第10話 少し昔の話をしよう

 中学の制服を着た俺が立っていた。

 その隣には一人の女の子が立っている。笑顔を切らさず、ただの日常会話さえも楽しんでいるような明るい女の子。

 揺れるポニーテールは今とは違い、機嫌良さげに馬のしっぽのように揺れている。

 中学時代の俺の頭は、坊主に毛が生えたよう髪型をしていた。

なるほど、部活を引退して少し経ったくらいか。マフラーが撒いていることからも、目の前にいる二人のいる季節が冬であることが察せられる。

 今からは考えられないくらいの距離感。歩いていれば手と手がぶつかってしまいそうだ。

そんな二人の姿を見ていると、毛筆に尽くしがたいような笑みが漏れた。

それと同時に、これが夢であることを悟った。

仲が悪くなる前、俺達は年頃の兄妹にしては仲が良すぎるくらい仲が良かった。

それが、なんで現在のような冷めた関係になったのか。

それにはある事件が関係してくる。


「鈴が俺を恋愛対象として見ている? 何言ってんだ、俺達は兄妹だぞ?」

「知ってるよ。ただ一部ではそういう噂が立ってるって話」

「ばからしい」

「確かに馬鹿げてるよ。でも、そう言われるだけのことはある」

「そんな素振り見たことないぞ」

「そりゃあそうだよ。僕が言ってるのは、そこじゃない」

 ある日の帰り道、クラスメイトが部活の後輩から聞いたという噂話を持ってきた。

 中性的な顔立ちのそいつはとは部活は違ったが、三年間同じクラスだった。そんな経緯もあり、中学では一番仲の良い友人だった。

 そいつが良くない噂話があると前置きをしてまでその話をしてきたのだ。ただ噂話を面白がっているようなテンションではないことは明確だった。

「鈴ちゃんの容姿、女子に妬まれるだけはあるって意味」

「まぁ、分からんことはない」

「そんな女の子が男子とは遊ばずに、いつも兄とばかりいる。噂としてはちょうどいいのかもね」

「なるほど、発信は女子という訳か」

「これは完璧な推測だけどね」

 当時、妹は学校のアイドル的な存在だった。噂ながら上級生、下級生問わずに告白をされていると聞いたことがある。

 そして、一度も告白をオーケーしたことがないということも。

 そんな女の子が毎日兄と登下校をしている。それもとびっきりの笑顔でだ。

 嫉妬に似た視線を向けられた回数は数えきれない。それでも、そんな噂を聞いたのは今日が初めてだ。

「そんな事を言っても、昔からこんな感じだったしな」

「その昔をみんなは知らないからね」

 そう言われると、反論のしようがない。

 確かに、鈴はブラコンの気質がある。

 昔から俺の後をついてきていたし、俺もそれを払いのけることをしなかった。俺からしたら、兄妹は仲が良い方がいいものだと思っていたからだ。

 ただ外野が良いと思っていないことにも気づいてはいた。

 可愛い女の子を占領している。例え妹であっても、その事実は変わらないのだろう。

 それに気づいたところで、俺にどうしろと言うのだろうか。

鈴に俺に付きまとうな、とでも言えばいいのだろうか?

そんな事を言っても、俺達の距離感が変わることはないと思うし、互いに今の関係を望んでいる。

 鈴だってもう中学生だ。その噂が気になるなら、自分から俺と距離を取るはずだ。そうではないのなら、現状を変える必要もないだろう。

 この時にもう少し深くまで考えていれば良かったのかもしれない。俺は友人からの忠告を軽く聞き流し、耳を貸すことができなかった。

 そして、問題の事件が起きるのだ。

 俺の卒業が近づくに連れ、鈴の表情には陰るものが増えていった。そして、それに伴うように鈴に関する良くない噂が増えていった。

『兄と付き合っている』、『兄以外の男子は恋愛対象に入らない』、『近親相姦をしている』。それらの根も葉もない噂が蔓延し、俺がいくら否定をしたところで噂が後を絶つことはなかった。

