第42話 口癖
天文18年(1549年) 12月 清洲館
織田 三郎(信長)
織田大和守信友が清州勢を率いて信長不在の那古野城を襲い、その後、庄内川で織田信光達と死闘を繰り広げたのが数日前。
清州城に隣接する尾張守護の館に集められたのは、織田信長ら弾正忠家の者達と、尾張上四郡を治めるもう一つの守護代家・伊勢守家の面々。そこには今までであれば同席したはずの大和守家の者達の姿はなかった――。
「お、面をあげよ」
まだ声変わりを経ていない声が上座に座した少年から皆に向かって掛けられた。声の
「弾正忠家、当主代行・織田
「ははっ」
常ならばこの広間での席次は
さすがに新守護様とお目見えするに、いつもの半袴に茶筅の髪、そして腰に瓢箪をぶら下げて行くわけにもいかず、俺は久方ぶりに長袴をはき、丁寧に
「此度の逆賊、大和守を討った功績、比類なし。よって、大和守に代わり、尾張南郡を弾正忠家が治めることとする」
幼い守護に代わって近臣が此度の褒賞について声高に読み上げた。
これでここ清州も含めて弾正忠家の勢力下となった。伊勢守家とは現状、弾正忠家は中立的立場。これで今川家が事を起こしても今までほど後背を気にせず戦える。
「ありがたき幸せ……」
仰々しく頭を下げ、岩竜丸様からの声掛けを待つが、なかなかお声が掛からない。
「守護様からも労いの言葉を……」
「う、うむ……。ち、父上の仇を討ったこと……、褒めて遣わす」
しばし間が空いたが、近侍の者に促され、おどおどとそう言った若武衛。それによって儂もいつもより長く下げていた頭をようやく上げることができた。
幼い岩竜丸様は、大人衆を眼前に、まだ尾張守護職としての振る舞い方が定まらないのか少し不安げな表情をしている。大和守も言うことを聞かぬ
「今後は我ら弾正忠家が守護様を
「う、うむ。よろしく頼むぞ……」
「……、では、次に大和守家の処遇について申し上げます。大和守家は御家断絶。尾張下四郡守護代職は空位――」
かつての伊勢守家から分かれ、清州織田家として連綿と続いてきた大和守家の御家断絶。この決定に口を挟む者はこの評定の場に誰も居ない。いや……、首だけとなった大和守が広間の
「次に罪人達の処遇について――」
先日あった大和守の反逆――、我らは那古野の戦いと呼んでいるが、肝心の大和守は庄内川の
当初、
「――、罪人とその子らは全て打ち首。元服していない者らは追放とする」
関係者の処遇が確定したが、他の細かい賞罰についても同様に読み上げられてゆく。その後もしばらくの間、岩竜丸様に代わって近臣が議題を進めていった――。
「此度の評定は以上でございます。ささ、守護様
「うむ? 終わりか……」
評定の最初は緊張した面持ちで座っていた岩竜丸様だったが、あまりに長い評定にうつらうつらしていたようだ。そうして近臣に案内され広間を出て行く岩竜丸様を、皆が頭を下げて見送った。伊勢守(織田信安)殿も俺と勘十郎の両方と二言三言話し、家臣らと共にこの場を辞した。
「では兄上、某はお先に失礼いたしまする。見送りは不要にて」
「うむ。父上を頼むぞ……」
俺の声掛けにわずかに反応し、なにかを逡巡した様子の
結局この日、俺がこの広間に足を踏み入れてから弟と目が合うことは一度もなかった。
いつから
勘十郎の後を追いかけるように出てゆく末森の家臣達――、柴田権六や幾人かの者達は俺に目礼をして出て行くが、林美作守(通具)などの勘十郎の主だった配下達は黙って主人の後について出て行った。
俺から言わせればあのような家臣など無能としか評価できぬ。あれだけ露骨に態度に表せば左近の忍衆を遣わずとも誰が俺に敵対的かなど丸わかりだ。勘十郎もあのような無能共や
俺がうつけを演じているのは彼奴らのような無能を炙り出すためではない。金を稼ぎ、兵を養い大国に備える――、今川家や武田家、斎藤家のような国とやり合う下地を作るためだ。
隣家に虎が居れば警戒するが、それが猫であったならばわざわざ警戒などすまい。故に、俺は誰もが侮る”うつけ”を演じるのだ。
