02 或る少女のこと
蝉の鳴き声の鳴り響く中、芭蕉は江戸へ向けて旅立った。
天和三年の夏、江戸は暑く、江戸もまた、蝉の声に包まれていた。
「こう
杉風は持ち前の魚屋らしいちゃきちゃきとした態度で芭蕉を出迎え、引っ越し祝いと称して、青魚を二三尾供した。
「……それで先生、向後は江戸表に尻を落ち着けられるので?」
「……そうだねぇ」
あの天和の大火で焼け出して以来の江戸だ。
少なくとも、暫くはいるつもりだ。
だが、そこから先は、分からない。
自分でも。
一体、どうするつもりなのか、自分は。
「
李白の「春夜宴桃李園序」の
その意味は、天地は万物の旅宿であり、光陰、つまり「時」は百代もの旅をしてきた旅人なのだ、という意味である。
元々芭蕉は李白に私淑しており、李白を意識して桃青という号を名乗っていたくらいだ。
すなわち、李に桃、白に青、というかたちである。
「されども『時』ならぬ人は、百代の客にはなれませんなぁ」
これは杉風の言葉である。
なればこそ、今の食事を楽しみましょうと魚の膳を出してきた。
そう言われては芭蕉も箸を持たざるを得ない。
何にせよ、俳諧を読むことぐらいしか取り柄のない芭蕉だ。こうして
「…………」
「どうかしましたか」
杉風もまた、繁文のように、特に無理強いをしてきたわけではない……江戸に絶対にいて下さい、というような。
けれどもそう言われているような気分になる。
人の親切というものは妙なもので、このような気遣いをされると、却ってこのような、一定方向への圧を感じる。
「そういえば」
杉風はお銚子とお猪口を出しながら、ふと思い出したとばかりにそれを言う。
「惣五郎さんという人が先生に俳諧を習いたいって言って来ているんですが」
「惣五郎さんねぇ……」
杉風は芭蕉のパトロン的なポジションなので、こういった弟子入りの口利きをしている。
芭蕉の意向をわきまえたそのやり方は信頼が置けるが、今はなるべく人に会いたくない。
ましてや、初見の人には。
「悪いけど、今は遠慮しておくと伝えといてくれないか、杉風さん」
「
お金を出してもらっている以上、完全に拒否はできない。
だから「今は」と言った。
杉風もそこを感じ取り、黙って引き下がった。
おそらく、その惣五郎とやらに、後でまた来なさいと答えるつもりなのだろう。
*
ところが。
惣五郎は芭蕉への弟子入りを諦めていなかった。
ただ奥床しいことに杉風へ手紙を託しては、どうか会って欲しい、弟子にして欲しいと訴えるにとどめ、それ以上することは無かった。
その日も、芭蕉が、自宅の裏庭の古池を何とはなしに眺めせしまに杉風がやって来た。
杉風のどたどたとした
「どうしたんだい、杉風さん」
「先生、例の惣五郎さんですが、彼は西国の出身で」
上方では今、井原西鶴という男が、今度「好色五人女」なる浮世草子を書くという。
惣五郎は
そこで。
「八百屋お七の話が、件の浮世草子に載るそうでサ」
「お七?」
*
芭蕉の脳裏に浮かぶ、天和の大火。
その大火事にて、八百屋の娘、お七はある美丈夫に会った。
その出会いは大火という奇禍によりできた出会い。
偶然とも知れぬその出会いを――も一度と。
も一度、その美丈夫に会いたいと――お七は火を付けた。
「……と、上方ではそう伝わっていて、西鶴て奴ぁ、そう書くつもりだと」
「……そうか」
八百屋お七と芭蕉は、何のかかわりもない他人であるとされている。
少なくとも、今日伝わる芭蕉の文章に、お七の名は登場しない。
だが。
「……あれだけの大事件だ。知られない方がおかしいだろう」
――あの天和の大火において、芭蕉とお七は焼き出されて、同じ寺に避難した。
その寺、吉祥寺にて、お七と美丈夫は出会った。
――お七っつぁん、もうやめときなよ。
――止めねぇでおくんなまし、
名も知れぬ美丈夫。
も一度会いたい。
も一度会いたい。
会うためには――。
そしてお七は火を付けた。
そうすれば、またあの美丈夫に会えると信じて。
だが現実はそう甘くない。
火は
付け火は死刑。それも火刑だ。
芭蕉はそれを見送った。
見送っただけだ。
それだけだが。
「お七さんはあの時――何が言いたかったんだろうなぁ……」
燃え盛る火。
それも、自らを燃やす火だ。
お七はそれを見ながら、芭蕉に何か、呟いた。
そう、芭蕉はお七からよく野菜を貰っていた。
野菜を食べないと、お腹が悪くなるよと言って。
あの日も――付け火の日も、野菜を持ってきては、芭蕉に言った。
――
と。
芭蕉はそれこそ俳諧であると言えなかった自分が哀しかった。
当時、俳諧はまだまだ言葉遊びの領域を出ず、この世の哀歓を唄えるとは、到底思えなかった。
少なくとも、その時の芭蕉にとっては。
そして火刑の際の「つぶやき」である。
誰に、何を。
いや誰に向かってもなく、何を言っているわけでもなく、唯々、お七はその思いのたけをぶつけていただけかもしれない。
そしてそれを、ほかならぬ俳諧師の芭蕉に聞いてほしかったのかもしれない。
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