私は煙草だった。チーズになりたかった。

蛍さん

私は煙草だった。チーズになりたかった。

「なんで煙草を吸うの?」


 ずっと前、彼にそう聞いたなあと私は思い出した。

 あれはそう、付き合ってすぐの時だった。


 その時、彼は考え込んだ。

 きっと、少し斜め上を向いて目を瞑っていたはずだ。それが、考えるときの彼の癖だ。


「うーん、そうだな…

 君は多分、煙草を俺にとってのチーズみたいなものだと思ってるんじゃないかな」


 彼はやけに自信ありげにそう言ったが、私は何もわからずに小首をかしげた。


「俺はネズミだとして、煙草はチーズだと君は思ってる。好物みたいなね。

 でもそうじゃないんだ。煙草は…空気とか水みたいなものなんだよ。必需品なんだ」


 私の返答も待たずに、彼はそう続けた。

 そもそもネズミに例える必要があるのかも疑問だったが、何となく意味が分かって来たので、私は「そうなんだ」と答えた。

 へたくそな例えだとかそういったことは、彼の鋭利な横顔を見ているとどうでも良く思えた。

 当時は、意味の薄いやり取りが好きだった。凄く。



「なんで煙草をやめたの?」


 懐かしさから抜け出した私は、彼にそう聞いた。


 薄暗く肌寒い夜の部屋の中で、二人とも裸でいて、そういう滑稽ささえ愛しいなあと思っていた頃だった。


「将来家族を残してさ、真っ黒な肺で死んでいくのは凄く申し訳ないなと思ったから。後高いしね」


 そういって彼は少し笑った。思い出の彼の横顔より、どうやら太ったみたいだった。

 私は、肺が真っ黒なまま死んでいくのが、彼らしいのにと思って、「ふーん」と気の抜けた声で返した。


「どうしてそんなことを聞くの?」


 彼は心底不思議そうな顔で尋ねて来た。とても、優しい目をしていた。


「昔さ、付き合いはじめの頃『俺がネズミだとして、煙草はチーズじゃなくて水や空気なんだ』って話してたの、覚えてる?

 なんでかわからないけど、今思い出してさ」


「ああ、うん。何となく、覚えてるよ。

 なんだか、今聞くと、へたくそな例えだな」


 こちらに目線を向けて笑う彼に、「今も下手だよ」と言って私も笑い返した。

 彼は、懐かしむように手を合わせながら言った。


「当時は煙草を手放せなかったからなあ。」


 彼は凄く寂しそうな顔をしていた。多分、私も。

 それから暫く沈黙が続いて、私は口を開いた。


「私は君にとって、チーズだった?」


 少し、涙で声が揺れていた。

 彼は酷く驚いた顔をして、斜め上を向いて目を瞑った。

 この癖を見るのは、なんだか凄く久しぶりだった。

 彼はその整った唇を開いて、閉じて、もう一度開いて言った。


「うん。チーズだった」


 彼は目線を合わせずにそういった。彼も泣きそうな声をしていた。彼はとても優しいから。


「そっか」


 私はそう言って、彼と布団にもぐった。

 その晩、下着だけで私たちは抱き合って寝た。



 翌朝、私は大きなスーツケースを持って、玄関の扉に手をかけていた。

 中には、彼の部屋に置いていた服や歯ブラシが入っていた。


「忘れ物、ない?」

「うーん、多分。あったら捨てといて」


 そういって笑う私に、彼は何かを言いかけて、結局やめて、「分かった」と答えた。


「じゃあ、ばいばい」

「うん、ばいばい」


 手を放して、玄関の扉が閉まった。手を振る彼は、もう見えない。

 私はエレベーターを降りて、マンションを出て、左に曲がって歩き出して、階段を登って、そして歩道橋の上を歩いた。

 歩道橋の上で私は泣いた。

 からっぽの胸が、ぐつぐつと音を立てていた。


「チーズになりたかったなあ」


 唇から、言葉がするりと抜け出した。

 チーズになりたかったんだ、私。煙草じゃなくて、チーズになりたかった。

 チーズになりたかったの。

 私たち、大人になりすぎてしまったの。


 もう、煙草はいらないの。

 ずっと前から、わかっていたの。

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私は煙草だった。チーズになりたかった。 蛍さん @tyawan-keisan

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