第5話 派遣社員の現実

今朝も同じ時間に起きて、同じ時間の電車に揺られている。

どの人もひどくつまらなそうな顔をしていて、1日の始まりとは思えない表情だ。

通勤時間の電車の空気はなかなかに重々しい。

朝だというのに皆疲れきっていて、まるで仕事終わりかのようにぐったり眠っている人も少なくない。

さながら監獄行き列車のようだ。

見慣れた外の景色を眺めながら、職場が近づにつれて気持ちがどんどん沈んでいく。

今の職場に辞めるほどの嫌気がさしている訳ではない。

いざ仕事が始まってしまえば、慣れ親しんだ業務だし、それなりに対応もできる。

職場の人間関係だって良くも悪くもないし、親しくしている人もいる。

なにより新しい環境に向かうには、相当なエネルギーがいる。

一から仕事を覚えて、人間関係だってゼロから構築しなければならない。

他が今より良い保証なんてどこにもないのだ。

腹が立つことも、虚しくなることもあるけど、生活の為を思えば致し方ない。

仮に孝志と結婚したとしても、ご時世的に仕事は続けた方が良い訳だし、尚更転職に踏み切れなかった。

「来栖さん、おはようございます♪」

振り向くと、1年前に入った後輩の田口さんがいた。

今日もキレイに髪を巻いて、可愛らしいファッションに身を包んで手を振っている。

ネイルまで整えられていてメイクもキレイにされており、満員電車にいたらさぞ目を引くであろうキラキラ具合だ。

「知ってますかぁ?昨日部長に聞いたんですけどぉ、今日もまた一人、派遣社員が辞めさせられるそうですよ?」

顔を近づけて小声で私に耳打ちしてくる。

あの部長、また若い女の子とのコミュニケーションに口外禁止事項を使ったな。

ダメだって言われている事を平気でやってのけても、”めんどくさい”、”関わりたくない”で有名な部長には、もはや誰一人咎めようともしない。

何やったって完全スルーされて良いご身分だ。

「田口さんが辞めさせられる事はないから心配無用だよ」

心配なんて全くしてなさそうだけど、なんとも返事がしにくくて、そう言ってみた。

「んーーまぁ、辞めさせられても私は良いんですけどね♪働く場所なんてたくさんあるし。ここは繋ぎなんでぇ。」

口に人差し指を当てて話しても様になるのは、アイドル以外じゃこの子くらいじゃないかと感心して見てしまう。

「あ!ちなみにですけどぉ、辞めさせられるのはもちろん来栖さんじゃないですよ♪」

小首を傾げて可愛らしい笑顔でそう言われた。

キレイな白い肌は、若さという武器に甘えず、手入れがきちんとされていて同性の私でも見惚れてしまう程だった。

「来栖さんは辞めさせられることは絶対にないから安心ですね♪でもぉ、どうやら

まだまだこの流れは止まらないっぽくてぇ、部長からサボってたら田口さん危ないぞーって脅されちゃいました♪」

鼻の下を伸ばせるだけ伸ばした部長のデレデレした表情が目に見えて、朝からゲンナリした。

「田口さんがいなくなったら、うちの部署の花がなくなっちゃうから、それはみんなが必死になって止めると思うよ」

真っ直ぐ前を向きながらそう言った。


実際のところ、田口さんは働き者ではない。

普通に考えたら、この派遣切りの流れの中、優先リストに早々に入る子だろう。

毎日必ず定時ですぐに帰っているし、自分の仕事以外を率先してやることはまず

ない。

だが、男性社員からはその存在自体が必要とされていて、大変そうな事はまず押し付けられない子だった。

女性社員からのアタリはまぁまぁ強かったが、男性社員から妬みややっかみだと思われ、冷たい視線を送られ、今では裏で田口さんへの不平不満を言う人が殆どだった。

そんなこともあって、田口さんに頼めない仕事も、当然ながら”便利な来栖さん”にやってきていた。

いつ辞めても良いと思っているのも本心だろうが、辞めずにここで働いているのは

同じ部署のイケメン佐々木くんが目当てなのも周知の事実だ。

周りの目を一切気にせず、社内恋愛まで楽しめる余裕に心底うらやましいと思う。


田口さんは自分に素直な子だった。

やりたくないことは上手に断るし、帰りたい時は意志を貫き帰る子だった。

自分を大事にできている事は彼女の外見からも見てとれる。

誰がどう見たって、夜も朝も自分に時間をかけているのがわかる。

