13.幸せを願う少年
……とある日の日曜日。俺は久しぶりに“あの人”へ会いに行く約束をした。
11月1日。この日が、初めてあの人とお会いした日だった。だからちょうど今日で二年目になる。
「…………ここだ」
たどり着いた先は、昔しばらくの間お世話になっていた児童相談所だった。ここに来るのも一年振りくらいだな……。
俺は窓口へと行き、「すみません、渡辺 明さんはいますか?」と尋ねた。
すると窓口の人は「わかりました。お席にて少々お待ちください」と言って、執務室の奥の方へと歩いて行った。
俺は窓口の前にあるベンチに座って、スマホを眺めながらその人を待った。
そのスマホには、カウンセリング部の今後のスケジュールが書かれているカレンダーが映されている。
(えーと、明日と明後日には相談者がそれぞれいて……水曜日が空いてるのか。じゃあ、その日は部員みんなで打ち合わせでもしようかな)
そうしていろいろと考えを巡らせていた時、背後からぽんぽんと肩を叩かれた。
ふっとそちらの方へ顔を向けると、児童相談所の職員である男性……渡辺 明さんが立っていた。
「やあ中原くん!久しぶりだね!」
彼はそう言って、にこやかに笑っていた。
「お久しぶりです、明さん」
「今日はなに?何か俺に用事でもあった?」
「いえ、ただ……少し話をしたいなって」
「おー!そかそか!じゃあなんだ、ここじゃあれだし、いつもみたいに外に行かない?ジュースでも奢るよ」
「いえ、そんな俺は……」
「いいからいいから!さ!行こうぜ!」
そうして俺は、明さんに連れられて外へと出た。児童相談所の裏口にある、車が一台もない駐車場へと二人で行き、その近くにある自動販売機で明さんにジュースを奢ってもらった。
「中原くん、コーラが好きだったよね?」
「ええ、よく覚えてますね」
「そりゃ覚えてるさ。ほい、コーラどうぞ!」
「ありがとうございます」
「俺も今日は、コーラにしよっと」
そうして俺たちは、建物の壁に寄りかかって、コーラの蓋を開けた。
「うわっ!?」
すると、明さんのコーラが、ペットボトルからめちゃくちゃ吹き出していた。しゅわしゅわと溢れるコーラが、地面にばしゃばしゃと落ちていく。
「あわあわあわ!ひえー!なんてこった~!」
「明さん、ペットボトル振っちゃいましたか?」
「いや、全然振ってないんだけどなあ……。え?中原くんのは何ともないの?」
「ええ」
「くそー!俺、コーラに嫌われてんのかな~!?」
ズボンのポケットからハンカチを取り出して、「ああ……俺のコーラ……」と、本気でしょんぼりしている明さんを見ていると、なんだか口許が緩んでしまう。
ドジなところが前から全然変わってなくて、少し安心する。
(……昔はこうして、明さんとこの裏口の駐車場で、話をさせてもらってたっけ)
大して年月も経っていないはずなのに、ずいぶんと昔のように感じる。それだけ俺の身の回りの環境は、大きく変化してしまったんだろう。
「いやいや、それにしても中原くん……元気そうだね」
不意に、明さんは俺の顔を見てそんなことを言い出した。俺が「そうですか?」と訊くと、明さんは笑って「そうさ」と返した。
「なんていうか、穏やかになった。雰囲気がね」
「……………………」
「君が前の環境よりも幸せになれたのなら、嬉しく思うよ」
「……………………」
俺は、明さんから視線を逸らして、コーラをぐっと口に入れた。喉奥を強い炭酸が弾けて、ビリビリと痛む。
「どうだい?中原くん。白川夫妻との生活は」
白川夫妻……それは、今俺を養ってくれているおじさんとおばさんのことだった。
その二人の元で俺が暮らせるよう手配してくれたのも、この明さんだった。
「……時々、考えてしまうんです。俺があそこにいていいんだろうか?って」
「……………………」
「今まで、親父やお袋に毎日ぶん殴られる生活から一変して、あんなにあったかい家庭に連れてかれて……。なんだか、全部がテレビの向こう側のように感じるんです」
「テレビの向こう側?」
「昔、憧れてたんですよ。映画とかドラマに映るあったかい家庭に。俺は本当はここの家の子じゃなくて、きっと本当の親が別にいて……こんな風に暮らせる日が、もしかしたら来るかも知れないって。でも、いざ実際に来てみると、困惑してしまうものですね」
「……………………」
