9.自覚とライバル(2/2)
……あたしはその日、一日中考えていた。
中原にADHDであることを、打ち明けてみようかって。
『これは俺の勝手な推測だけど……今、北川さんにいろいろ言葉を投げかけても、あまり意味ないっていうか……君にとってはただうざったいだけじゃないかなって』
『なら、黙って隣にいる方がいい。そう思ったんだ』
発達障がいで、全然いろんなことが上手くできないあたしの隣に、黙って座ってくれたのは……あいつだけだった。
みんな、誰も彼もが、あたしが“普通”になるように叱ってくる。
『なんでこんなこともできないの?先生の言うことちゃんと聞いてた?』
『ママね、真理は普通の学校にお前を通わせようと思うの。だって、障がい者用の学校だと、ご近所に恥ずかしいもの。ADHDって言っても軽度なんだし、普通にやれるわよね?』
『北川って頭おかしーんじゃねーのー!?』
『イカれてらー!イカれてらー!』
「……………………」
普通っていうのが、そもそもあたしには苦しい。みんなと同じになれない。いつもいつも、あたしだけ置いてきぼり。だから、今まで誰も隣にいてくれなかった。いっつもみんなに前を走られて、それに追いつこうとして必死だった。
でも、中原だけは……隣に座った。あたしが発達障害がいだと知ると、いい人ぶってなんのかんのとあたしに言う人はいるけれど、中原はあたしが発達障害がいだと知らなくても、優しくしてくれた。
(打ち明けられたら……あたしはもう少し、楽になれるのだろうか)
そういう思いを抱えながら、あたしは放課後に、カウンセリング部前へと来ていた。
「……?」
でもその扉の前は、なんかよくわからない状況だった。
灰色の髪をした女子が床に座ってて、なぜか泣いてる。そんで中原が隣にいて、慰めてる?風な感じだった。
あたしは、その女子の顔をまじまじと見て、一番最初に思ったのは……「昨日会った気がする」ということだった。
確か昨日の帰り際、この女子を見たような……?理由はよくわからないけど、こっちをじっと見られてたはず。あんま覚えてないけど。
(てか……なんか、結構かわいいじゃん)
目はくりっとしてるし、丸顔だし、フツーにかわいらしい。でも目元のクマとか涙袋が大きいところとか、あっとめっちゃ色白なところから、幸薄そうな雰囲気がすごい出てる。
それにしても、何があったんだろ?
「……何してんの?中原」
あたしがそうやって尋ねると、中原は顔を上げた。
「ああ、北川さん。いや、ちょっと取り込み中で……何か相談事があった?」
「いや、相談とかじゃないけど……中原に言いたいことがあって」
「言いたいこと?」
「うん」
「……そっか、ごめん。もし緊急でなかったら、明日以降でもいいかな?今日はちょっと難しいかも」
「……………………」
まあ……それは普通に、あたしもわかっていた。だってあの子、どう見てもヤバそうな感じだし。
仕方ないかと思いつつ……あたしはちょっと、むすっとしてしまった。
あたしだって、大事な用だった。中原に聞いてもらおうと思って、心の準備をいろいろしてた。でも……今日はあたしじゃないんだ。
「……………………」
「……北川さんも、もしかして……大事な用事だった?」
……あたしの顔を見つめてくる中原から目をそらして、こくんと頷いた。
「そっか、北川さんもか……うーん、困ったな」
「……………………」
「……でも、うん、本当に申し訳ないけど、先約の西田さんを優先したい。なるべくここはフェアに行きたい」
「……………………」
「明日また、必ず話を聞くよ。あ、もしなんだったらLime交換しない?そっちで教えてくれたら、家でも……」
「……………から」
「え?」
「すぐ、終わるから」
あたしは、唇の先を尖らせて、中原に駄々をこねた。絶対すぐ終わらない話になりそうだけど、でも……こうやって言えば、今すぐ聞いてくれるかも知れない。そういう嫌な駆け引きをしてた。
「すぐ……終わる?」
「1個だけ、1個だけ質問っていうか……聞きたいだけ」
「……………………」
