【キャラクター背景】さよなら、貴族の娘【カルメンシータ編】

 この手紙は誰にも見せない。書き終わったらすぐに焼いてしまうから。届くとしたら、天にまします、我らが主になるのだろうか。神よ、私はあなたの花嫁にはなりません、お許しを。


 何もかも失ってなお、神をも振った気でいる己の図太さには呆れ返るけれど、もう敬虔な信徒には戻れない。これでいいんだ、きっと。


 広大ではないけれど作物に恵まれた所領と、温かな家族。これ以上望むないほど幸せだった私の人生に影がさしたのは、いったい誰のせいなのかしら。父は殺され、二人の兄も死んでしまった。証明はできなかったけれど、まあ毒殺でしょうね。そして領地は母の兄である伯父のもの。


 私が生きているのは、ただ領地を継ぐ資格がなかったから。あとは伯父にも多少の罪悪感はあったのでしょうね。修道院に行けば、お前の嫌がる縁談は組まない、なんて、さも善意かのように厄介払いをしたところも嫌になる。だからバイオリンを盗んで、修道院から逃げてやったわ。


 手紙を書いている私の机の上には、盗んできたバイオリンが鎮座している。彼女とは長い付き合いになるだろう。名前をつける趣味はないけれど、なんとなくこのバイオリンは女だと思う。私の相棒なのだから。


 この宿屋も安全とは言い難いけれど、女の身で野宿なんて、狼の群れに子羊を投げ込むようなもの。昔はこの国も、もっと豊かだったけれど、貴族が争っている間に、野盗が蔓延る土地になってしまった。父や兄のことは今でも好きだけれど、骨肉の争いをしている暇があったのなら、野盗をどうにかすればよかったのに。


 野盗は有事には傭兵になるから厄介だ。素行の著しく悪い、略奪を生業にするような傭兵に。兵士も野盗も、根っこは変わらない。金目のもの、女、明日食べるもの、あやふやな名誉など求めないだけ、野盗の方が潔いのかもしれない。


 父のことが好きだった。占いが好きで、私にも教えてくれた。でも父は負け犬に味方し、命を落とした。玉座を巡る争いに、父の支持した王子は勝てなかった。父はその王子に吉兆を見たと断言していたのに。


 母のことが好きだった。でも母は伯父の言いなりだった。兄たちが死ぬと、それを待っていたかのように、遠方に嫁いでいった。虚な瞳の母を、私は憎んだ。会えなくなってから、憎しみは薄れたけど、愛情は戻ってこない。


 一番目の兄のことが好きだった。私にバイオリンを教えてくれた兄。優しくて音楽を愛する兄は、ある日血反吐を吐いてそのまま死んだ。


 二番目の兄のことが好きだった。髭面で汗臭いところは嫌いだったけど、強くて頭も良かったから、私に勉強を教えてくれた。でも一番目の兄の喪中に、顔中に吹き出物ができて膿まみれになって死んだ。


 優しくて大好きだった侍女たちは暇を出されて、自分たちの村に帰ったと聞いたけれど、夜歩くことさえ危険な中で、無事に帰れたのかはわからない。


 修道院を抜け出して、もう三年になる。もうすぐ国境だ。


 殺しこそしなかったが、盗みは数え切れないほどやった。最初に盗んだのはバイオリン。これは簡単だった。貸してくれと頼んで、そのまま持って逃げただけ。次に盗んだのはパンだった。これは惨めだった。店主が目を逸らした隙に、持ち去ったけど、バレてしまって


「待ちやがれ、売女!」


 と石を投げられた。二番目の兄に仕込まれた逃げ足は、そこそこ通用すると知ったのはこの時。お前は領主になれると褒められたけど、私がなったのは盗賊だった。売女よばわりされたことは、当時も今も怒っていない。悲しい女を、哀れみこそすれ、軽蔑はしない。一歩間違えれば、それは私の道だった。金を稼ぐのに、売春ではなく盗みを選んだ自分を、彼女たちより上等な人間だなんて思ったことはない。


 ちまちま盗みを重ねてもキリがないことに気がついた私は、貴族の館を狙うようになった。最初は伯父の館を狙ったけれど、これは顔を知られているので、潜入が難しかった。私が修道院を抜け出したことを知った伯父は、復讐を恐れて、警備を強化していた。復讐されるようなことしなければよかったのに。


 それで国境付近の領主の館を襲ったのが、つい先週のこと。逃げる時に囲まれたので、馬を逃がして厩舎に火をつけたわ。燃え盛る厩舎を見て、馬番が青ざめていた顔を、妙に鮮明に覚えている。


 直接手を汚さなかっただけで、私のせいで死んだ人間がいるかもしれない。そんな当たり前のことを意識するようになったのは、そのせい。本当はもう、足を洗いたい。でも、もう戻れないところまで来てしまった。


 いつか領地を取り戻すその日までに、私はどれだけの人を傷つければいいのだろう。バイオリンを弾くたびに思う。あの時、これを盗まず、神に仕える道を選んでいたのなら、今よりずっと幸せだったんじゃないかって。


 死んだ父も兄も戻ってこない。政治闘争に勝った現国王は、結局家臣に嫌われて、野盗が跋扈する現状は変わらないけれど、私が領地を治めたからといって、それが領民のためになるのかはわからない。


 それでも。私は戦うことを選び、手を汚し、ここまでやってきた。それを無駄と言っては、これまで傷つけてきた人に申し訳が立たない。国境を越え、異国に行く。もっと強くなりたい。富を力を蓄えて、いつか領地に戻る。心はこの国に置いていく。さよなら、貴族の娘。


 これからの私は、ただの異邦人。人を傷つけ、物を盗んでも何も思わないただの盗人。また故郷の土を踏む時まで、こんな弱音は吐かない。


 神よ、貴方の手に委ねられるその時まで、私は運命に抗ってみせる。この罪の告白は、ただの独り言。あなたに許しを乞うことはない。ただ、許されるのなら、先に死んだ父や兄たちに、私の罪の責任を問わないでください。


 ……くだらないものを書いてしまった。すぐに火にくべて、寝てしまおう。明日は早い。

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