芭蕉 ~旅の始まり~
四谷軒
01 甲斐、谷村(やむら)の芭蕉
――蝉の鳴き声が聞こえる。
天和三年。
夏。
甲斐、
松尾芭蕉は、蝉の声に耳を傾けていた。
昨年末、江戸に住んでいた芭蕉は、いわゆる天和の大火という大火事により、深川の芭蕉庵を失ってしまい、弟子の谷村藩家老、高山繁文(俳号・
天和二年末のあの大火からすでに半年、この谷村で夏を迎えるとは思っていなかった。
それが、蝉の声を聞いた時の芭蕉の感想である。
「まさかなあ……」
最初は、冬を越えるまでという話だった。
何せ、家が無いのでは、ここ甲斐でなく、江戸でも寒い。
再建のめどが立つまではと、繁文の厚意に甘えた。
繁文はできた人物で、のちに、主君である
「先生、良ければずっと居て下され」
繁文には何ら意を含むところはない。満腔の善意でそう言われている。
あるとすれば、自身の俳諧のことぐらいで、それについても芭蕉に遠慮は無用といい、事実、彼の句はあまり後世に伝わっていない。
そういうわけで、芭蕉としてはついつい繁文の厚意に甘えている、という次第である。
冬を越して、夏に至る今まで。
「……しかし、この甲斐谷村はいい。江戸の喧騒を離れ、いかにもという感じが、いい」
国破れて山河在り。
そういう漢詩がある。
詩聖・
当時、どちらかというと滑稽さが重視され、面白みがある方が受ける俳諧の世界において、芭蕉はそういう――切れ味のある俳諧を模索していた。
「だが、こういう山河の中に身を置くというだけでは駄目だ。というか、足りない。今少し……」
「今少し……何でござりましょうや」
芭蕉は自らの独語に答えた人物に振り返る。
見ると、そこには繁文が立っていた。
繁文は家老という大身にもかかわらず、中折れ烏帽子に腰蓑といった、野良姿だった。
「これは
繁文はあくまでも芭蕉の弟子という立場を崩さず、よほどのことでない限り、俳号「
「今少し……とは、江戸表に帰られることですかな」
「いやいや」
芭蕉としては、繁文を頼って谷村に来ている。繁文はその芭蕉に対する饗応に不満があるのか、と聞きたいらしい。
芭蕉は改めて手ぶりでそれを否定し、むしろ己の俳諧の在り方についてだと述べた。
今の滑稽さを面白がる風潮、それでいいのかと。
そうではない俳諧を考えあぐねているが、今少しつかめない、とも。
「
繁文は、芭蕉と連れ立って田んぼに行く道すがら、そう呟いた。
繁文は田んぼや用水に魚を飼うことにより、谷村の物産を殖やそうと考えていた。
そのため、このような野良姿で、その魚の様子を見に行こうという腹づもりである。
芭蕉はかつて料理人だったことから、そういう面から、何がしかの助言ができるかと繁文に同行している。
そうでなくとも、単純に魚を取ったり、雑草を毟ったりと……繁文の世話に報いる分は働いてきている……つもりだ。
「……ではやはり、先生は江戸表に戻られたがよろしい」
繁文は釣り糸を垂れながら言った。
芭蕉も隣で釣り糸を垂らしている。
今は用水に放った鯉や鮒がどうなったかを調べる、という仕事の最中である。
二人の太公望は、最初こそ俳諧について語らっていたものの、やはり俳諧となると、先ほどの芭蕉の独言に話が行き着く、といった次第である。
「……何ゆえ、
「……そりゃあ、田舎暮らしも悪くないけど、それで駄目とおっしゃるのなら」
もう一度、あの殷賑を極めた
発想は悪くない。
だが芭蕉庵は燃えてしまっている。
着の身着のまま、焼け出された芭蕉には、一文もない。
「戻られるのなら、何とかしましょう」
それこそ今度は自分が邪魔だと言われているようだと芭蕉は思った。
思ったが、流寓の身に、抗弁は無意味。
それに、繁文も何か考えがあって、それを勧めているのだろう。
「……先生は今、やむを得ない事情で谷村にいる。だから、一度、江戸に戻ってみては」
まずは江戸に戻ってみて、考えてみてはという。
江戸に戻って、何処に住むかも考えがあるらしい。
「先生のお弟子さんたちに、声かけしましょう」
繁文は
第一、芭蕉としてもそこまで世話になるわけにはいかない。
「
杉山杉風は魚屋を営む男で、芭蕉に俳諧を学んでいる。その財から芭蕉のパトロンとして、朝な夕なと食べ物を届けてくれたこともある。
その杉風が、芭蕉のためにと借地を見つけて来たらしい。
「ありがたいことです」
「……拙者ばかり、先生を独り占めするな、と杉風に言われましてな」
繁文は韜晦したが、繁文からも働きかけたらしいことは、芭蕉にも分かる。
だから芭蕉は、より一層深く、頭を下げるのだった。
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