中原は腕を組んで、眉間にしわを寄せていた。そんな時、あの灰色の髪をした女子が、鼻をすすりながら言った。
「いいよ、中原くん」
「西田さん?」
「すぐ終わるんだったら、私……待てるから」
「……そう?」
「うん」
「……………………」
「だから、先にその子を……」
「……わかった、ありがとう西田さん」
そうして、中原はあたしに向かって尋ねた。
「ごめんよ北川さん、お待たせして」
「……………………」
「話す場所は、ここでいい?」
「……うん、中原にしか聞こえない声で言うから」
「わかった。それじゃあ……北川さんの言いたいことって、なんだい?」
「……あの、実はあたし…………」
「うん」
「……あたし…………」
「……………………」
───ADHDなんだ、と……そう言おうとした。
でも、できなかった。
この土壇場に及んで、あたしはまた怖くなっていた。
「うわあ……発達障害がいなんだ。この人は頭がおかしいんだ」って感じで引かれる顔。いつもいつも、あたしがカミングアウトするとそんな顔をされた。
その顔が一気にフラッシュバックしてきて、口が全然開かない。
(……あたし、中原に打ち明ければ楽になると思ってた。何か状況がよくなるんじゃないかって、そう思ってた)
でもよく考えたら、楽になるっていうのが、そもそもどういうことかわからない。だって、中原に話したところで、物理的にあたしのADHDがなくなるわけじゃない。
あたしはいつも通り、無様なあたしのまんまだ。出来損ないのあたしでしかないんだ。
「……………………」
あたしは、スカートの裾をぎゅっと握って泣いた。
歯をぐいっと食い縛って、なんとか泣かないように頑張ったけど、このうざったい滴は延々垂れ続ける。
「北川さん……?」
「ぐすっ……ああもう!意味わかんない……!うざいってばもう!」
「……………………」
「ダルいダルいダルい……!ああイライラする!」
あたしは手で濡れる顔を拭いた。でも、拭いても拭いてもまた濡れてる。
頬が怒りでぴくぴくと揺れて、頭が熱くなる。
これだから、いつまで経っても自分が嫌い。
「ぐす、ぐすっ……」
「……………………」
その時……あたしの背中が、ふっと温かくなった。
中原が、自分の学ランを脱いで、あたしに着せてくれていた。
「……今は、これくらいしかできないけど」
「………………中、原……」
彼は腕を組ながら、廊下の壁に背中をつけた。そして、口をへの字にしてうんうんと唸っていた。
「うーん……ここで北川さんの話を明日にしていいものか……?でも俺、絶対後悔しそう……。こんな状態で北川さんを放っておけるわけがない……」
「……中原」
「でも、西田さんもめちゃくちゃ心配だし、先約だった西田さんに申し訳ないし……西田さんも放っておけない……」
「……中原くん」
「くそー!どうするべきなんだ……!」
中原は、めちゃくちゃ悩んでいた。しばらくの間、あたしも灰色髪の女子も、中原のことを黙って見ていた。
「……よし!」
中原は両頬を叩いて、灰色髪の女子とあたしのことを交互に見ながら、こう言った。
「西田さん、北川さん、とりあえずコーヒー飲みたくない?」
「「え?」」
「この廊下でただじっとしてても寒いでしょ?だからまず、部室に入って温まらない?」
「「……………………」」
「先約だった西田さんにも申し訳ないし、俺以外に人がいて緊張させてしまう北川さんにも申し訳ないけど、まず一旦、俺は二人にコーヒーを淹れたい。細かいことはそれから決めよう」
……あたしとその西田って子は、その時初めて目を合わせた。そして、特に断る理由もなかったので……中原の案を受け入れることにした。
「……はい、二人ともどうぞ」
あたしと西田の前に、コーヒーカップがひとつずつ置かれた。
ゆらゆらと湯気が立っていて、温かそうだった。
「ありがとう、中原くん」
「うん、どうぞどうぞ」
西田はコーヒーを手に取って、静かに飲んでいた。
「うん、美味しい……」
「そっか、良かった」
「ごめんなさい、私……中原くんからココアも貰ってるのに、コーヒーまで貰っちゃって」