そうして牙を隠し、力を蓄え、いずれ治部大輔殿や左近大夫を喰らってやる。その時には俺のやる事、考える事について来れるものだけが俺の周りに居ればよい――、あのような無能な家臣共は俺には要らぬ。
「
「はっ」
しかし、敵を欺くはずが、家中の阿呆達に難儀する羽目になるとは俺も知恵が回らなかったわ。それに加えて傅役の
親父は、平手中務丞を実直、誠実、忠義者と評し、俺の傅役とした。
たしかに
うつけな俺を見放さず、常に小言を言いながらも付き従って来るのはこの男だけ――、いや、これからもそうして小言を言いながらも付いてくると信じ込んでいたのは俺の勝手であった。左近の話を聞かず、そんな
「若様、あまり気落ちせぬように。若の周りにも味方は居りまするぞ」
「……、急に何を言うか、じぃよ」
「若様の眼光鋭く、なにか思いつめたような顔をしておれらましたので」
守護様の住まう館を後にし、新たに居を移した清州城内を進んでいると、後ろを歩む
「見間違えではないか? 俺はただ、
勘十郎を担ぎ上げる者どもは「能而示之不能(能なるもこれに不能を示せ)」という言葉を知らんとみえた。かといって、すべてを俺が説明して納得させねばならぬ家臣など必要だろうか。
城の回廊を歩みながら、俺はきれいに結わいた髷をばらばらと崩すと、常の茶筅の髪に自ら戻した。後ろで
「奴らも理解できぬなら大人しくしておればよいものを」
「若様はあまりご自身の考えを我ら家臣に述べませぬから……」
「ふっ……、あのように俺に歯向かう者らが家中に居ると知っていて誰が家臣らを信用できようか」
「若様……」
だが、俺が信頼できる者共などいったい幾人いるだろうか。筆頭家老の
「たしかに
「……、それは
足早に会話をしながら歩み続けた我らは、気づけば城内のある部屋へとたどり着いた。
「若様。少なくともここに居る者らは弾正忠家のためだけでなく、
襖を開けるために
「どうか、その心意気を無下になさいませぬよう御願い申し上げまする……」
そう言い切ると、
「
「はっ……」
顔を上げた
俺はいつから家臣の表情を気に掛けなくなった? いつから
「すまぬ……。
うつけを演じていた俺は、いつの間にか本物のうつけと成りかけていたようだ。敵を思うあまりに、身近な者達を蔑ろにしていようとは。
「
「ははっ」
「……俺も奴らの顔をしっかり見るとしよう。世話を掛けたな」
「……」
「織田三郎様、
一呼吸開け、
「
俺はいつものように、脇息に
後列から、元服間もない前田家の問題児、前田
次いで、派手な着物とは裏腹に、機敏な所作の滝川
前列には御器所を治める重臣・佐久間家の
皆の顔を見ていると、自然と口癖が口を
「で、あるか……」
俺は一人ではなかった。俺を理解する者が家中にいないのではない。俺が見ていない。見ようとしていなかっただけではないか。
「此度、大和守家は無くなった」
「「ははっ」」
「次の目標は弾正忠家を俺の下に一つとすること……」
皆が普段の俺と何かが違うことを悟ったのか。唾を呑み、聞き漏らさぬよう、背筋を伸ばしこちらを伺っていた。
「勘十郎を下した後は、尾張を統一。美濃、近江を抑え畿内を目指す。皆には俺を支えてほしい」
突然の俺の宣言に
「我ら一同、殿をお支えする所存で御座います」
そんな中、代表して返事をしたのは
そうして、左近に
「で、あるか――」
守護館での論功行賞を終え、平手政秀と共に清州城へと戻った織田信長。後に第六天魔王と評されるような彼も、この時はまだ十代の青年。偉大な父親が病に倒れ、兄弟と争う政治闘争に巻き込まれてゆく彼は人間不信に陥りかけていた。しかし、滝川一益によって、本来彼のうつけの行動を諫めるために自刃した平手政秀が生き残り、織田信長の理解者として彼を支えることとなる。
そうして起きた今回の出来事。最後に信長の口を衝いて出た口癖は、諸将の耳には少し熱のこもった、そして柔らかな口調の「であるか」と聞こえていた――。
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