私にはそんな時間はない。

帰ったら明日に備えて夜ご飯を食べて、お風呂に入って寝るだけだ。

ネイルや髪を巻く時間があるなら間違いなく睡眠を選ぶ。

いつもより少しおしゃれするのは休日遊びに行く時くらいだ。

そんな私とは真反対の彼女だが、羨ましいと思う事はあっても、不思議と憎めない子だった。

もちろん彼女のせいで仕事が増え、振り回される時はイライラもするけど、心から嫌いにはなれない、そんな魅力を持つ子だった。

”自分の気持ちに正直なだけで、悪意なんてまるでない子だもんな…”

そんな事を思った。

今更彼女のようになれるはずもないけど、たまには田口さんに倣って無理な仕事は

断ってみても良いのかもしれない。自分の時間を優先する日があってもきっとバチは当たらないはずだ。

もしかしたら断った後に罪悪感に苛まれるかもしれないけれど、今のこの”取り敢えず来栖さんに!”という状況を少しでも変えるには、田口さんをほんの少しだけお手本にすることが利口なようにも感じた。


ドアを開けて席につくと、いつもとは違うソワソワした空気が漂っていた。

また派遣社員の誰かがいきなり切り捨てられる事は、早くもある程度広がっている

ようだった。

そりゃ、おしゃべり部長が大声でデレついていたら、情報なんてすぐにもれる。

あの”いいご身分の部長”は、女性間の噂話の広がるスピードがわかっていないのだろう。


田口さんが言うように、便利ゆえに私の首がすぐに切られる事はないと思えた。

だが、この流れが続けば今以上に私の負担が大きくなるのは目に見えている。

給料が上がるならまだしも、全く上がらないのに仕事だけが年々増えていく。

誰もができる仕事でも、量が多ければ定時までになんて終わらせられるはずがない。

今や残業なんて当たり前だし、なんなら社員よりも遅くまで残っている日だって増えていた。


もしやりたいことが見つかれば、今を変えようと湧き上がってくるものが生まれるのだろうか?

すぐにでも辞める決心がつくだろうか?

いや、そもそもやりたい事が見つかる自分が想像できない。

高校生の頃からそんなものはなかったのだ。

進路について考える時間がとても嫌なくらい、やりたいことも進みたい方向も昔からまるでなかった。


心が”もう無理だ!”と限界を迎えるまで私はここから動けないのかもしれない。

溢れそうな感情をもう何度も押さえては見ないフリをして、ここにいるメリットを

自分に言い聞かせている。

誰もがなりたい自分になれている訳ではない。

やりたい仕事をしている訳ではない。

望んだ通りの環境下で働いている人なんていないに等しいとも思う。

ましてや昔から夢なんてなかった私は、与えられた場所で頑張るしかないのだ。

皆そうやって生きているはずだ。


「来栖さん、おはようございます。早速ですがこの仕事頼めますか?」

田口さんお目当てのイケメン佐々木くんから仕事の依頼だ。

朝ということもあり、随分と静かな声、無表情な顔だ。


田口さんの視線を感じる。

佐々木くんが席に戻ると、田口さんは走って佐々木くんの元へ駆け寄った。

「佐々木さん♪おはようございます。疲れてませんか??大変なことがあったら田口も手伝いますのでいつでも頼ってくださいね♪」


好意を隠す気なんて一切ない、私の席までちゃんと聞こえる声だった。

どこまでも心に素直な子で、本当に羨ましい。

佐々木くんもまんざらでもなさそうで、先ほどとは打って変わって優しい表情を

彼女に向けていた。

大変な事・嫌な事はうまく彼女を避けていき、欲しいものはちゃんと彼女の手に

スルッと入っていく。

佐々木くんには結婚を前提としたキレイな彼女がいるが、田口さんが本気で望む

なら、佐々木さんとの結婚実現も十分にあり得る。

そんな日がきても全く驚かない自信がある。


彼女は欲しいもの全てを手にするスペシャリストだ。

そのうち、この会社もあっさり辞めて、”欲しいもの全てを手にする魔法の使い方♪”なんてセミナーを開いてそうだ。

そしてそのセミナーは、高額でも、きっと開催する度に満員御礼なのだろう。

キラキラした彼女が大勢の前に立っている姿が簡単にイメージできた。

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