第33話 駿河の名君

天文18年(1549年) 9月駿府城

 太原 雪斎(崇孚)


 岡崎の後始末は鵜殿長門守、飯尾豊前守らに任せ、儂はひと足先に駿府城へと帰ってきた。


 駿府の西を流れる安倍川を渡れば眼前に広がる城下町。戦続きで戦火にさらされる昨今のみやこより栄えているとも言われる駿府城下。


 遠くに見える海の煌めき、商売人や町人達の賑やかな営みの声が響く城下町を歩けば、戦で荒れた心も多少は晴れやかになるというもの。そんな町の喧騒に後ろ髪引かれつつも進まねばならぬ儂は、旅装を解くいとまもなく、主である今川治部大輔義元様の居る館へ歩みを進める。


 通りを幾つか曲がり、やがて現れる武家屋敷沿いを抜けて館に着くと、儂が通されたのは主殿ではなく、回廊を抜けた奥にある会所の一室であった。


 「戻りを待っていたぞ、雪斎よ」


 治部大輔様は会所の脇に据えられた、丁寧に手入れされた庭園が望める一室に居られた。その部屋には幾つかの唐物の青磁、白磁のうつわが飾られている。儂が着いた時は、治部大輔様がそのうちの一つ、綺麗に絵付けされた白磁の皿を手に取り、眺めているところであった。


 「遅くなりまして申し訳ありませぬ、治部大輔様。ようやく西三河を押さえましてございます」


 矢作川東の岡崎城を拠点に西三河一帯を今川方に翻意させるのには思うたより時が掛かってしまった。これは春先の安祥攻めが失敗に終わった事なども原因か。松平を疲弊させるつもりが松平大将で譜代の本多平八郎を討たれるほどの負け戦は想定外であった。


 だが同時に、今後三河方面の奉行として岡崎城に置く飯尾豊前守乗連、山田新次郎景隆らにとっては、厄介な松平譜代が減ってやり易くなったとも言える。


 何はともあれ、竹千代が今川家で丁重に扱われているとわかれば松平家は騒ぐまい。


 竹千代の後見人には駿河朝比奈家の朝比奈親徳、奥方が治部大輔様養妹の駿河持船城主・関口刑部少輔(親永)が付くと知れば、今川家中において重用されているとわかるはず。


 「なに、時が掛かろうとも役目は確と果たすは、さすが師であるな。時を同じく、信濃征伐に打って出た大膳大夫武田晴信は上田原にて、左少将村上義清に散々に負けたと聞けば、尚のこと我ら今川家の三河平定を喜ぶべきよ」


 手元の白磁皿をまわし眺めていた治部大輔様は、儂にちらりと一瞬目線を飛ばすと、わずかに口角を上げてそう言った、


 「ほう、あの甲斐守様が負けたと……」


 前国主である父親・武田無人斎(信虎)様を甲斐から今川家に追放し、その後は北方の信濃征伐に勤しんでいた武田甲斐守晴信様。


 家督相続後は連戦連勝。破竹の勢いで信濃方を追いやっていたが、北信濃で戦上手と名高い名門・村上義清殿によって遂に手痛いしっぺ返しを食らったか。


 「ま、その後、大膳大夫は信濃守護・小笠原長時が諏訪に攻め寄せてきたところを散々に打ち破ったそうだがな。信濃守護は弓に長けた猛将と聞くが、左少将に敗れた武田に追い討ちをするはずが、返り討ちされるとは……。兵を率いるは苦手と見るべきかな」


 手元の白磁を、ゆっくりと元あった場所へと戻した治部大輔様は、儂へ向き直るとそう問いかけてきた。


 「そも、守護様自らが陣頭に立って戦う必要など御座いませぬ。武勇名高い守護など、聞こえは良くても実利はないかと……」


 武略を好むのは良いが、それが匹夫の勇ではな……。治部大輔様や甲斐守様のように自ら国主として家臣らをまとめられるならまだしも、信濃北部の村上家、諏訪大社の諏訪家、木曽谷の木曽家などと群雄割拠する信濃をまとめられぬ小笠原では、苛烈な甲斐守様には勝てぬだろう。


 「はははっ!! 相変わらず、師は厳しいのぉ」

 「治部大輔様もそれはお分かりのはず」


 河東、三河を平らげ、三国にまで拡大した家中をしっかり纏め上げておる治部大輔様だが、儂の前では時々幼い子供のようにころころと闊達に笑われる。かつて父親・今川氏親様によって出家させられ栴岳承芳義元の道号として、九英承菊と名乗っておった儂と共に京の建仁寺にった幼き日のようにな。


