたのことは嫌いじゃないけど、可哀想なお針子の娘に押し込めようとしてくる大人は嫌いよ。だから気安く愛称なんて呼ばせない。こんな田舎にふさわしい娘にはならないわ」

「じゃあどこに行こうっていうの」


 アニエスは無言で王都の方角を指さした。


「あんたねえ……」


 冗談ではないことがわかるだけに、ため息ばかりが口をつく。


 可哀想なお針子の娘というのは、事実の一端である。アニエスの母親は、未婚のまま彼女を産み、食うものにも困る生活をしている。お針子として王都に旅立ち、身重になって帰ってきた彼女に、村人たちは同情した。憐れみの目はアニエスにも向けられている。


 野心を描いて王都を目指す若者は多く、その中には当然のことながら女もいる。しかしいその末路は、『可哀想なお針子』であることが多かった。アニエスの母親が手に職をつけたのは賢明な選択だったが、それでも平民の娘が一人で生きていくことは難しい。


「王都で生きていくなら、教養が必要だと思うけど?」


 それが本当に役に立つのかわからないまま、カトリーヌは教室へと少女をいざなったのだった。




※※※




「ねえ、院長様。手紙が来てるよ」


 子どもの一人から、報告を受け、カトリーヌは内心でため息を吐いた。近頃また目が悪くなった。修道に読み書きは欠かせないというのに困ったことだ。受け取った手紙を、目をこらして読んだ。


 書かれている内容は、驚くべきことだったが、それよりも何よりもカトリーヌの目をひいたのは、どこかで見たことがある筆跡だった。


「院長様、泣いてるの?」

「……嬉しくてね」


 王都へと旅立った少女が、栄華を極めたというのは、噂に聞いていた。田舎を出た娘が、辛い思いをしていないか、ずっと心配だった。どれだけ強くても、美しくても、運命に手折られる花をいくつも見てきた。それでも、


「あんたは、こんな田舎にふさわしい娘じゃなかったねぇ。今はなんとお呼びすればいいか、お伺いするとしなきゃね」


 修道女は、ゆっくりと時間をかけて、返信をしたためた。自らの手で栄華を掴んだ、女への敬意を込めて。

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