鈴にも俺とは距離を取った方がいいとは言ったが、造ったような笑顔でこう言うのだ。

『私は気にしてないから、気にしないで』。その笑顔は泣いた跡がくっきりと見えるような、いびつな表情だった。

鈴の心を徐々にむしばんでいく噂。鈴をいくら説得しようとしても、鈴は俺から距離を取ることはなかった。

俺がこのまま中学校を卒業したら、鈴はこれからも卒業までの間、学校中から変な目で見られ続ける。それは明確だった。

卒業までの残りの俺の中学生生活、俺に何かできることないか。

それを考えた際、俺にできることは一つしかなかった。

『吉見はいいよな、重度のブラコンの妹がいてくれて』

 偶然、鈴と廊下ですれ違った時だった。同級生の一人が俺達をからかうように大きな声でそんなことを口にした。サッカー部の副キャプテンで、女子からも一定以上の人気がある人物。

 昔、鈴に告白をして振られたという噂も健在だった。

 いつもなら愛想笑いで流しているところ。否定をしても、俺の言葉を聞くはずがない。

 そもそも、本気でその噂を信じている訳でもないのだろう。ただ鈴を貶めたいだけ。噂の真意などどうでもいいのだ。

 相手も俺が流すと思ったのだろう。

 しかし、その日の俺は違っていた。

 ある決心を元に、この機会を待ちに待っていたのだ。

「そんなんじゃないって」

「またまた、学校中で噂になってるぜ」

「本当に違うよ、そんなんじゃない」

「またまた」

「鈴がブラコンなんじゃない。俺が重度のシスコンなんだよ。鈴が俺を異性として見てたんじゃない。俺が鈴を異性として見てたんだよ。鈴に俺しか見るなって命令までしてんだぞ」

 これまでと変わらない愛想笑い。いつもなら流されていたるはずの俺の言葉が、空気を変えた気がした。

周囲の視線が一気に俺に集まる。

それは異常者に対する視線そのものだった。

「もう卒業するからいいか。俺が鈴の弱みを握って、ブラコンを演じろって言ったんだよ。鈴は可愛いからな。俺よりもカーストが上の奴らが、俺を羨ましく見るのが心地良くてな」

 つらつらと出る嘘は留まることを知らなかった。何かの役を演じるかのように、徐々に言葉にも感情が乗り移っていった。

「でも鈴、もういいや。卒業まであと数日だし、今までありがとうな。十分に優越感に浸れたし、最高の気分だった。もうお前とは通う学校も違くなるし、弱みも誰かに公表とかしないから、もう自由にしていいーー」