 「はははっ。ふぅ……、わかっておるよ。それ故に儂も西を師に任せ、駿河・遠江の政務や武田、伊勢(北条)とのまつりごとに取り組んでおるのじゃ」


 ひとしきり笑った治部大輔様は一息つくと、また、白磁を眺めていた冷静な太守の顔つきに戻り、そうおっしゃった。


 立派に成長した弟子を見て、儂はふと昔を思い出す。治部大輔様のこの器量の良さで、あのまま僧としての修行を続けていればどんなに立派な高僧となったであろうか。


 そのようなことを考えても意味はないとは思いつつ、同時にかつて承舜和尚雪斎の師に何故、師は時々雪斎の弟子時代を見て遠い目をされるのかと問うた記憶を思い出した。


 それに対して師は、「歳をとると昔をよく思い出す。特に弟子の成長を目にするとな。いずれわかるぞ、承菊太原雪斎よ」と答えていたな。師の言っていた歳を取るとはこういうことだろうか……。


 一瞬ではあったが、昔の思い出に耽る儂の目を不思議そうに覗き込む治部大輔様の視線に、儂は意識を引き戻された。


 「……わかっていだだければ結構で御座います。しかし信濃の件はあまりにも最近の出来事の話、それも負け戦の事を甲斐守様が我ら今川に漏らすとは思えませぬな……。大方、御舅武田信虎様からお聞きになられたのですかな」


 儂は治部大輔様の視線から逃れるように、話題を此度の甲斐の話へと切り替えた。


 今は甲斐守のもとでまとまった武田家だが、その家督相続にはひと悶着あったのだ。


 端的に言えば嫡男・武田大膳大夫による父親の駿河追放。武田陸奥守(信虎)様、今は出家して無人斎道有と名乗っている治部大輔様の舅の追放である。


 色々な理由があっての事なのだろうが、当時、甲斐守様の父である武田無人斎(信虎)様は甲斐をまとめるのに辣腕を振るい外征にも積極的であった。それ故、反発する甲斐の国人衆が大膳大夫を担ぎ上げたという噂や、はたまた、大膳大夫武田晴信を疎んじ、二男の武田典厩(信繁)を当主にしようと画策した無人斎武田信虎様を先手を打って追い出したという噂など、本当のところは明らかではない。


 だがしかし、今も毎年、甲斐守様は今川へ父親を預ける化粧料小遣いのようなものとして甲州金と呼ばれる金を幾らか送ってきているのが現実だ。


 「如何にも。大膳大夫は負け戦を外部に漏れぬように苦労しておるようだがな。御舅殿武田信虎に情報を流す者達までは統制しきれぬようじゃな」

 「しかし、無人斎様はその情報、対価を求めず伝えてきたので? あの御仁が対価もなく今川にするとは思えませぬが」


 国を追いやられたとはいえ、幕府に通ずる人脈や甲斐国人衆への影響力は今も健在。さらに数年前には、幕府相伴衆として上洛、その後は上方遊歴と称して京都・奈良を巡り、有力者達と誼を結び帰って来たかと思えば、駿河で子を成し、子・武田六郎(信友)を駿河武田家当主にすべく養育している精力的なお方じゃ。


 「御舅殿のあれ笑みは裏のない顔つきだったな。なんでも、三河の祝いだと言っておったわ」


 常にぎらぎらと謀略を巡らせようとしているような、老獪というに相応しいあの御仁が、対価も示さずに当家に利する情報を寄越すとは……。


 「……師よ、そのような顔をするでない。儂も不審には思ったが、義父上は大層嬉しそうにこの話をしておってな。なんでも上田原では義父上の追放に加担した甘利虎泰、板垣信方らが討ち死したそうで、それが嬉しくてたまらなかったそうじゃ」


 なんとも言い難い理由ではあるが、無人斎様のねちっこい笑みと靦然たる振る舞いを思い出せばそのような理由で喜ぶ様も目に浮かぶ。


 「……あの方の性格を考えれば、本当にそれが理由だと思えますな。大方、治部大輔様にも伝えることで、その喜びを分かち合える者が欲しかったのでしょう」

 「追放された御舅殿の鬱屈した気持ちもわからんでもないが……、あまり良い性格とは言えんな」


 やや呆れた様な物言いで外の庭園へと目線を移した治部大輔様。


 だが無人斎様のそうした恨み辛み、鬱屈した気持ちがあの御仁の今もなお、精力的に行動する力の源になっているのかもしれんな……。


 「とはいえ、元国主であり、幕府とも関係が深い御仁で御座いますれば、扱いにはご注意くだされ」

 「わかっておる。それに武田との縁を繋ぐ大事な人物であるのも事実。もう少しで松(嶺松院)義元の娘の甲斐への輿入れも決まりそうじゃ。義父上には松の祖父として腰を折ってもらねばならぬしな」


 普段から大切にしている娘の嫁入りだと言うのに、やや面倒くさそうにそう言う治部大輔様。


 そんな治部大輔様を見て、儂も思わず苦笑してしまう。おそらく治部大輔様と儂の頭に思い浮かんだものは同じはず。


 僧とは思えぬ達磨の様に恰幅の良い体つきで、綺麗に剃髪された頭を光らせながら、いつもにやりと笑って現れるそのお人。


 不敬ではあるが、主人にそんな仕草をさせてしまう原因は、あのねちっこい笑顔と共にやってくる厄介な御舅様武田信虎であると勘繰ってしまうのだった。

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