「それに、映画やドラマと違って、現実は皮肉なもんです。俺を死ぬ寸前までぶん殴ってた奴らが本当の親で、優しくしてくれるおじさんたちは、何の血の繋がりもない人たちなんて……」
「……そうだね、現実は皮肉な目に遭うことが多い。唐突に来る理不尽に泣いて、不意に訪れた優しさにまた泣く。そんなことがたくさんある」
明さんは、コーラのペットボトルに少しだけ口を着けて、蓋をした。そのコーラを持つ右手の薬指には、指輪がはめられていた。
「……ご結婚、されたんですね」
「え?ああ、そうそう。ついこの前、やっと籍を入れたよ」
明さんは照れ臭そうに、でも……本当に嬉しそうに微笑みながら、自分の指にはめられた指輪を眺めていた。
「……おめでとうございます、明さん」
「ああ、ありがとう」
「羨ましいです、本当に」
「羨ましい?」
「ええ。俺にはまだ……そういう……恋人とか、いませんから」
「そう?でも、好きな子とか、学校にいたりしないのかい?」
「……そうですね、イマイチまだ、わかりません。というか、恋自体がよくわかりません」
「恋自体が?」
「はい。そういう経験、今までできてませんでしたから」
「……興味はあるのかい?」
「……ええ。最近……そういうのも興味が出てきました」
「そっか。なに、焦ることはない。恋はいつどこで起こるかわからないからね。案外、すぐ身近なところで起きたりするもんさ」
「……………………」
「……ふふ、中原くん」
「はい?」
「『自分が好かれたとしても、それを受け入れられるだろうか?』って、そう思ってないかい?」
「!」
俺は、心の中に秘めていた不安を言い当てられて、思わず顔が強張った。
「中原くん、いつだったか俺に言ってくれたね?『人とのコミュニケーションは喧嘩しかないと思ってた』って」
「……ええ」
「ずっと君は、親と戦ってきた。相手が大人だったから、腕力では全然敵わなくて、いつも言葉で勝とうとした。口論で相手を言いくるめるために、毎日毎日死に物狂いで理論武装していた。そうだったね?」
「……………………」
「そのせいか、君は非常に観察力に優れているし、めちゃくちゃ口達者だ。でもそれは、自分の気持ちを表現するための口じゃなく、他人と戦うための口だった」
「……………………」
「だから昔の君は、周り全部が敵に見えていた。特にここへ来たばかりの時の君は、誰にでも噛みつきそうなほどに、鋭く凄まじい眼をしていた」
「……すみません、明さんたちにはご迷惑を……」
「いやいや、いいんだよ。君は何も気にしなくていい」
明さんはにっこりと笑って、俺の丸まっている背中を優しく撫でた。
「中原くん、君の次のステップが、そろそろ始まったんじゃないかな?」
「次のステップ?」
「君はここへ来て、周りの人間が敵ばかりじゃないことを学んだ。今度は、他人の愛を受け入れることが、次のステップだと思う。だからきっと、恋愛にも興味が出だしたんだ」
「……………………」
俺は、コーラを全部飲み干して、空になったペットボトルを両手で緩く握った。
「……今、俺……カウンセリング部っていうのをやってるんです」
「カウンセリング部?」
「はい。悩みのある人の話を聞く部活を、自分で作って……今それの部長をしています」
「おお!すごいじゃない!へー!カウンセリング部ね!とても君に合っていると思うな!」
「そうですか?」
「さっきも言ったように、君は観察力があるし言葉も巧みだ。そして何より、ひどく苦しんだ経験がある」
「……………………」
「本当の苦しみを知り、それと向き合った人間は、どこまでも強く……優しくなれる。きっと君なら、相談者に心から寄り添えて、その人を元気にできる言葉を使えるはずだよ」
「……………………」
「……?どうしたんだい?」
「いや、その……。実はその部活に、この前三人の女の子が入部してくれたんです」
「ふむふむ」
「三人とも、元は相談者としてカウンセリング部に来てくれて、今は部員として活動してくれてます」
「ほうほう」
「……実は、その三人が入部してくれた時から、なんとなく……恋愛のことを、意識し始めたんです」
「恋愛のことを?」
「はい。みんなそれぞれに、悩みや苦しみがあることを知っていますし、みんなが俺を好意的に思ってくれていることも、どことなく察しています」
「うんうん」