 ぱんと空気が裂ける音がした。

 何事かと首をそちらに向けてみると、妹がこちらを睨んでいた。そして、先程の空気を切り裂いた音が妹の平手であることに気づいた。

「……ばかっ」

 涙を流しながら睨む瞳。今日の朝まで向けていたはずの笑顔はどこへ消えたのか。

そんなものは初めから存在していなかったかのように、妹からきつい視線を向けられていた。

 正直、妹がここまで感情を出してくるとは思わなかった。

 だが、普通に考えればこんな態度を取る理由も分かるというもの。

 兄でありながら妹を異性としていていたという発言を植えたのだ。信じていたはずの兄の裏切り。それを許せないと思うのは至極当然のことである。

 真実がどうであれ、思春期の妹から嫌われるには十分すぎる理由だ。

 それから、妹は俺から距離を取るようになった。

 俺の考えなんか知るわけもないし、弁解もしようとはしなかった。

 それでいいと思ったから。

 妹が変な噂を流されるくらいなら、もう関係のない中学というコミュニティで俺が嫌われてしまえばいい。

 その代償として、妹から嫌わるのならそれでもいい。

 感情のベクトルの向きを変えてやるだけで、不思議と妹に対する噂はぴたり止んだ。

 その代わり、俺が卒業するまでの数日間はそれを濃縮したような物をぶつけられたりもしたが。

 そして、中学校を卒業してもなお、家でもそれに似たような視線を妹から向けられるようになった。

 その事件以来、妹とは仲が悪いままだ。

 いや、妹から嫌われたままだ。

 妹が俺と同じベッドで寝ることなんてありえない。

 だから、妹の態度には驚きを隠せないでいた。

 妹を異性として見ている発言をした兄。その兄に対して、同じベッドで寝ることを許す妹。

俺が困惑する理由も分かってもらえただろう。

今の妹が正気だとするのなら、妹は気づいていたのかもしれない。

異性として妹を見ている。その発言をすることで、非難を俺に集めようとしていたことに。

あの俺達の関係を切り裂いた事件の真相に。

いや、だとしたら、今こんなに嫌われている訳もないか。

馬鹿らしいと思いながら、夢の中でそんな夢物語を抱いてしまった。


「……朝か」

 窓から入ってくる光で目が覚め、僅かばかり目を開いた。

 目を開けると見慣れない天井が目に入った。

体を起こしてぼうっとした頭で部屋を眺めていると、徐々にこの場所がどこなのかを思い出してくる。

 そうだ。俺は異世界に転生したんだった。

 寝ているときに夢を見た。

 昔の俺達の夢。

 妹と顔を合わせる度に、脳裏にはあのときの妹の表情が過る。

 妹の睨む目から流れる涙。

 長年の裏切りに対するものだろう。

 そんな顔を思い出してしまうせいか、妹と目が合うと避けてしまう癖がついてしまった。

昔みたいに話せなくなった原因は、俺の方にもあったみたいだ。

 もう二度とあんな顔をさせたくないと、心のどこかで思っている。

あの時叩かれた右の頬をさすると、あのときの俺の行動は間違っていたのではないかと考えてしまう。

 いや、何も間違ってはいなかったのだろう。

 俺が中学を卒業した後、妹の悪い噂はぴたりとやんだらしいしな。

 その代わり、俺の悪評が一気に増えたとか。

 卒業しても噂されるとか、俺人気者すんだろ。

 まぁ、卒業したからもういいけどな。

「……ん」

「ふふっ、よく寝てやがる」

 漏れるような寝息に引かれ、そちらに顔を向けてみると就寝中の妹がいた。

 寝るときは背中を向けていたというのに、今はこちらに顔を向けている。

 寝相が良くないのか、警戒心が少ないのか。

 少しだけ嬉しく思い、頬が緩んだ。こんな距離に妹がいるなんていつぶりだろうか。

 そんな気持ちが湧き出たせいか、ぷくりと膨らむ頬を突きたい衝動に駆り立てられた。

そして、理性が働くよりも早く、俺はその頬を突いていた。

「んんっ」

「起きろよ、もう朝だぞ」

「んー」

「起きろって……鈴」

 あの事件以降、妹を名前で呼ぶことさえも憚られてしまった。

別に名前で呼ぶなと言われたわけではない。それでも、示し合わせたかのように妹も俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶことがなくなった。

 何があっても兄妹。考えることは似てしまうのかもしれない。

「ん、あれ? ここ、どこ?」

 頬を突きすぎたのか、もっそりと起きだした妹は半目を開けながら目をごしごしと擦っている。起き上がって辺りを見渡しているが、現状を把握できていないようだ。

「おはよう」

「ん、おはよう……ん?」

 妹は俺と目が合うと、さらに首の傾げる角度を急にした。今にもはてなマークが頭の上に見えそうだ。

それから脳味噌を再起動させるのに数秒。その後、勢い良く見開いた目を俺に向けた。

「な! なにしてっ」

 それから布団を自分に引き寄せ、自身を守るかのように布団で体を隠した。どうやら、まだ現状の把握ができていないようだ。

「それ二回目な。昨日も見たぞ」

「二回目? あ、ここって」

「そう、異世界だ」

「……そう」

 俺の発言を聞いてか、現状を把握したらしい。

落ち着いたようなぶすっとした態度で、手櫛で寝癖を直そうとしている。

そんないつも通りの妹の態度に、不思議と落ち着くものを感じた。

 妹との異世界生活二日目。

 昨日よりも俺と妹との雰囲気は悪くはないようだ。

「ちょっと。あんまり、こっち見ないで」

 ……そんなこともないようだ。

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