「あー、いいよいいよ。ココアはすぐ温かいのを用意したくて買っただけだから。本当はこうやって、ちゃんとポットで入れたコーヒーとかを出したかったんだよ」
「この部室、ポットなんてあったんだね」
「ああ、これは今日、俺が家から持ってきたんだよ。相談者が飲める用にね。あほら、北川さんも遠慮なく」
「……うん」
中原から勧められて、あたしもコーヒーを口にした。
温かいコーヒーが、舌を通って喉へと降りるのを、熱で体感していた。
「……今日は、二人ともごめんよ」
中原はテーブルの中央にお皿を置いて、そこにたくさん一口チョコを盛りながら謝っていた。
「とても優柔不断な態度だった。もっとこういうのはきっぱり断るなり承諾するなりしないと、二人に不安を与えちゃうよね」
「ううん、気にしないで中原くん。私……嬉しかったよ」
西田はコーヒーカップをテーブルに置いて、中原へ言った。
「中原くんは、やっぱり優しい人なんだなって思ったもの。困ってる人を放っておけないんだなって」
「いや、うーん……優しいのかな?最善だとは思ったけど、本当の意味で優しいかどうかは、まだ今の俺にはわからない」
「……………………」
「はい、チョコも山盛りあるから、遠慮なくたくさん食べてね」
そう言って、まず真っ先に中原がチョコをひとつ頬張っていた。
……それからあたしたちは、しばらく何も話さなかった。ただしーんとした時間が過ぎていった。
でもそれは、別に嫌な静けさじゃなかった。コーヒーを飲んで温まると言った……そういう穏やかな静けさだった。
「……どう?北川さん」
コーヒーも半分ほど飲んだくらいの時間に、中原がそうあたしへ問いかけてきた。
「気分の方は大丈夫?落ち着いた?」
「……………うん」
「そっか、良かった。さっき話そうとしてたこと、今なら話せそう?」
「……………………」
あたしは、ちらりと隣にいる西田へ目をやった。
「……いや、今日はいいや」
「え?」
「また別の日に、ちゃんと話す」
「そう?」
「うん。すぐ終わるって言っちゃったけど、それ……嘘だったから」
「嘘?」
「あたしの話をすぐに聞いてほしくて、嘘を言った」
「……そっか。じゃあ、本当にまた今度で大丈夫?」
「うん」
「わかった。それじゃあ、その時また教えて」
「うん」
中原は、優しく微笑みながら頷いてた。そして、今度は西田の方に向かって問いかけた。
「西田さんはどう?落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
「大丈夫?話したいこととか」
中原がそう言った直後、あたしは西田に対してこう言った。
「……もし、あたし居ない方がいいなら、出る」
「え?」
「あたしに聞かれたくないことがあったら、出るから。部室」
「……………………」
西田はあたしのことを、目を真ん丸にして見ていた。そして、少しの間考えたら後、中原へこう返した。
「……中原くん、私も大丈夫」
「え?そうなの?」
「具体的に何か話したいことがあるわけじゃなくて……昔あったこと……中原くんに前話した時のことを思い出しちゃって、情緒不安定になってたの」
「……………………」
「でも、中原くんに会えて、安心できた。だからもう大丈夫」
「……本当に?遠慮しなくていいんだよ?」
「うん、本当に」
「……………………」
「中原くんのお陰で、元気になれたよ。本当だよ」
「……そっか、わかった。西田さんがそう言うなら、俺はそれを信じるよ」
中原はそう言って、あたしたちに笑いかけた。
「……………………」
その時……あたしの胸が、またチクッと傷んだ。
それはいつもの罪悪感じゃなくて、何か……別のものだった。
中原が……女の子に笑いかけている。それに対して、ちょっと変な……不思議な痛みがあった。
(なんだろう?これ)
今のあたしには、よくわからなかった。その感情がなんなのか……自覚するにはまだ少し早かった。
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