「俺も俺で……みんなのことを好き……というか、なんでしょう?うーん……その、恋愛的な好きかどうかはわかりませんけど、とにかく、みんな幸せになってほしいと思ってるんです。みんなそれぞれに優しい面や可愛らしい面があって、とてもいい人たちです。そんな人たちが理不尽な目に遭ってるのが、すごく許せないんです」
「なるほど……」
「だけど……その、みんなの幸せを願うのって、ずるいような気がして……」
「ええ?どうして?」
「だって、なんか……浮気、じゃないですか?」
「浮気?」
「自分が好意を持つ相手が三人もいるって、変……じゃないですか?相手の三人にも失礼ですし……。まあ、みんなが俺に恋愛的な好意を抱いてるかどうかはわからないんですけど、それとは別にしても、純粋に俺が三人のことを頭に浮かべているのは、よろしくないと思って」
「うーん、そうだなあ……」
明さんは苦笑しつつ、腕を組んでいた。
「まあでも、中原くんはまだ、恋愛的な好意かどうかはわからないんでしょ?」
「ええ」
「なら、とりあえず幸せになってほしいと思う気持ちに、従っていいんじゃないかな」
「そうですか?」
「うん。だって、その気持ちに嘘はないんでしょ?」
「はい」
「ならそれでいいさ。本心は本心だ、ねじ曲げるわけにはいかない」
「……………………」
「いいかい?中原くん。人を助けたい、幸せにしたいと思ったならね、迷わないことだ」
「迷わないこと……」
「ああ、一瞬たりともね」
「……………………」
「もしかしたら失敗して、その人に嫌われてしまうかもしれない。その人を傷つけてしまうかもしれないって、そう恐れる気持ちはわかる。だけど、そこで迷ってたら何もできなくなる。後から『やっぱりやるべきだった』なんて思う方がずっと辛いからね」
「……………………」
「それに、たとえやり方を間違って、その人に嫌われたとしても、自分のことを誇れるさ。『俺はやれるだけのことをやって、嫌われた。幸せにしようとして全力を尽くしたんだ。ならば後悔はない』ってね」
明さんの眼は、優しくもすごく真剣で、真っ直ぐに俺の心を射貫くような強さがあった。
「後悔というのはね、いつだって全力を出せなかった時に生まれるものだ。全力を出し切って相手を想えたなら、相手がこっちに対してどう想っていようが、怖くなくなる」
「全力を……」
「ふふふ、なーに、中原くんなら大丈夫さ。過酷な環境の中でも、必死にもがいて生き残ろうとする強さがある。その強さを、他の人にも分けてあげたらいい。きっと君の周りの人たちは、君のお陰で元気になれる」
「……………………」
「それに……中原くん。君だって幸せになっていいんだ」
「!」
「他人のことを幸せにしたいなら、まず君自身の幸せを願うんだ。幸せにしたいと願う本人が、幸せというものがなんなのかを知らなければ、他人に幸せを教えられないだろう?」
「……………………」
「大丈夫、君ならできる。俺は心からそう思っているよ」
……気がつくと、明さんとは二時間も話し込んでいた。さすがに明さんもそろそろ会議が始まるらしく、仕事に戻らないといけなくなった。
「それじゃあ明さん、今日はありがとうございます。仕事中にいきなり押し掛けてすみませんでした」
「いいよいいよ、中抜けで休みを貰うことにするし、何も気にしなくていい」
「でも……なんか、何も返さないのも、俺モヤモヤします」
「うーん、そっか」
明さんは少し考える仕草をした後、「あっ、そうだ」と言って、俺に笑いかけた。
「今度、コーラ奢ってよ。今日全然飲めなかったから」
俺はふふっと笑みを溢して、「わかりました」と答えた。
そして、明さんに見送られながら、俺はその場を後にした。
……清々しく晴れた青い空を見上げながら、なぜ俺は明さんに会いにきたのか、理解した。
『君だって幸せになっていいんだ』
この……たった一言。簡単で短くて、すぐに言えてしまうその一言を……
きっと、聞きたかったんだ。
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後書き
渡辺明の過去編
「生意気な義妹がいじめで引きこもりになったので優しくしたら激甘ブラコン化した話」
https://kakuyomu.jp/works/16817330654188843832
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